―――― 願 い 事 は 宙 に


 いつもの日々が戻ってきた頃。つまりアイの仕える真夫人が後宮に元のように住まい、毎日を忙しく笑い声を上げながら過ごし、その夫で主君たるキヨツグ・シェン天子が度々彼女の機嫌を窺いに訪れ、少年少女にも見られないような初々しい夫婦ぶりで周囲に笑顔を提供するようになった頃。
 真夫人付き筆頭女官であるアイは、筆頭補佐のセリに仕事を預け、休憩を貰っていた。大方の女官は仕事に慣れ、こうしてアイが出歩いても問題ないくらいに成長している。随分、月日が経ったものだった。
 筆頭の地位を貰ってから、ではない。自分が、この王宮に上がった時からを指している。

   *

 アイの実家であるマァ家は、代々文官を輩出する、言うなれば貴族である。どちらかというと母が、家や一族に権力を持っていた。彼女は非常に信心深い人で、子どもが生まれた日に占術師に視てもらった結果で、名前と今後を決めるのだった。一方で出世欲のない父は、アイと名付けた娘が「後に王宮にて大事を担う」という占いの結果で英才教育されるところを、少し困ったように見ているだけだった。
 母から教えられたことより、家庭教師たちから教わったことの方が多いが、唯一、母から直々に聞かされたことがある。リリスとしての心構えである。
 宙に拝し、天様を絶対とし、命山の方々を敬い、そして祖霊を大事にすること。毎朝廟に拝することは、忘れることが恐ろしいくらいの習慣になった。幼い頃、放り出したことが知られた日、母に殺されるのではないかというくらい叱られたこともあった。
 そういう言葉から知れるだろうが、アイは別段、信仰心は持たなかった。敬うべきは敬い従うべきは従うが、絶対と言えばそうではないと思っていたので、さきほどの「放り出した」に繋がるのである。家と親に庇護されている手前、従うべきだと判断して、それ以後は逆らったことはない。
 十八の歳に、家柄のために問題なく王宮に上がることになった。当時天候補だったキヨツグもまた十八歳だった。
 アイと同じように王宮で女官見習いとなった少女たちは、お互いを蹴落とすことに必死だったようだが、一方で不和を起こさず楽に暮らせればいいと思う一派もいて、アイは後者の派閥に属することになる。
 アイの習慣である参拝を古臭いと笑う者もいたが、アイ自身は、ある意味自分を損なわないようにするための儀式のようなものだった。王宮での暮らしは、親兄弟の目がないということで解放的になってしまい、同僚を敵と見なして容赦ない仕打ちをしたり、身を落とすように恋に落ちたりと、先輩女官が嘆いているのをよく見ていた。参拝を行うことが、すべて自身を支えているとは思わなかったが、ただ、自身の運命を決めた、祖霊と占いを信じなければいけないとは、思っていた。
 その日も、廟に詣でていた。そして、出会うことになったのだ。
「熱心だな」
 低く、笑う気配がして、アイは廟の中で振り向いた。
 外には、日差しを浴びて、悠然と笑う美しい男性がいた。
「いつもはもう少し遅いのだがね。その時間に来ると、いつも花と香がある。一体誰がそんなに熱心なのかと思ったのだが」
 そう言って入ってきた。隣に立たれると、随分背が高かった。しかし、厳ついわけではない。優美で、儚げな雰囲気が、逆に温もりのように漂ってきていた。
「願い事が、あるのかい?」
「……はい?」
 こちらを見た瞳に一瞬気を取られて、我を忘れて反射的に返していた。困ったように、眉尻を下げて男性は笑う。
「いや、君くらいの若い娘が、こうして……恐らくは君にはあまり縁のないであろう祖霊に、拝するのには理由があるのかと思ったのだよ。しかし、願い事は、誰か、人に対して願うのが一番の近道だ」
 願ったことがあるのだと、アイは分かる。この人は、自分で叶えることもできる、自分たちとは違った次元にいる人なのだ。アイは目を伏せ、俯き、辞する機会を失っていることをその人に対して暗に示したが、梢のさらさらという音と、影が心地よいことも確かで、そのまま、じっとしていた。
 しかしやがて、その人がアイの言葉を待っていることに気付く。アイが口を開くのを待っているのだ。
 慌てた。願い事なんて考えたこともなく、祖霊に拝するのも強迫観念に似た義務感からだった。
 そんな、焦って呼吸を乱れさせ、視線をさまよわせ、手を口元に寄せたり握りしめたりしている小娘を見て、どう思ったのかは知れない。その人は、穏やかに笑ったのだ。くすくすと、軽やかな、少年のようなあどけなさで。
 更にアイは言葉を失った。頬が染まっているのが分かっていた。息を呑んで、見上げていた。

 その人が、セツエイ・シェンという名の、絶対とすべき天であることを、アイは最初から知っていた。
 母から教育されて鬱陶しいと思っていたはずの信仰心は、こういったところで根ざしていたのかもしれなかったが、アイは思ったのだ。
 この人が笑うと嬉しい。この人に、ずっと笑いかけてもらいたい。
 しかし、思いは許されることはないのだった。そもそも生まれから、アイは祖霊たちが導いたと思われる占術で未来を示され、天の妻、真夫人となること、またその努力が決められていた。アイが嫁ぐべきは、セツエイではない。キヨツグだ。母などは疑うことがないだろう。
 そして、セツエイ自身も、そうだと思っているはずだった。血のつながらない、しかし正当な血統を持つ次期天位継承者キヨツグ・シェン。アイは彼の候補であると。
 祖霊の占を裏切り、セツエイの信頼を裏切る。
 アイに、何も言えるわけがなかった。

 なのに。

 セツエイが病に伏したという報が王宮を駆け巡った。典医をはじめ、各地の医師や薬師や呪師が集められた。それほどまでに、セツエイの病状は悪かったのだ。
 アイは、上司であった女官に呼ばれた。セツエイの寝所に行けという。同僚たちは沸きに沸き、「何故!?」と疑問の声を悲鳴する逆派閥の少女たちもいた。
「アイ。大丈夫? 泣きそうな顔、しているわ。まるで行きたくないみたい」
 指摘されて、アイは化粧台に取って返した。顔色を隠すために頬紅を塗りたくっていると、指摘した少女はそれをひったくって、代わりに濡れ布巾を投げつけた。
「馬鹿みたいに塗らない。いいわ、私がやってあげます」
 丁寧に化粧筆が肌を行き来したおかげで、アイは心以上に落ち着いた顔立ちになった。彼女は何も尋ねてはこなかったので、涙を流すことも、怒りに目を吊り上がらせて白粉がよれることもなく、セツエイの枕元に座ることができた。
 セツエイは、決して衰えているようには見えなかった。寝台の人は、あの時と同じ、低い声で、この状況に困ったように笑い声をたてたのだ。
「すまないね。呼び出して」
「いいえ。わたくしに、何か御用でしょうか?」
「こんなことを言っては、怒られるとは思うのだが」
 何を言われても、アイは心を動かさないと決めている。身構え、はい、と促すと、セツエイはほろりと笑った。
「願い事を、言いなさい。叶わない願いがあるのなら、私が、宙に届けるから」
 息を詰めた。
 どうしてそんなことを言うのだろうと怒りを覚えたが、アイは立場から口に出来ない。どうして、そんな、恋をする娘の前で自分はもう死んでしまうからなどと言うのだ。
 ごくんと思いを呑み込んで、アイは首を振る。
「いいえ。……いいえ。何も、ございません。ですから、どうか」
 一瞬見せた寂しそうな目に後悔が過るが、その寂しさを甘んじて受ければ良いと思う自身もあり、このまま襟を掴んでがくがくと揺さぶって、「そんなことを言うのならもっと生きなさい!」と言いたくもあった。
 どれも、身分が許さないけれど。
「君に、もう少し早く出会えていたらよかったね。そうすれば君は、望むものを口に出来ただろうに」
 いいえ。決して来はしません。
 アイはいつまでも枕元に座っていた。穏やかに、言葉を交わし続けた。そうしていたかった。同じ空気を感じていたかった。実際は、体力の保たないセツエイが眠るまでだったけれど、触れもしない、距離を置いて言葉を交わすだけの時間が、ただ過ぎた。それが最後だった。

 セツエイはそれから少しして逝去し、葬儀は避けられぬことなく行われた。アイ自身の身分では遠くでの参列しか許されず、当然のことであったから、心密かに、たくさんの言葉で別れを告げただけだった。
 芽生えたものをアイは支えることをせず、周囲にも気付かれない。恋の花は、咲くことはなかった。
 そしてキヨツグの天位継承を問題視する一派、カリヤ・インの派閥が現れ、しばらくリリス王宮は荒れることになるが、キヨツグは最終的に天位に就くことになる。
 新しい族長となったキヨツグの方針で、後宮は解散する運びと也、真候補に重きを置いていた女官はおおよそ辞することとなったが、アイは女官の仕事を選ぶことにした、残った数少ない者に入っていた。仕事は気に入っていたし、家に帰るのも鬱陶しかったのだ。
 アイはキヨツグ付きの女官の下っ端となり、同僚の友人たちと共に順に位を昇っていく。

 ある日、アイはキヨツグとすれ違った。
 アイは振り返る。決して似てはいないな、と苦笑が浮かんだ。仕えるべきはこの天だが、しかし心捧げた天はこの人ではない。


「どうか君と同じ立場の誰かが現れた時、その心を与えてやってほしい。そうすれば、きっと、その者は幸せになれる。願い事を聞いてやれる者に、なってほしい」
 アイは尋ねる。どうして、わたくしに?
 セツエイは微笑む。花の散る様に似た、切ない優しさで。
「君はきっと、キヨツグの真にはならぬだろうから」


「お前が、アイか?」
 はっとすれば、キヨツグが密かな疑問の表情を浮かべて首を傾げていた。
「父上から聞いていた。望みを叶えてやりたかった娘がいると」
 言葉を失った。
 少し考える仕草を見せ、キヨツグは訊いてくる。
「何か望みはあるか。父上の遺志を、叶えたいのだが」
『キヨツグの真にはならぬだろうから』
 キヨツグは、アイが真夫人になりたいと言えば考えるかもしれない。彼の色恋の話を聞かぬわけではなかったから、一時的な付き合いはできるだろうということも考えられる。アイは、それほど自分が魅力的ではないとは思っていなかったので。
 しかし、セツエイの予言じみた言葉が、妙に思い出されてならなかった。
 尊霊と、セツエイへの裏切りを恐れ、素直に口に出来なかった自分。
 天であるあの方に、自分の思いが気付かれなかった保障はないのだと、この時、初めて気付く。
 恋の芽は消えた。あの方はそっと摘み取って逝ったのだ。
 その消えてしまった芽の跡にあの方に望まれたのは、幸福だった。だから、幸せにならなければ。
「キヨツグ様」
 そして、まだ見ぬ、仕えるべき主を見つけよう。あの方に捧げることが出来なかった思いの代わりで仕えることは重苦しいだろうから、明るく、いつも笑って導いて。
 そうすれば、新しい恋の種にいつか巡り会えるだろう。
「早く、お巡り会いなさいませ」

   *

 あの時のキヨツグの顔は傑作だった、とアイは回想した。キヨツグと仕事以外に交わした言葉で、なかなか振るっていたのではと今でも思っている。
「アイ」
 にやにや笑っていると、向こうからやって来たのはセリだった。
「セリ、仕事は?」
「天様と行かれたから、私たちは休憩」
 また真夫人を連れ去ったのか、とアイは若干むっとする。その顔を見てセリが笑みをこぼした。辺りを見回し、更に笑みを深くして、「あなたがこの辺りにいるのは珍しいわね?」と言う。
 祖廟のある、庭園の中だった。
「あなたこそ。何か願い事でもあって?」
「いいえ。何故?」
「昔、わたくしみたいな娘が祖廟に熱心に拝するのは、願い事があるのだろうと仰った方がいたのよ」
 そう軽く語れるくらい、アイにとって過去のことは優しい思い出だった。
「願い事……そうね、今の願い事は、コウセツ様が無事に大きくなられることかしらね」
 現在女官たちの可愛がりを一身に受けている赤ん坊をあげて、セリは宙に微笑みを浮かべた。そして、アイを見る。
「アイ、その言葉を下さったのは……?」
 アイは笑みで応えた。その昔、化粧筆を取って、セツエイに会いに行かせてくれた同僚であり友人に。
「コウセツ様が大きくなられたら、恋のひとつでもしましょうか」
 笑い声に近い、明るい声を上げたアイに、セリは大きく瞬きをする。そして、口元をゆるゆる緩めてにやついた。
「そうね。その頃には、私たちには貫禄が出てるでしょうね」
「きっと素敵な殿方が現れるに決まっているわ。押したり、退いたり……でも、わたくし、ひとつだけ決めていることがあるの」
 なにかしら、とセリが尋ねる。
 廊下を駆けてくる音がして、そちらを見ると、角から現れた男性はきょろきょろと周囲を見回してから、ようやくこちらに気付いてほっと笑った。
「アイ殿、セリ殿。真様がお呼びですよ」
 アイとセリは顔を見合わせる。
「あなたを使いに出したんですの? シキ殿」
「こわい顔しないでください。たまたまですよ。女官の皆さんがコウセツ様のお相手でお忙しいようだったので、僕が」
 困ったように頬を掻きながら告げられた言葉に、まああ、とアイは目を吊り上げた。
「信じられない。自らの役目を疎かにするなんて! 叱らなければ」
「あんまり怒るとお局様と言われない?」
 セリの忠告も聞かずにアイは憤然と歩き出す。
「あ、アイ殿」
 呼び止められて、なんです! と振り返ったそこに、腕が伸びていた。
 シキの手が頭で、何かを柔らかく摘んで目の前に掲げた。
「葉っぱがついてました」
「…………それは、どうもありがとうございます」
 何故か理由も分からずものすごく複雑な気分のこちらに気付かず、シキは眉尻を下げて言った。
「あんまり叱らないで差し上げてください。僕が自分からやるって言ったんです。それに、真様が悲しげな顔をされるのは、ちょっと」
「ええ。分かっていますわ。ありがとうございます」
 アイとセリは連れ立って歩き出す。シキは丁寧に礼をして、自らの役目であろう医務局へ戻っていく。
 あの男もつかみ所のない人物だと思う。特に積極的でない、というよりがっついていないと言うべきなのかもしれないが、とにかく、穏やかに物事を見定めてから、最も良い選択をして、巻き込まれもせず巻き込みもしない位置にいる。真夫人に不届きなことをするわけではないようなので、近付くことを許しているが。
「ねえ、さっき言いかけたの、ちゃんと教えてちょうだい」
「え? ああ、さっきの」
 気分がちょっと削がれてしまったわと肩をすくめながら、答えた。
「素直になること。きちんと、思いを伝えること。もう二度と、恋に別れを告げたりしないように」
 きっとそれは、素敵な恋。
 ああ忙し、と人がよく通る廊下になった途端、アイは表情を繕い、真付き筆頭女官の顔をする。その後ろでセリは目を瞬かせた後に、笑った。
「案外、もう始まってたりしてね?」





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