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 電話が鳴った。家中を振動させるくらいどこまでも響く機械音。音は空白を含んでいるくせに輪郭をはっきりとさせていて、だから夜に響くのだ。
 鳴って続けている。だが誰も取る気配はない。それに合わせるかのように心臓が跳ね回っていて異様に喉が渇いた。唾液がうまく呑み込めず、べたべたと口内を張り付かせる。行きたくないが飲み物を取ってこなければならない。このままでは眠れない。与えられている自室の扉を開けると、暗い廊下にわんわんと電話の音が反響する。耳を塞ぎたくなるくらいの不安は、大きく開け放つのではなく、窺うようにそっと扉を開かせた。
「……と言ってるだろう?」
 びくりと手が震えた。細く差し込むリビングの光から手が離れる。
 父の声は、言葉は落ち着いて相手を説得しようとしているくせに、抑えきれない苛立ちに微かに震えて聞こえた。
「信じられないわ」
 母の声は厳しく断定的なくせに、悲しみにくれすぎていて必死に自身を支えているように響いた。
 そのまま扉を閉じようと、掘った穴を塞ぐように慌ててノブに手を掛けた。しかし、気付かれてはならないという意識のために、間に合わなかった。母が、静かに問う。
「ならどうしてあの子にあんな名前をつけたの」
「アンナ」
「アマーリエだなんて……『ただ一人の聖母』だなんて!」
 その声が悲鳴のように聞こえたのは、アマーリエの胸が掻きむしられたように痛んだからだろうか。
 アマーリエが寝静まった夜に顔を合わせた両親によって毎回のように交わされる会話に、いい加減慣れてもいいはずなのに、いつでも鞭で打たれたかのように鋭い痛みがあり、じわりじわりと広がる痛みの熱がある。そしてその痛みに、一歩も動けなくなる。
「私はあの子に祝福を与えたかっただけだよ、アンナ。子どもに祈るのは当然じゃないか」
 父の声は途端に穏やかさを帯びる。アマーリエに亡くなった伯母の話をする時と同じ声音になるのだ。しかし、両親の応酬の最後は決まっている。会話の最後にあるのは必ず『お前はマリアによく似ているよ』という言葉であるのと同じく。いつも、母の泣きわめく声が響いて。
「なら何故あんな名前をつけたのよ。名前なんていくらでもあるわ。言葉は無数にあるのよ」
「アンナ」
「私も候補は作っていた。なのにあなたは勝手に名付けて届けを出して。私が、絶対付けない名前を! マーリエだなんて。マリア(・・・)だなんて!」
 わななく母が、家にいても常に乱れのない髪を無茶苦茶にする。
 電話が鳴り続けている。警鐘のように。
「あの子は、本当に、」
 電話が。
 音が、低く湾曲して。
 響いている。聞きたくない。
「わたしのこなの?」

   *

 目が、開かない。全身のあまりのだるさに呻いた。寝そべった身体の下半分に重石があるかのようだ。
 それでも必死に手をついて身体を起こすと、途端に目眩が襲う。ものすごい勢いで胃がぐるりと反転したように感じて、口を押さえて込み上げるものを堪えた。
 気分が悪いのは無茶苦茶な頭痛のせいもあるらしいと、収まりつつある不快感と痛みを感じながら考える。昨日何をしたのだったか。
(…………そうだ、リオン殿とお酒を飲んだんだ)
 数分かかってようやく思い出した。その結果、酔い潰れた自分を思い出して恥じ入る。頭を抱え込みたいが、動くと頭痛が増すので額を押さえるだけにする。
 よく知った寝室に横たわっていたので、あの場から運び込まれたのだろう。衣装も寝間着に変えられている。
 寝室から部屋に顔を出すと、アイたちがハナと談笑していた。そうしてアマーリエに気付き、一斉に叩頭する。
「おはようございます」
「おはようございます………………あれ、今何時……?」
 ハナがいる、と改めて気付いて飛び上がった。
「もしかして授業遅れました!? すみませんすぐ用意します!」
「真様、真様」
 どうどうと宥められるように押さえつけられる。
「いつも通りのお時間です……と言いたいのですが、一時間ほど多めに眠られただけです。それでも十分間に合いますわ」
「というよりも今日は授業日ではございません。街に下りられるようになってからこの曜日はお休みにしておりましたでしょう? 私が来たのは……これを」
 ああそうだったけとぼんやりしていたアマーリエにハナが言って、椀を差し出す。
「酔い覚ましです。どうぞ」
 どうやら二日酔いを見越されていたようだった。冷たくされた酔い覚ましを受け取りながら思わず小さくなる。ハナやアイたちに謝罪と感謝を述べた。着替えさせてくれたのはアイだったようだ。
「シキが心配しておりました。二日酔いだなんて、と」
 リオンの好きなもの、を尋ねた際に『酒だ』と最初に言ったのはシキだ。それを用意する段階で女官たちを巻き込んで大事になった。シキが責任を感じる必要はない。
「ごめんなさいと、ありがとうを言っておいてくれますか?」
 ありがとうの言葉には、キヨツグのことを教えてくれた意味も含まれているのだが、シキさえ気付けばいい。
 そうこうしているうちに着替えをし、二日酔いのアマーリエのために特別消化の良い朝食を出してもらっているうちにユメが顔を出して、みんなで一斉にお茶を啜って一息ついた。その頃にはなんとか気分も回復していたが、この分だと王宮中に真夫人二日酔いの報が回っていそうで乾いた笑いが出てしまう。
「真様、あの……」
 意を決したように少女の年頃の女官が前に出た。よく控えている少女だったので覚えていたが、自分から声をかけるのは珍しい。
「はい、なにかな?」
 そわそわと彼女は落ち着きない。周囲の女官たちを窺うと、一部が小さな声ではやし立てている。
「あの……」
 アイの眉が動いたのが見えたので「ゆっくりどうぞ」と微笑んでみせると、彼女が言ったのは、外に出ませんかということだった。
「外?」
「あなたたち、はしたないわよ。いくらリオン様が戻られているとはいえ」
 ぴしゃりと年嵩の女官が言い放てば、彼女たちは小さくなった。
「どういうこと?」
 ご説明します、とアイが説明を請け負った。
 将軍であるリオンを筆頭に、彼女の指揮する軍団はみんな見目麗しいのは当然だが勇猛果敢で素晴らしい使い手が多いという部隊ばかりなのだそうだ。定期的な帰還と交替をしても、その軍は鍛錬を欠かさない。今回も稽古と称して、竹刀でリオンの前で御前試合をするのだそうだ。
「御前試合……」
 都市の古い映像で、闘技場なる場所で戦うものを見たことがある。その映像はフィクションで、本物は本当の武器で行うのだと聞かされた。男子は興奮気味だったが、女子は野蛮だと眉をひそめていた気がする。アマーリエも、傷を付けられる道具で行う見せ物は見たくないが、技を見せ合う試合は見てみたいと思う。自分も、少しは道具を使うものだからだ。
 アマーリエは、にこりと笑った。
「行こうか」
 きゃあと声が上がったが、アイとユメとハナという大人組が困ったような顔になった。
「真様。そのようにあの子たちを甘やかしては」
「いくら竹刀とはいえ彼らは手加減しませぬ。気持ちのよいものではないやも」
「怪我人が出るので、御前試合は医師としてはあまり推奨したくないのですけれど……」
 そうですわと筆頭補佐のセリに続いて年長者からも賛同が出る。不満そうに年少者が口を尖らせたのが見えたので、アマーリエは立ち上がった。
「リオン殿に会いたいっていうのが本音。会いに行くいい機会だと思うの。……じゃないと二日酔いの恥ずかしさが消えないんだよ……」
 最後の本音に思わず顔を覆うと、くすくすと笑い声が上がった。
「……仕方ありませんわね。参りましょう」
 アイがため息をついて手を打った。ハナとユメは一礼して下がる。尋ねると、ハナはそのまま医務室へ戻り、ユメはせっかくなので見に行こうと思うと言う。ハナには酔い覚ましの礼を、ユメには後の合流の約束を告げて、アマーリエは着替えのために立ち上がった。まだ頭が重たくて呻けば、くすくすと笑い声が上がった。

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