|  <<  |    |  >>  |

 香が薫き染められた神殿は、そのにおいと灯火の少なさで薄暗い。贅沢を廃すようにただ板を敷き詰めただけの廊下を進む。窓がないから時間の感覚を失い、夕方から夜のように感じてしまう。前を行く女官はこの場所の薄暗さが当然なのだろうとしたら、さぞ神殿の外は眩しいだろう。
 どうでもいいことを考えるのは緊張しているせいだ。
 これまで何度も眠っているからと断られ続けてきた、その扉の向こうへ足を踏み入れる。
 そこは静かだったが、どこか空気のざわめきに満ちていた。絶対に聞き取れない細胞の声が無数に囁いているように思えた。何かが、息づいている。
 その予感はするりと下がった女官の気配に掻き消えた。はっとすれば少女のように微笑む義母の前で立ち尽くしている。慌てて膝を突き、礼をした。
「私に聞きたいことがあるのね」
 ふふっと笑ってライカは言った。アマーリエは顔を上げてきょとんとした。失礼だと思いつつも、話が見えない。
「あるでしょう?」
 言われれば、当然、ある。呼び出しを聞いた時に真っ先に考えたことがある。
「……シキから聞いたのですか?」
「シキは医療助手の男の子ね。いいえ、違いますよ。ただ、あなたが知りたがっていることの答えを得る手助けになれるかもと思ったの」
 アマーリエはライカの深い瞳を見つめる。彼女の瞳は黒い。だが、どこか淡い。
 悠然と微笑む巫女は、すでに質問の答を決めているように見えた。だから、アマーリエは言った。少しだけ拳を握りしめた。
「……キヨツグ様は、ライカ様の御子ではないと聞きました……前族長の義父上様の御子でもないと。……どういうことなんでしょう?」
 ライカはにっこりと笑っていた。アマーリエが面食らうような晴れやかな笑顔。
「私はあの子を抱いたことがありますよ。とても小さな子でした。この子がまさか誰よりもリリスであるとは思えないくらいに。今はあんなに大きい子ですけれどね。というのに、あの子は母親に抱いたもらったことがないのです」
 笑顔に面食らいながら、その言葉にも戸惑う。思い出話にしては、アマーリエに向かいすぎていた。この時はまだ、キヨツグと交わした会話の答えだと気付かずにいた。
「確かに、あの子は私が生んだ子ではないのです」
 少しお話をしましょうとライカはアマーリエに、そこにある書き物机から薄紅の表紙の書物を取ってほしいと指示した。書き物机には無数に本が積み上がっており、どれも人の手で一冊一冊綴じられていた。中央には紙が丁寧に揃えられており、道具も揃って置かれている。これに書いたものを綴じているのだろうか。
 薄紅の表紙の本は、積み上がった一番上にあった。
「最初のお話」
 そう言ってライカは受け取った本を開いた。

   *

 遠い時代、リリスとは空を駆ける種族の名前だった。今人間の形を取っているリリスとはまったく別の姿をしていたという。姿を変えたのは、あるリリスが地上に降りたことが始まりだった。そのリリスは、地上を見上げる瞳に心を奪われ、空を捨てて地上の降り立った。そうして生まれた三人の子どもは、リリスと、ヒトと、交わった子だった。その子らはそれぞれに野を行き、生き始め、命を広げていった。
 リリスに恋をした者と、恋したリリスの者は、それぞれの血が混じり合って別の生き物になった。そして今でもどこかで生き続けている。

   *

 短い話だった。どうかしらというように微笑まれたので、アマーリエは目を瞬かせて何と言っていいのやら考える。
「……ええと……」
「母上、からかわれるのも大概になされよ」
 ああ、とライカが笑みを浮かべる。
「リオン、おかえりなさい」
「ただいま戻りました。おや、真殿、女っぷりが上がりましたね」
 思わず頬を擦り傷を押さえる。リオンはくすくす軽やかに笑った。どかりとアマーリエの側に腰を下ろした彼女は、そうしてこちらに困ったような顔をした。
「今の話はただの神話です。私たちが誇り高い生き物であるということをリリス全体に知らしめたいための教育で、そしてある意味教訓でしょう。一度一族を離れれば二度とそこには戻れないという。空のリリスも、地上のヒトも、もう群れには戻れない」
 そしてライカに顔を向けた。
「率直に話すのがよろしいのでは?」
 ライカはにこにこと笑っている。からかわれたのだろうかと疑問に思っていると、リオンがため息をついて向き直った。
「真殿、兄キヨツグは私の実兄ではない。だが、リリスの血としてはあの人ほど純粋なものはない」
「……どういうことですか?」
「純粋というのは血縁としてという意味ではないの。でも、リリスそのものとして、あの子は非常に濃い」
 考える。考えた末に、アマーリエの考える重視する要素と、ライカやリオンというリリスが考える要素に齟齬があることに気付く。
 血縁が重視されたのではなく、リリスがリリスとして濃いことが重視されたのが、キヨツグなのだ。
 しかし、最も濃いのがシェン家という一族なのではないのだろうか。リリスの最高位にあるのはシェン家の人間だ。その補佐である他の一族が濃いというのなら、長老家や領主家に収まっていないはず。
「……神職に関係する方なのですか?」
「いいえ?」
 宗教に関係する一族なら可能性はあるかと思ったが、それも違うという。
 考えるのを取りあえず止めた。教えてくれるのなら、ライカは最初から答えを呈示していただろう。
「あの方が、リリスとして濃いことは分かりました。でも、あの方が、都市の考える正しい族長でなければ、都市は許さないと思います」
「黙っていればよろしい」
 にべもないリオンの断定に、ライカが苦笑する。
「確かにそうだろうけれど、天位にあるのはキヨツグよ。契約違反とは言いにくいでしょう」
 違う、と思った。違う。違うのは、知りたいと思うのはそんなことではない。
 あの人が族長であろうとなかろうと好きだと思う。しかしそれでは納得できないと叫ぶ何かがあった。
 キヨツグを構成するもの。リリスで、リリスとして濃い血が流れ、漆黒の髪と漆黒の瞳を持ち、穏やかに話す一方で政務を厳格にこなし、アマーリエを許し受け入れてくれた。
 彼が秘めているものは、何故自分に明かされなかった?
「あの方は――一体誰なんですか……?」
 その答えを二人はもう持っているはずだった。ライカは呼気と共に静かな笑みをこぼしたものの、口を開かない。その内、リオンが凄絶に笑った。
「確かめてみられるか、ヒト族の真夫人」

   *

「リオン様!?」
「真様!」
 すでに鞍を置いた落花の上にあったアマーリエを制止しに、女官たちは裾をからげて表に出てきた。リオンはすでに馬首を巡らせ、アマーリエを待っている。
「どちらへ!?」
「命山だ。第一小隊、私と共に行軍!」
「ごめん、すぐ戻る!」
 馬上からアマーリエは叫んだ。悲鳴が上がる。キヨツグがいなくなってから悲鳴ばかり聞いている気がする。それくらい、アマーリエの行動は発作的だった。
 そうして落花の手綱を握り、着の身着のままで、シャドのずっと東に位置する命山へ向かった。

|  <<  |    |  >>  |



|  HOME  |