―――― 第 1 1 章
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 王宮から、シャドから出て眺めたリリスの国は、夏の近さを感じる青々とした風景だった。
 草は緑を濃くして、太陽に負けぬようにか分厚く鋭いが、しなやかとなり、ところどころに位置する小さな林は、緑の生き物が伏せたようにこんもりふっくらしている。水田に離された鳥は、働き者は泳ぎ回る一方、怠け者は畦道でうつらうつらし、家畜が熱さから逃げるように木陰に伏せていた。人の姿はあまり見かけない。時折行商人らしき馬車を追い越したりすれ違ったりするくらいだ。
 着の身着のままのつもりだというのに、そうはいかなかった。アマーリエの身につけた衣は重く、旅装ではない。しかしリオンはそういったことを見越していたらしい。彼女が小隊を連れていったのは、彼らがすでに行軍の準備を終えていたからで、食料や水を十分に持って動けるようにしてあったのだ。更に、出発までのあの短い時間にリオンはアマーリエの必要最低限の荷物を作っており、そのまま考え無しに飛び出してきたアマーリエとして身の置き場がない。
「すみません……」
 今も水を貰いながら小さくなっていると、くつくつとリオンは笑う。その笑いは嫌味ではなく、面白がってからかう声だった。
「馬旅は慣れぬだろうが、見事な手綱捌きで安心した。余程うまく教える者がいたようですが」
「ユメ御前から習いました」
「あの人は厳しくはないが、やらなければ悪いと思わせる人だな。時々教わったが、笑顔でもう一度と言われるのには辟易した」
 というのがリオンのユメの評だった。返すようにアマーリエは尋ねた。
「どなたから剣を?」
「オウギから。まあよく分からん人です。キヨツグの護衛官として生まれた時から付いているらしいが、自身の出自も何をやっているかも喋らん。名乗っているタカサという家名だが、オウギという人間のいるタカサ家は見つからなかった」
 瞬きをする。気持ちよく会話してくれていることと、その内容について。
「調べたんですか?」
「私ではない。キヨツグがだ」
 いささかむっとしたように返された。
「何か疑問を持ったらしいが、結局うやむやに終わったと記憶している。それともうやむやにしてしまったのか」
 影のように側にいる男性を思い浮かべる。だがその顔がうまく描けない。あまりにも気配が薄いのだ。意図的なのだろう。誰の記憶にも残らないようにしている、今考えてみるとそんな感じがした。そういうことが出来るのだからよっぽどの達人のはずだ。しかしリオンの剣の腕を上回る使い手なんて、想像の範囲外すぎて想像がつかないけれど。
「さあ、そろそろ行こう。あと少しだ」
 馬を更に駆けさせれば、日も落ちて金色に輝き出した。すると、遠くにうっすら雲のかかった峰らしきものが見えてきた。麓に街の姿も現れ始め、そこが、リリスの聖地である命山と呼ばれる場所なのだった。
 リオンは街で小隊の待機を命じると、アマーリエ一人を連れて登っていった。馬で登れるよう整備されているのが、荒削りな部分はあるが均された道でよく分かる。雲の中に入ったように視界が煙り、すうっと冷たいものに触れられていく感覚の後、視界が晴れたそこに、巨大な門が現れた。
 年月を経て黒く変色した木材と、黒々とした瓦で造られた、神域らしく質素ではあるが、威圧感のある門だった。
「リオン・シェンだ。開門願う!」
 現れた門番にアマーリエは目を見張る。どう見ても聖職者の衣装を着ているのに、手には槍があった。そして、ここがリリスの最高機関であり、生き神に位置づけられるリリスの住む場所だということを思い出した。
 この向こうにいるには、リリスの中でも最も神仏に近しい人々なのだ。
 音を立てて扉が開く。言葉はない。馬の息遣いだけが響いている。
 急に、怖くなった。リリスではない自分が、この先に足を踏み入れてよいものかどうか。訪問者を見つめる門番たちも、アマーリエがヒト族だと気付いて怒りを覚えているかもしれない。
「真殿」
 リオンが振り向いていた。
「付いて参られよ、真殿」
 真殿、とリオンが強く呼んだ気がした。適度な緊張感のある穏やかな声だったが、アマーリエにはそう聞こえた。息を吸って、胸を張った。リリスの国にいる、ここにいるのはリリス族長天の妻、真夫人だと。
 落花が励ますように鼻を鳴らす。軽く首を叩いて、手綱を握った。意志を感じて落花が歩み始める。また雲がかかって視界が白くなった。
 沈黙と白色ばかりで変わらない視界のために、その道程はとても長く感じた。このまま出てこられない気がした。本当に行っても大丈夫なのかと不安を覚えてる度に、何故ここに来たのかということを思い返した。キヨツグのことを知るためだ。しかし何度も霧の冷たさが身体に触れて凍えてしまう。目の前が見えない。
『本当は誰に向かうべきかを考えられよ』
 目覚めるように霧が通り過ぎていった。冷たい空気が渦を巻いて、ごうごうと鳴っている。見れば、道の下に白い海が出来ている。雲海だ。いつの間にかそんなに登っていたらしい。
 少しだけ坂になったところに建物が並んでおり、そこを更に登りきると平らな地面があった。削り取ったように、本当に真っ平らだった。その広々とした場所の奥に朱塗りの建物がある。王宮の、結婚式を行った宮によく似ていた。
 馬の口を取りに人々が現れた。
「ご苦労様でございました」
「いや。突然の訪問申し訳ない」
 リオンが久しぶりに口を開いた。どこか安堵が滲んでいる。
 アマーリエもまた下馬して落花を預ける。こちらを見てから、驚いたようにリオンを見た神職服のリリスたちは、彼女の頷きを得て合点したらしい。長らしき人が丁寧に頭を下げた。
「ヒト族の真夫人の噂はかねてより聞き及んでおります。ようこそ、命山へ。異種族の方のご訪問を受けるのは、実に何百年ぶりでございましょう」
「こ、こちらこそ。突然お邪魔して申し訳ありません」
 慌てて名乗ろうとした、その時だった。
「騒がしいぞ! 何事だ!」
 大声が響き渡り、人々が礼をする。ざりざりと砂をいちいち蹴るような荒い歩き方で現れて、その男性は眉をひそめた。
「……誰だ、お前」
 白髪のごつい老人だった。厳めしい皺が眉間にも額にもある。その人に、リオンが微笑みかけた。
「お久しゅうございます、コウエイ様。セツエイの娘、リオンにございます」
「セツエイ? あのほわわんとした我が息子か?」
 苦々しく言ったかと思うと、なんと、けっ、と言って唾を吐いた。
「あの早死にした親不孝ものに娘がいたとは初耳だ」
「裳着の折りにはお祝いをありがとうございました。お礼が遅くなって申し訳ありません」
 途端、もごっとコウエイは口ごもった。すると、更に奥からころころと笑い声が響いた。いつの間にか女性たちが近付いてきていた。
「コウエイ様の負けです。あの衣装はあなた様がお見立てになったと、わたくし書簡に書きましたもの」
 白い髪をゆったり結った、こちらも老女だった。ふっくらとした頬は艶やかだが、年齢のために皺がある。それがまた優しげだった。
「リオン、お久しぶりね」
「お久しゅうございます、サオ様」
「まあ他人行儀ね。おばあさまと呼んでちょうだいな」
 そうして親しげに二人が抱き合っているのを見ていると、おいと声が上がった。目の前にコウエイが立っていた。
「お前は誰だ? リリスではないな」
 飛び上がる、が、心を落ち着けてきちんと礼をした。
「アマーリエ・エリカと申します。あの、キヨツグ様と結婚した、真にございます」
「真?」
 疑惑の声。そして、コウエイは苛立たしげに地団駄を踏んだ。
「ヒト族の娘がいっちょまえにリリス衣装を着おって。似合っておらんぞ!」
「まあ、あなたがそうなの? 話には聞いていますよ。都市との同盟のためにいらしたんだったわね」
 そんなコウエイを無視に近い形でサオが近付き、アマーリエの手を取る。
「初めまして。私はサオ・シェン。この方は夫のコウエイ・シェン様。よく来てくれましたね」
「こちらこそ。お会いできて嬉しいです」
 しっとりとした柔らかい手だった。大切に握ると、意外にもサオが強く握りしめた。途端、にこっと笑いかけられるので、アマーリエの頬も緩む。
「来たのはあなたたちだけ? キヨツグはどうしたの?」
「来るわけなかろう。会いたくないと思われているのが分かっているだろうに」
 コウエイが鼻を鳴らした。疑問に思った直後、サオが強い声で否定した。
「違うのよ。会いたくないと思っているのは私たちではないの。私もコウエイ様も、キヨツグのことは我が孫のように思っているのですもの」
「誰が、あの訳の分からん餓鬼に」
「あの方の子ですよ」
 悪態が不自然なくらいぴたりと止んだ。
 サオがくすりと笑みをこぼす。慣れた会話のようだ。
「さあ、部屋の準備ができたでしょうから、案内を頼みましょうね。少し休憩なさい。その後で、どうしてここに来たのかを聞きましょう」

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