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 広い建物の中を勝手に歩き回ったものの、帰り道に不安があることを見抜いたエリコは、心優しい道案内の別れ際に、アマーリエにひらり手を振った。
「夫に会ったらよろしくね」
 結婚しているということは、意外すぎるくらい意外だった。とても愛情を抱いている人がいることは分かっていたけれども。そんな風に思っていたのは、そういった形式を超えていると感じたからかもしれない。
「ご結婚されてるんですか?」
「あ、見えない? それは嬉しいな」
 朗らかにあははと彼女は手を動かした。年齢以下に見られて嬉しい年頃の女性の態度を、二十代前半の女性がやっているのは非常にずれた感じだ。しかしどこか様になっているのは何故だろう。やはり実年齢のせいだろうか。
「数えるの嫌になるくらい妻やってるんだけどね。子どももいるし。今どこにいるんだろうねえ。子どもも旦那も」
 エリコ含め周辺の人々の歳を数える方が怖いので触れないでおきたいアマーリエだった。
「ええと……分かりました。旦那様のお名前は、なんて?」
 エリコは、ずっと笑顔だったそれ以上の、輝くばかりの表情を見せた。
 それで分かった。この人は、長く生きることを後悔なんてしていない。苦しみも悲しみも知っている上で、喜びを見出している。自身の命と一緒に生きていけるその人を。
「セン。彼の本当の名前は(・・・・・・・・)、センっていう」
 生き続けるかぎり愛しているのだ。永遠に。
「真殿! 良かった、迷子になられたのかと!」
「リオン殿」
 随分探してくれたらしい。額に汗を浮かべ息せき切って駆けてきた彼女に、アマーリエはエリコを呼ぼうとしたが。
 その姿は消えていた。廊下には、太陽の光が、ほんのり射しているだけ。気配がうっすら、風のようなものになって柔らかく空気に溶けていく。
「真殿?」
「いえ、心配をかけてすみません。でも、エリコさんが送ってくださって……さっきまでそこにいたのに」
 リオンが変な顔をして「姫が?」と呟いた。
「何か、話を?」
 感情を殺したような問いかけは、一瞬自分に向けられていると気付かなかった声音だった。エリコの去ったであろう方向を見ていたアマーリエは、しばらくしてから慌ててリオンを振り返った。
「ええ、はい、話は色々と。……答えになるための、道筋を下さいました」
 何を恐れているかに気付いた。自身の心を告げることで、醜い部分を知られるのが怖いということだ。彼が何者かということを恐れているのは、真実の鏡に映してしまえば、本当は自身が何者かということを恐れていることだった。本当はもっと醜いものではないかと恐れているのだ。何故なら、彼を自分のものにして、出来ることなら心中してしまいたいと思う狂気が潜んでいることに気付いていたから。
 そういう、自身の醜さを知った。
 そうして、いずれ来る別れのことを、思った。それならば。それならば、十分過ぎるくらい、愛していきたいと思った。自分なりの力と方法で。
「あの方が何者かお聞きになった?」
「聞かなくても、怖くありませんでした」
 エリコの消えた方向へ呟いていた。
 生きているかぎり命だと言った言葉に嘘はない。あの人は決して恐ろしい生き物ではなかった。常軌を逸していていても、あの人は自らを、ヒト族でありリリスだと言った。
 その自らの名乗りを信じていけばいい。
「もう帰りましょう。ここまで連れてきてくださって、ありがとうございました」
 リオンから異論はなかった。呆れたように肩をすくめて「それは良かった」と皮肉を言った後、出発の準備がされた。
 リオンが大仰にしたくないと言ったのだが、見送りは、頑として譲らなかったサオと、付き合わされたとぶつぶつ言っているコウエイの二人がしてくれた。
「せっかく来たのにすぐ帰ってしまうなんて、残念だけれどまた来てちょうだい。命山の雲海を見ながらお茶をしましょうね、アマーリエ」
「はい。是非」
「やっと静かになるわ。一日来ただけでさんざん引っ掻き回していきおって」
「申し訳ありません」
 深々と頭を下げると、それを気に食わないとコウエイは鼻を鳴らす。
「どうぞ、お元気で。エリコさんにも、よろしくお伝えください」
 言いつつも、どこかで見送っている気がした。
 コウエイはむっつりと黙り込み、サオは不思議な微笑みで頷いた。

   *

「あの子はエリコ姫に会って何を得たのでしょう」
「得られるものなどあるまい。すべては自分の内にある。出会いも言葉もすべてそこに至るまでの導きとしかならん」
 サオはそっと、コウエイに微笑みかけた。
「自分の内にないとすれば……恋の相手だけ、ですわね」
 そしていつも通りコウエイは鼻を鳴らすが、どこか照れが滲んでいることを、サオは知っているのだった。

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