|  <<  |    |  >>  |

 また雲の中を抜けていく。白い視界には、頭上の強い太陽からの光があり、世界は銀色に輝いて見えた。しかし見通せないすべてに、アマーリエはそっと思った。今自分は、ずっと見えないところに行こうとしているのかもしれない。光の霧を抜けた先に待っている人がいるのなら、きっとあの人であってほしい。
 下山すると、命山の麓の街には同行した小隊の他に、更に大勢の軍団がリオンを待ち、そしてユメを始めとした真夫人付きの人々が結集していてアマーリエを待っていた。彼ら彼女らを待機させていた街の領主は、慌てたように下山してきたアマーリエとリオンの歓待の用意をして、アマーリエに滞在を勧めていた。
「リオン様が発たれるそうです」
 アマーリエが領主に、そのまま王宮に戻る意志を告げるために衣装を整えているところに女官から声がかかった。
「え? うそ。まだ認めてもらってない!」
 なんとか姿を整えて表に出る。リオンの小隊が準備を整え、リオンの号令を待っている。まさかそこまで出発直前だとは思わず、急いでその馬たちの間を抜けて、アマーリエはリオンの元へ駆けつけた。
「リオン殿!」
「おや、真殿」
 せっかく綺麗にした衣装も、裾をからげて走ればぼろぼろだ。肩で息をするのを、凛と涼やかに輝く瞳でリオンは見下ろしている。
「発たれるって……」
「ええ。そろそろキヨツグの都市訪問も終わりでしょう。戻って来る前に私が戻ろうと思ってね。そう、これを」
 リオンは無造作にぶつりと首の紐を切った。紐の先から転がり落ちた指環は、アマーリエの手のひらで光を反射する。
「あなたが来ぬならこれを持っていこうと思っていましたが、まあ仕方がない。お返しする」
 それを指にはめると、ほっと熱が灯ったように思って、安堵する。
「ありがとうございます……」
「私に礼を言ってどうなさる。私が元凶だろうに」
 ちっとも悪いとは思っていない様子だ。だからアマーリエも笑い、首を振った。
「いいえ。たくさん感謝しています。あなたがいなければ、私はここには来なかったと思うから」
 自分の中にどういう心があったのかも気付かないまま、悲しみと苦しみをキヨツグにぶつけることになっていたかもしれない。自分の醜いところを、見ない振りをして、もっと汚く醜くなっていただろう。
 自分の心も想いも綺麗だとは言えないけれど。
「いつか、もう少し話が出来ればいいな」
 不意にリオンが漏らした。
「キヨツグは気に食わんが、あなたはなかなか面白い。その下戸を直してまた飲みましょう。私と酒を飲める相手は貴重なのでね」
 下戸だと誰が言ったのだろうと背後に目をやると、待機しているアイたちがそろっと目を逸らした。それを見て大笑いしたのはリオンだった。空へ高らかと響く、気持ちのいい笑い声。ああ、と一つ、また声。
「一つだけ聞きたいことがあった。真殿。恋とは素晴らしいものですか」
 面食らってまじまじとリオンを見つめたアマーリエだったが、彼女の微笑みの中に優しく真剣な意志が込められているのを感じ、考えた。
 そうして、首を振った。
「分かりません。ただ、恋に出会えば、出来なかったことも、出来るように錯覚してしまうようになりました。また違った自分と出会うことになるんです」
「リリスに来る前のあなたと今のあなたは違う?」
「はい」
 きっとこうして、リオンのような人と会話することもなかった。敵意も悪意も噂も、守りたいもの守られること、自分の醜さと、抱いている本当の心を、知ることもなかっただろう。一時も同じことはない。生きているのだから。
 どういうものだったのか想像したのだろうか、リオンは微笑みを零す。
「あなたはリリスではない。だがリリスであろうとしている。決して乗り越えられるものもあろうが、あなたの気持ちは、分かった」
 だが覚えておかれよとリオンは言う。
「決して超えられぬものは存在する。道がひとつの時もある。それを、世界や、運命や、物語という」
 世界や、運命や、物語。人の力を支える至上の力を、リオンはそう表現した。
「その時は、どれだけ目指すものに近付くか、何をすれば最も近付けるかを考えるがよろしい。自身が考える最良の道を、選ばれよ」
「……はい」
 軍の先頭に向けて、リオンは腕を掲げた。馬のいななきが聞こえ、先発が動き始める。リオンも愛馬に騎乗し、その馬上から声を投げかけた。
「『今何をするか』というのはあなたの生きる道だ。姿や血が違えどあなたは我らが真夫人。あなたの愛情の理由は、もう問わないでおこう。壮健であられよ、」
 囁くような声が紡いだ言葉に、驚いて呼び止める間もなく、リオンは馬を駆っていってしまった。続く軍勢にその姿はあっという間に見えなくなり、その軍も、あっという間に地平に消えていった。
 残された西日の射す北側の草原は、薄黄色に輝いて黄色だけで塗った絵のようだ。ただ幻想でない証に、風が吹けば草や樹木が揺れ、たった今去ってしまったリオンを思い出した。
「義姉上、かあ……」
 リオンが別れ際、別れの音に紛らわせて囁いた言葉を繰り返した。
 自分に新しい家族が出来ているということは、今更なながら妙な感じだった。本当にここはアマーリエの国なのだ。あなたが生き、私が生きる国という意味での、故郷。
 今度は名前を呼んでもらえるようになろうと、決める。
「真様?」
 いつまでも地平を見ているアマーリエに、女官が声をかけた。アマーリエは笑ってしまった。どうしたのかと目を瞬かせる彼女と、待ってくれているアイたちに、くすくす笑いながら言ってしまった。
「一つ言い忘れたことがあったなって思って」
「なんでございますか?」
 愛情の理由をもう問わないとリオンは言った。問われても、アマーリエにも確かな説明は出来ないだろう。でも、心は決まっている。もし問われれば、アマーリエはこう答えるだろう。
「いつかまたリオン殿に会ったら言おうと思う」
「私は、それでもやっぱり、キヨツグ様が好きです」と。

   *

 さきほどの囁きを聞き取っていたのだろうか、小隊長が笑顔を浮かべて馬を寄せてきた。リオンはそこで初めて、自分が笑っていることに気付いた。
「いかがでしたか、真様は」
「……まあ、市井の娘ならあの程度だろう」
 ごほんと咳払いして答えた。
 あの程度、と表現するのは、リオン自身が、幼い頃王宮に大勢集められていた真夫人候補たちを覚えているからだった。彼女たちは家柄も教養も人並み以上に叩き込まれた貴族でありまさしく天の夫人たる者に相応しいと感じられていたし、それと比べると、ヒト族の真夫人は些か平凡で庶民くさい。
 それでも笑みを浮かべてしまうのは、なかなか彼女を気に入っているからに他ならない。
「お前はどう思った」
「一生懸命な方だと」
 すぐさま小隊長は答える。
「姫将軍に面と向かっていく者はなかなかおりますまい」と言って、思い出したのか声を立てて笑った。下位の兵士など、リオンが現れただけで竦み上がるということを、以前この男はリオンに告げて笑っていた。この男の訓練が最も厳しいということを兵士たちが囁き合っているのを知っているのだろうか。
「都市ではあの方は高貴な家のご令嬢だと聞きましたが、とても気さくで良い方ですね」
「しかし、それだけでは真夫人たることは出来まい。ここはリリスだ」
 小隊長は肩を竦めた。意味は、お厳しい、というところだろう。
 リオンは考える。キヨツグの意図はどこにあるのだろう。あの何を考えているか常に分からない族長は、モルグ族との共同戦線としてヒト族と同盟を結んだらしいが、それだけではないはずとリオンには確信めいた推測があった。
(この婚姻によってリリスに変化がもたらされた。キヨツグはリリスを変えるつもりなのか)
 ならば。キヨツグの進む道はどこまで長く険しいものだろう。
 過去と現在と未来を夢に見るライカは、決して口を開かない。常に同じ速度で流れている川を眺めるのがライカであり、投じた一石がアマーリエならば、そこに流れるものがリリスたち。新たな流れの行く先を、まだ誰も知らない。
「私たちはどこへ行こうとしているんだろうな」
「将軍!? まさかこのまま離脱されるんですか!?」
 小隊長が泡を食ったように叫ぶ。リオンは何度か瞬きをして、どう取られたかと理解すると笑い声を爆発させた。途中で笑い声を挟みながら、言っておく。
「私の行くところは決まっている。剣の握れるところだ」
 天の椅子でも、どこか良家に降嫁するのでもない。いつでも剣を握り続ける荒れた道。その道を許してくれたことだけ、リオンはキヨツグに感謝している。不遇だと思ったことは一度もないと断言できた。
 そうか、と次の瞬間思った。流れの行く先を知らぬのなら、自分で望む道を行けばいいのだ。
「離さずにいようか、この剣を」
 そう言ったのを、小隊長は何故か感激したように頬を紅潮させ、頷いた。
 この剣を手にと呟いた声がやがて唱和されていく。死の蔓延するただ中へ戻ろうとするというのに、彼らは恐れを抱いていない。彼らの選んだ生を叫ぶ場所は、戦場だ。
 不器用なことだと、リオンはそれを悲しく胸に刻んだ。悲しみを抱くのは身勝手なことだろうが、リオンは彼らに道を示すしかない。
「境界へ」
 そこでしか、生きられない。だからアマーリエを気に入ったのかもしれなかった。

|  <<  |    |  >>  |



|  HOME  |