―――― 第 1 2 章
|  <<  |    |  >>  |

 色褪せた草原に、その色彩を吸い取るような白い雪が天から降ってくる。しかし風は止んでいて窓を揺らすことはなく、静けさはゆっくりと確実に訪れる時間を感じさせた。
 雲の色は銀灰色。このままではまた積もるかもしれないと、数日前の雪がまだらに残った建物の屋根や大地を浮かべて思う。通ってきたシャドの大通りには、きっと毛皮の前を掻き合わせた人々が行き交うのだろう。都市のように大勢ではなくとも、きっとそれはどこでも変わらない光景。
 リリスの色は、夏の緑、秋の紅から、冬の白へ巡る。
「真様。外で遊びたい」
 同じように外を思っていた少年が、アマーリエの袖を握って言った。
 アマーリエの腰くらいまでしかないリリスの子どもは、赤い頬をして、憧れるように外を見つめている。きっと草原を転がるようにして遊ぶのだろうと、彼に少しだけの同情ととても大きな愛おしさを感じて見つめた。くしゃりと髪をかき混ぜる。
「だめ。まだ熱が下がらないんだからね。はい、このお薬飲んで」
 子どもは嫌な顔を隠さない。次の瞬間、その跳躍力を持って飛び離れた。
「やだ! それ苦い!」
 大人は必要ないかぎり跳ばないが、子どもはコントロールしない身体能力を見せて、時々アマーリエを驚かせた。この時も一瞬ぎょっとしたが、唇を引き結んでじっと仇のように睨んでいる猫のような瞳を見れば、思わず悪戯心ももたげた。
「蜂蜜をたっぷり入れて甘くしてあるんだけどなあ」
 杯をちらつかせ、そこに蜂蜜をたらりたらりと注いでみる。子どもは驚いて食い入るように、薬とアマーリエを見比べて。
「ああ、おいし」
 とアマーリエが杯に口をつけたのをきっかけに、「……飲む」と押し殺した声で言った。大成功。思わず笑ってしまった。
 両手で持った杯に初めて口をつけて、その顔がみるみるうちに、泣き顔のようにくしゃくしゃになる。
「苦い!」
「でも全部飲めたね。えらい!」
 撫でると、少年はくしゃくしゃの顔からくすぐったそうな笑い顔になった。
 彼を寝台にやって布団をかけ直してやっていると、ハナがやってきて顔を出した。うつらうつらしている患者を看て、眠ったのを確認して、アマーリエは繋いでいた手を布団に入れてやってから部屋を出た。
「うちの子も元服をしようって時に風邪を引くなんて、運が悪いとしか」
「いくつになりましたか?」
「九歳になりました。もう宙(そら)に連れてゆかれることもないと思って、元服を決めたのに」
 そう言った夫人は、はっとアマーリエを見て、小さく首を竦めた。理由が分かってしまうアマーリエは、ただ静かに笑っていることしかできない。多分、これは受けなければならないのだと知っているから。
 初めはシャドでの医療助手、やがてシャドから少し離れた村で往診をするようになって、半年ほどが過ぎた。アマーリエがリリスにやって来てから一年が巡ろうとしている。ヒト族の真夫人の存在に大きな騒ぎになることもなくなり、助手としてのアマーリエの存在が定着して、よく世間話をするようになった。
 しかし、最近は少しだけ重たい。気遣われるのが分かるからだ。
「今回は軽い風邪です。処方した薬を用量を守って飲ませてください。大丈夫ですよ、夫人」
 ハナが言って、夫人は頷き、深く頭を下げた。
 家の外に出ると、白い息を吐いていたユメが近付いてくる。待っていてくれた彼女から落花の手綱を受け取った。いつも通りだ。今日はシキも往診の手伝いで別の家に行く日だったために、ユメと共にハナを待っていた。
 往診した少年の成長を知っているシキと、彼のことが話題に上った。
「元服だって。九年って早いね……っていうのは、私の感覚なのかな」
 うん、とシキが同意する。
「でも子どもの成長は早いよ。一年もすればすぐに変わる。二十歳くらいかな、外見の老化が止まるのは」
 そういえば、確かにシキは二十代の外見だ。マサキも当時のアマーリエとあまり変わらなく見えたし、キヨツグは雰囲気のせいかもう少し上に見える。
 リリスの人々は誰も彼も整った外見をしているが、童顔というのはいない。背が高く、男女ともに涼やかな目鼻立ちをしている。それでもキヨツグのように雰囲気を持っているせいか、厳粛であったり、穏やかであったり、軽快に見えたりする。
 なので、アマーリエは自分が大人ではなく、子どものように見られているのが分かっていた。見られているというより、見守られている、という感じだ。そう低くはないはずの身長は、リリスにとっては子どもと同じくらいなのだから。
 シキは、高い位置からアマーリエに視線を注ぎ。
「……君も、一年でとても綺麗になったよ」
 惜しみなくそう言ってくれた。頬がちりちりと温かくなったのは、寒さだけのせいではないだろう。
「なにそれ」
 照れ隠しに少しだけ唇を尖らせてみると、シキは深く笑った。本当だよ、と言われている気がした。
 もし本当だとしたら、それは。
 ハナが夫人に挨拶を終えて出てきたので、考えたことを打ち消す。
「それでは、真様。私は診療所に戻ります」
「はい。またよろしくお願いします」
 今日の往診は終わりだ。アマーリエはユメと共に王宮へ戻る。シキとはそのままハナの手伝いで診療所に顔を出すからと別れた。
 馬を駆って、王宮へ。冬の冷たい風が向かいから吹き付ける。残雪に再び降り積もる同じ白い花が、身体の正面にも咲くように付着していくのが分かった。少しずつ冷たくなって、防衛反応としてまた温かくなっていく身体に、まだ少し春は遠いと感じられる。
 途中、アマーリエは少しだけ道を外れた。ユメは黙ってついてきてくれる。
 落花から下りた足下にあったのは、小さな屋根のついた祠だ。人の形のようなひょうたん形の石が安置されており、それに向かって、アマーリエは手を合わせた。王宮にある祖霊の廟には、単純に安穏の祈りを。こうして大地に繋がる場所には、願いをするのが習慣になりつつあった。
 いつか、マサキに『ヒト族には一族の観念が薄いと聞いた』と言われたことがある。
 都市において、偲ばれる故人は、どちらかというと近しい者の方が圧倒的に多い。祖父母以上になるとほとんど冥福を祈ろうとする人はいなくなる。先祖を蔑ろにしているわけではないが、そういった無意識からだろうか、リリスでの祖霊に拝していてもどこか遠く感じてしまう。一族の観念が、やはり薄いからだろう。
 こうしてあちこちに祈りの対象があると平穏でいられることを知った。しかしどちらかというと、土地に根ざしたものの方が、何かの力がずっと強いとアマーリエには感じられていた。
(あ、そうか、あの話……)
 再び巡ってくる記憶を、アマーリエは思い起こす。
 半年前、夏の頃、キヨツグが不在の時、アマーリエは命山に足を踏み入れた。とても白い場所があって、そこに剣らしきものがありました、と帰還した報告すると、キヨツグは目を細めて語ってくれた。
 それは墓所であるという。リリスの始まり、起源たる『最古の者』の。
 墓所にしてはとても大きい、何人かいらっしゃるんですかと問うと、一人だ、中で眠るからとても大きいのだ、とよく分からない返答があった。
 リリスの各地にある社や祠は、『最古の者』と同じ生き物が祀られているために、都市の守り神として敬われている。
 本当かどうかは分からないと思ったけれど、何故かキヨツグは心から信じているように見えた。きっと、ユメもハナもシキも、夫人も少年も、信じているのだろう。
 あの子がよくなりますようにということも願っておく。
 リリスは長寿で頑健ではあるがそれは大人の話で、子どもは生まれにくく死亡率がとても高い。六歳くらいまでは風邪でも油断は出来ず、薬草師や医術師が各地で治療に当たるものの、力及ばずに死亡することもままあった。ハナはそういったところでもアマーリエを助手として連れて、きちんと目を開かせて確かめさせていた。その場にも居合わせたことも数えられる程度だがある。アマーリエの立場上、その家の優遇ととられることになるので、葬儀に参列することは出来なかったが、それでも現実を感じるにはとても強い薬であり毒だった。
 多分。
 アマーリエは何度か考えたことをまた考える。
 リリスではない自分が族長の結婚相手として容認されたのは、無事跡継ぎを生むための、ヒト族の娘としての受胎能力を期待されたのだろう、と思う。
 待ち望む人々がいるのを感じ取れるのは、自身で子どもの問題に気付いているからだろう。自身で気付けば自然と敏感に感じ取れる。いくら誰かが、自分がリリスに来た頃のように、上手に悪意を遠ざけたとしても。
 ヒト族の寿命はリリスと比べて短い。このままでは、世継ぎが生まれることなくアマーリエの命が尽きる可能性があった。そんな簡単に尽きないだろうと思うのだけれど、リリスの感じる時間を思えば当然なのかもしれなかった。
 綺麗になったよと言われた。それは、アマーリエが時を進めていることに他ならない。彼らよりも、数倍の早さで。

   *

「ただいま」
「お帰りなさいませ、真様」
 アイたちに帰宅を告げて、衣装を改めてもらい、用意してもらったお茶をみんなで飲む。麓の村の話をすると、アイたちは王宮での色々な噂話をしてくれる。
「コウダイ様はまた女官にちょっかいを出されて!」
「あの助平親父、首を切られたらいいのに」
「この間のリナ令嬢の額飾りを見ました? すんごいんです。金の固まりが後光のように、こう……」
「う、それは趣味が悪いわ」
 彼女たちはもう本音は隠さないし、アマーリエが話を聞いて笑っているのが好きだと知っているから好き勝手に喋っているけれど、アマーリエに不安を寄せ付けないようにしている。気遣いが嬉しく、でも、居心地が悪い。
 もっとしっかりしようと、決意がまた上塗りされる。
「都市の報道機関も来なくなりましたわね」
 アイが遠くを見てそう言うので、アマーリエも思わず外を見た。そうだねと頷く。
 リリス族長の都市訪問以来、政略結婚という言葉は完全に払拭できず、キヨツグとアマーリエを取材しようと境界に張り込んだり粘ったり、境界を突破して侵入してきた過激派な報道までいたが、いずれも取り押さえられて王宮まではもちろん踏み込んでいない。半年もするといなくなった。都市の情報の移り変わりは早い。ニュースは流行なのだ。山場を越えれば萎んでいく。
 それでも取材を続けようとする者もいたようだが、一向に現れない、取材にも応じないリリスに愛想を尽かしたらしく、もう影も形もなくなった。リリスはようやく平穏になりつつある。そのことに、アマーリエはひどくほっとしている自分に気付いていた。
 ここを誰にも侵されたくない。誰にも知られたくない。隠しておきたいくらいきれいなところ。都市の生活を当然と思うのなら、楽しいところを知ってしまった時の帰りたくない気持ち。リリスは、すでにアマーリエの国になりつつあった。
 誰にも邪魔されず、勉強はだいぶと身に付いて、王宮の礼儀作法は文句無しだと言われながら時々怒られるくらい。医療助手としての仕事は慣れて、訪問する家々の人々は優しくしてくれてありがたい。
 幸せだった。満ち足りて心乱されない日々がそうだというのなら。
 けれど。
「真様、先触れが参りました。天様がお戻りになられます」
「分かりました。じゃあ迎えに行きます」
 表に出ると、瞬水から下りたキヨツグが真っすぐにこちらに向かってくる。抱きしめられた。
「今戻った」
「はい。お帰りなさい」
 そしてこうしてこの人がいて、抱きしめてくれて、愛してくれている。いなくなればきっと寂しくて狂い死んでしまいそうなくらい、アマーリエだってキヨツグを愛している。
 幸せだ。幸せなのに、けれど、背中に回した手が、何かを掴めなくて震える気がした。

|  <<  |    |  >>  |



|  HOME  |