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 昼間受け取った自分宛の手紙をようやく開封する時間が訪れた。外出した先でお世話になった人々からの私信だ。視察で訪れた貴族、武家の奥方やご令嬢たちからの挨拶。領地に帰ったユイコからも何度目かの手紙が来ており、文字がとても繊細だが書いている内容は弾むように明るくて、彼女らしい手紙だった。以前の返信でマサキのことを尋ねたのだが、彼女は今は教えられないと茶化して書いてあった。ちょっとだけ、どういうことだろうと疑問がもたげる。何か良い方向にあるのだろうか。
 次の手紙を取り上げると、戦線である境界にいるはずのリオンからだった。読めないくらいの達筆は豪快に太く、そろそろ戻れそうだと知らせが書いてあった。
 アマーリエが結婚して、一年。モルグとリリス、そしてヒトは、それぞれの境界線を保って均衡していた。大きな争いはほとんど起こっていないと聞いている。
 再び手紙に目を落したアマーリエは、時計を取り出して時間を見た。返信を考えるくらいの時間はありそうだ。手で触ってしまったので、時計の細工を袖で丁寧に拭ってしまっておく。
 代わりに携帯電話を取り出して電源を入れた。手紙の下書きは紙がもったいないので、メモ帳機能を使うと節約になるし便利なのである。ぶるぶると震えて起動した携帯電話に、ふとメール受信のアイコンが出ていることに気付いた。
 長文のメールは、ミリアからだった。こういう長文メールを送る友人も他愛ない話をしてくれる友人も少なくなっていたが、それでもまだ思っていてくれる人たちがいることを、電源を入れる度にアマーリエは気付かされる。機械が便利すぎて、都市では刃物のように何かを削ぎ落してしまっているけれど、一方で結んだ何かは、普通よりも強固なように思えた。
 ミリアのメールは、後期試験の勉強についての弱音と、この時期にある行事についての世間話だった。
「そっか、もうそんな時期なんだ」
「……何がだ?」
 側で囁かれて飛び上がる。
「キヨツグ様!」
「……友人か。何がそんな時期だ?」
 いい声だなと思いつつ、驚いた心臓を鎮めてアマーリエは微笑んだ。
「もうすぐ成人式だって書いてあったんです。そういえばそんな季節なんだなって」
 キヨツグは疑問を顔を浮かべた。
「……お前は二十歳ではなかったか」
「ヒト族は満二十歳になった男女を、一月の祝日の日に集めて成人式をするんです。リリスは元服や裳着を大体十代前半にしますけど、それは儀式みたいなもので、本当の成人である満二十歳に様々な権利が与えられる……んですよね?」
 キヨツグは頷く。安心してアマーリエは続けた。
「リリスでは元服なんかでやるお祝いを、ヒト族は満二十歳になってするっていう感じです。リリスほど大きな儀式をするわけじゃなくて、広い会場で目上の方の話を聞いて、後は友人たちで飲み会をする式が多いんじゃないでしょうか」
 何か深く考えていたキヨツグは、アマーリエを見つめると、そっと顔を寄せて尋ねた。
「……では、お前は成人式をしておらぬのか」
「そうですね。まあ、現代では行かないっていう人が多いですし、家族で祝うか、仲の良い友人たちと後日っていう人もいますよ」
 携帯電話をしまっていると、キヨツグが黙っていることに気付く。口元を手で覆い、眉間に微かな皺を寄せていた。不機嫌にも見える。
「キヨツグ様?」
 呼びかけると、キヨツグはふっと息を吐き、こちらに向き直った。
「……エリカ」
「はい」と思わず背筋が伸びる。
「……都市へ行け」
 しばらく見つめた。周囲からの音が、二人の間にさらさらと流れてくる。木々の音、風の音。掃き損なった落ち葉が、玉砂利の上を踊っていく音。
 アマーリエの口から落ちたのは、呆然とした「えぇ?」というまるっきり気遣いのない疑問の声だった。あまりのことに、行き場のない両手が無意味に上下する。キヨツグは玉のような目で静かにそんなアマーリエを見つめている。
「ちょ、ちょっと待ってください。あの、別にヒト族の成人式は、絶対通過しなければいけない儀式というわけではなくてですね」
 リリスにおいて、元服と裳着は子どもの成長を祝う大事な儀式だ。もう不意に命を落とすことはないだろうと大人たちが安堵する時期に行われる。しかし都市の成人式は、リリスのように冠を授けるわけでもなく、晴れ着やスーツで集まる同窓会を兼ねている。
 なんと言ったらいいのだろう。額を押さえて呻く。
「出なくてもいいんです、別に。もしお祝いしてくださるなら、ここで、みんなと」
「……気分転換には、なろう」
 言葉を呑み込んだ。声が、とても温かい優しさで包もうとするので。
 けれど、そこのある寂しさにアマーリエは言葉を呑み込んだのだ。
「……時間が空くと、廟や祠を詣でている」
 ばれていた、と俯く。しかし、こうなることを知っていたような気もした。
「すまぬ」
 そう言われることも。だが、言葉は深く双方の心をえぐった。どちらも鋭く息を飲んだ次の瞬間、思わず叫んでいた。
「謝って欲しくないです! 私にも責任があります……」
 子どもができない。
 それは、誰のせいでもきっとない。結婚に当たって、事前に詳細な健康診断を受けたことはきちんと覚えている。もちろんキヨツグもだろう。その二人の状態の確認の結果が政略結婚相手として成立した理由の一つだと、今なら分かっている。
 それでも子どもができない。塚や祠や社や、廟を詣でるのは慰めだ。『私のせいでも彼のせいでもない』ことの確認。そして、どうか、という願いをかけるため。こればかりは、リリスの国ではどうとも出来ない問題だからだ。都市のように、不妊治療の研究が進んではいないのだから。
 誰もこのことを責めはしないけれど、月日が流れるにつれ、期待は高まっていくのが分かっていた。期待はアマーリエの中で重圧に変わり、少しずつ辛さとなって未来に霧をかけていく。――このまま、真夫人としての役目を果たせないのだろうか。
 しかしだからと言って、都市に行こう、検査を受けよう、とは思わなかった。その根底にあるものを見つめようとすると、ひやりとする何かがあってアマーリエは見定めきれずにいる。
「……都市に行って、少し違う空気を吸ってくると良い。ユメ御前をつける。イリア殿に連絡を取れば、都市に入れよう」
 都市。戻れないと思っていた場所。風が吹くように駆け抜ける、いくつかの景色があった。人の群れ。リリスでは見られない街の景色。携帯電話がぽっと熱を灯したような感覚はずいぶん久しぶりだった。
 気付く。自分はまだ、都市を思っている。
 もし嫌かと尋ねられれば、そんなことないと首を振るのが正直な気持ちだ。それを知っていて、嫌かとキヨツグは聞かない。
 寝支度をするキヨツグの袖を掴んでいた。
「……離れるのは、嫌です」
 キヨツグは手に触れながら優しく首を振る。少しだけ嬉しそうに見えたが。
「……聞き分けのないことを言っている」
「分かってます。でも……もし帰れなくなったらと思うと」
 自分でも意味の分からないことを言っていると思っていた。
 二度と足を踏み入れることのできないと思っていた、懐かしい故郷に行ける。なのに、アマーリエにあるのは不安だった。あれほど最初の頃は帰りたい、戻れない、寂しいと思っていたのに、今はとてつもない不安ばかりで、何故なのだろう、この人から離れたくない。
(私は……都市を信じていない、の?)
 浮かび上がった思いはすっと心を通った。少しだけ冷たいものが輪郭を伴った。都市は、未来を否応なく決定した。再び何かがあったとしたら、今度もまた、アマーリエの世界を無慈悲に取り替えてしまうだろう。無理矢理結びつけたあの世界が、今度は自分たちを引き裂かない保障はない。
 キヨツグは俯いてしまったアマーリエの肩を抱き、髪に顔を埋めてくれた。
 温かさが伝わる。大きな手のひら。
「……分かった。善処しよう」
「行くとは言わない?」
 ありがちな定型文に、拗ねた言葉が落ちる。
「……分かろう?」
 キヨツグ・シェンはリリスの族長だ。半年前の騒ぎは異例中の異例。もう何度も例外はないのだ。
「……もう眠れ。都市への準備は私がしておく」
 そう言ってキヨツグは明かりを吹き消した。一瞬の暗闇の後、うすぼんやりと明るくなっていく視界。夜は更けていく。暖まる寝具の中で、アマーリエはずっと、小さな子どものようにキヨツグの胸を握っていた。

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