―――― 第 1 3 章
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 足跡のない雪原は不可侵の証だった。リリスの場合は、である。
 境界と呼ばれる国境には、ヒト族とリリス族の間ほどの明確な線は引かれてはいない。ヒト族の国とリリス族の国に本当に『境界』を作ったのは、もうリリスでも誰も覚えている者のいない古い時のことだと聞いていた。覚えているとしたら、とリオンは瞬きをして睫毛の雪を落とす。覚えているとしたら、自分もまだ顔を合わせたことのないリリスの姫くらいのものだろう。若輩のリオンが教えられてきたのは、あの境界は封印の外周であるということだ。
 封印。何かを封じた印。
 では、封じられたのはリリスかヒト族か。
 今リオンたちが対峙しているモルグは、その封じられし者ではないのか。
 今も雪が静かに降り積もる原野の向こうに、葉の落ちぬ深緑の森が広がっている。その更に向こう側にはいくつかの山が連なっていた。モルグの領地である。
 雪が降り積もろうとも、リリスの足跡は残っても、モルグの足跡は残らないかもしれない。モルグは潜伏と奇襲を得手としていた。斥候が綺麗に足の腱だけを斬られて戻ってきたことを、リオンは今でも覚えている。誰も気付かなかった、そこにいて生きているのは自分たちと植物だけだった、となんとか戻ってきた斥候は報告した。その時、死者は出ていなかった。
 死者が出るのは、少数精鋭が襲ってきた時くらいだ。しかしそれも運悪く命を落としてしまった、という表現がされるくらい数も少なく、また、終わった後はどこか遊戯めいた戦闘が行われていたと感じるのだった。
 モルグは、遊ぶように戦いを仕掛ける。それが、天の意志ひいてはリリスの意志として、決して自ら刃は向けぬことを誓っていたリオンたちの感想だった。だからこそ、リオンはつい『彼ら』とモルグ族を人称する。武士も兵士も、どこか彼らに共感を覚えている節があった。リオンは自軍の気質をよく知っている。
 しかしそれは崩れてしまった。
 死者は数を増した。決まって、モルグ族とヒト族の戦闘の場合だった。これまでリリス軍は彼らの戦いの様子を、天の意志を受けて静観することを使命としていたのに、同盟のためにリオンはヒト族から兵士の借用を強請されていた。王宮から遠く離れた地、指揮官として判断を仰がれ、リオンは第一にヒト族に条件をつけた。決して自ら攻め込まぬ場合においてのみ、と。
 ヒト族の奇襲攻撃は、これまでの出来事を知っていれば目に余っていた。援護の支援だけだと申し渡せば、ヒト族の指揮官は不快そうな顔で渋々了承した。
 だから決して被害は出ないはずだったのだが。
 舞い踊るように、浮かれ騒ぐように、遊ぶように戦うモルグが、ヒト族に対して本気の殺戮を行ったのが一ヶ月前。援護のために軍の一部を借用し、その一部の者たちからも死者を出した。
 流石におかしいと気付いたリオンが、自身の判断でモルグの領地に斥候を出した。戻ってきた者たちは、無事にはすまなかった。
 そうして。リオンは、長年の攻防で定まった不可視の境界の間際で、深緑の国を見据える。今まさに、雪空の白に溶けていく、灰色の煙が望める。
 一週間前に起こらなくなった奇襲。すっかり姿を見せなくなったモルグ族。リリス族はその保守性から静かに動向を見守る体勢を取り。ヒト族はしきりにリリスに連絡を取ってくる。
 鋭く吐き出した息が白くなる。
(何故だ?)
 何が起こっているのだ。

   *

 戻ってきたキヨツグに、そこに座ってくださいと言い渡す。不思議そうな顔、疲れているだろう時間帯に胸が痛んだが、それよりももっと心配なことがあった。
「何か引っかかるところがあるのなら、私に話をしてください。物事を整理すると、きっと考えがまとまります」
 大きく瞬きをしたので、とても驚いたようだ。
 境界の報告を尋ねると決めてから、キヨツグの周囲は一層慌ただしい。休む時間もあまりない様子だと聞いている。それが心配だったのは、そうしてキヨツグが、心を無くすのではと思ったからだった。
 キヨツグの中に存在する様々な顔。切り返しが巧妙な彼は、必要なくなると自身のそれを削ぎ落としていく気がしていた。
 キヨツグは、ふっと椅子に深く腰掛けた。
「……モルグの動向が気にかかる。彼らは戦闘種族だ。軍を下げるのは何かが起こったとしか思えぬ」
「軍を……下げた?」
 キヨツグは頷いた。
「……モルグがそれまでの陣を解き、後退したらしい。私の報告要請の直後に来た。恐らくリオンが要報告と判断したのだな」
「リオン殿は、なんて?」
「……妙だと。この一ヶ月小競り合いすらなく沈黙しているのは、何かを画策しているのか、何か起こったのか」
 そう、と彼は一人ごちる。
「……文にあった。どうやら火を使っているらしい。何日も煙が立つと」
「火? モルグが、火ですか?」
 モルグは森と地の民だ。詳細は明らかになってはいないが、ヒト族に似た外見をしているらしい、しかしリリスともまた違う異種族だ。その種族の特徴として、異能力の存在があった。超能力に似ているらしいと、報道などで見た覚えがある。
 彼らは主に深い森や山脈などに暮らしているらしい。リリスの土地にも争いを求めないモルグが暮らしているだろうと、しばらく前に聞いたことがあった。その街や村の存在を誰にも発見されていないため、生態は把握できていない。唯一確かであろうとされているその能力と、住まうところからの宗教観のためか、モルグは火を使わない種族と一般に認識されているのだが。
「……確認しに行きませんか」
 アマーリエはそう尋ねていた。意志の固さで断言に似ていた。キヨツグは面食らったように息を呑み、更に考え込むような仕草を見せる。
「……そうだな、……何者かが……何事か考えているとすれば、赴くことで牽制になるやもしれぬ。この事態に、境界の者たちも不安であろう」
 何者かが、と濁した部分をアマーリエは耳に拾い、浮かび上がるものに気付いた。イリアの報告を考えれば、可能性は決して消えはしない。
「私も行きます」
「……エリカ」
「ずっと都市にいる間も、モルグ族とのことは避けてきたようなものです。テレビの中の出来事だったけれど、自分のこととして考えたいと思ってました。見なくちゃ、伝えられません」
 それは無理だと言うように首を振られたが、引き下がるつもりはない。
「キヨツグ様、私も、一応剣を使うようになりました。誰かを斬りつけたことはありません。でも、持っているものがどういうものなのかは分かっているつもりです」
 彼は静かな目でアマーリエを見つめている。
 その黒真珠のような瞳を見つめ続ければ、ひとつの言葉が浮かび上がった。それは本心ではなかったかもしれない。芝居をするように、物を書くように流れで浮かんだものかもしれない。
 頭の隅にあったのは、恐れ。
「……私は、守られるだけなのは嫌です」
 もしこの人を失ったらという恐怖。
 声は震えた。泣き声のように聞こえたかもしれないと思い当たり、はっと唇を噛む。俯きはしなかった。泣いているように思われるのは心外過ぎる。しかし、恐怖に気付かれるのも嫌だった。だったら不安に思っていると考えられた方がいい。
 剣に対しての恐怖を覚えないことが、なんだか妙だった。アマーリエは、ずいぶん昔のことになったが、リリスに来る途中に襲撃された記憶を持っている。あの時怪我人は誰もいないとも言われたし、襲撃者の姿も見ることはなかった。それでも、悪意を持った誰かが襲ってきたことを、アマーリエは記憶に残している。
 ふと気付く。キヨツグの顔を見た。
 あの時の襲撃。キヨツグは、あれを一体誰のものだと判断したのだろう。
「モルグ族は」
 キヨツグが瞬きをして、呟いたアマーリエの様子を改めて見ている。
 毎日に精一杯で思い当たらなかった。襲撃者を自分自身でモルグ族だと思っていたこともある。周囲も、そう思っていた様子があった。
 もしそうならば。
(モルグ族は、私を襲う理由がある……?)
「……エリカ」
 考えを止めさせるように呼びかけられる。立ち上がったキヨツグは、向かい合うアマーリエの前に跪き、そっと頬に手を添える。
 アマーリエを連れる意味があるのかと考えたのかは分からないが、彼はそっと「分かった」とだけ言ってくれた。

   *

 俯せて眠る妻の髪をいつまでも梳いている。彼女の寝息が規則正しくなり、時折深く呼吸し始めたため、もう眠りに落ちたのが分かる。
(都市が欲するのは世界の覇権か)
 意図的に濁した言葉を彼女は理解したろう。思わず本音が洩れるほど疲れているらしく、キヨツグは自責の念にかられる。故郷が敵に回るやもしれぬとは聞かせたくはなかったのだが。
(モルグの土地だけではなくリリスの土地までも。エリカがリリス陣中にいるとすれば、ヒト族もしくはモルグ族がどう動くかの見極めになるか)
 そう考えていることは。キヨツグは目を細める。裏切りなのかもしれない。
 アマーリエの存在は人質だ。ヒト族はリリスの支援を得るために政略結婚を呈示した。万が一リリス族が脅威になってはならないと考えたことは容易に考えられる。ヒト族は憂いを断ちたかった。これ以上の発展に、他種族との戦争は避けたいことだったはずだ。
 リリスとヒト族の同盟は三種族の牽制だ。現に巧くいっていた。ヒト族は安易にモルグ族と戦わなくなり、モルグ族はヒト族とリリスを警戒し、リリスは二種族と相対し始めることができた。リリスとしても、変化は必要だったのだ。
 この先を生き残るのなら、流れを無視し、廃しては残れない。そのための結婚。そのためのヒト族。それがアマーリエ・エリカの幸福だったのか、キヨツグは未だに疑問に思うことがある。
 ただ、リリスにいるのならば、ここで幸福であるようにしてやりたかった。
 ああ、とキヨツグは苦笑に近く、幸せに嘆息する。いつの間にか、アマーリエのことを考えている。
 もう少し望むものがあるが、求めるよりも与えてやりたい。
 だからキヨツグはここにいる。そして、恐らく境界に連れていくだろう。

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