―――― 第 1 4 章
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 月の下の口付けは、触れるだけでそれ以上はなかった。何もせずに抱きしめてくれている彼の身体がほんのり温かかくて、冷たい夜気が心地よくて。アマーリエはこれが失われるときのことを考えて、とても遠いところを見ていた。月の向こう、あるいは時の流れの向こう側を。
 そのまま静かな時間が過ぎると思っていたのに、それを打ち破ったのは携帯電話のバイブレーションだった。床の上に置いてあったのでものすごい音で響き渡り、キヨツグはアマーリエの身体が強ばったのを感じて緊張をみなぎらせてしまった。
「だ、大丈夫です! 携帯電話が……」
 離れたキヨツグに急いでそう言って携帯電話を拾い上げる。メールだ。ミリアからで、感染症の流行を心配するものだった。
「すみません。返事を打たせてください」
 そのままボタンを押して簡潔に返信する。送信が完了すると、キヨツグの優しい微笑みに目が釘付けにされた。おずおずと、窺うように首を傾ける。
「……都市でそれを手にしている者たちを大勢見た。余程便利な機械なのだな」
 アマーリエはつい赤くなる。一年前、これを取り上げられたことに落ち込んだ自分を思い出した。同時に、キヨツグがこっそり取り戻してくれたことも。多分あれが、『最初』だ。
「そうですね……普及率はほぼ十割に近いみたいですし、連絡手段としてこれ以上のものは今のところないですから……あんまり使わない機能もあるんですけど」
 照れ隠しにそう説明する。ワンセグなど、アマーリエが都市にいた頃はまったく使わなかった機能だ。ラジオも聞かないし、地図のアプリケーションも、ネットに繋いだ方がよく使えることもある。
 そこで、急の思いつきに胸が鳴った。思いつくと、それを実行したいと身体が動きそうになる。しかしあんまり良いことではないかもしれないという葛藤があった。
「……どうした?」
 様子を注意深く見て取ったキヨツグはそう尋ね、アマーリエは携帯電話を両手でぎゅっと握りしめた。「なんでもない」と言うことは容易いけれど、願い事が一つ、些細だからと大きな声を上げている。
「あ、の……」
 その叫び声がうるさくて、がんがん頭が鳴る。キヨツグの目が月を取り込んだように輝いて、自分からは噴水のように熱が噴き出すような気がして。
「しゃ、写真を一緒に撮ってくれませんか……!」
 そう叫んでいた。
 キヨツグは。
「写真」
 繰り返して首を傾げた。
 ああそこからの説明かと思って、アマーリエは床に両手をつく。確かにリリスの文化にはない言葉だろう。肖像画という言葉はあっても、写真はともかく、写メというのは。
 取りあえず自分がとても恥ずかしいことをしている自覚はあるのでそのままなかったことにしようかという考えが過る。一緒に撮った写真を欲しがるというのは、普通のカップルにありがちで、定番だ。恋が分からないと言っていた頃が嘘のように、恋愛の定番を踏襲しようとしている自分が恥ずかしい。
 でもやっぱり、写真は欲しい。
 そのまま苦悩しているアマーリエに、キヨツグは呆れたらしい。
「……構わぬ。好きにしろ」
 驚いて顔を上げた先に、どうすればいいのかと迷うキヨツグがいて、アマーリエは慌てて、それが肖像画の一種であることを告げ、そこに座っていてほしいと伝えた。並んで座りながら、携帯電話のカメラを起動し、カメラをこちら側に切り替えた。ディスプレイに映ったキヨツグが、まじまじとそれを見ている。
「……これは、すごいな」
「あの黒い丸に向かって笑ってください。いつも通りでも構いませんから」
 ディスプレイのキヨツグが、アマーリエにもはっきりと分かるくらい微笑んでいる。機械を前にしても驚きがなくてさすがだと思ったが、慣れたようにアマーリエの肩を抱くのでそれに驚愕し、思わず顔が緩んだ。
 月と星の光が照明になった。電子音のシャッターが響き渡り、今日の日付で、二人の肖像が携帯電話に収まった。それは今のところ、どうやら永遠に似ているようだった。
 どうか、いつかの時を癒すための手段にすることを、どうか、許してほしい。

   *

 停戦から二ヶ月ほど。新型感染症は、その特徴からフラウと名付けられた。
 都市の医療チームはリリスに迎え入れられた。外交官以外のヒト族の訪問は始まって以来のことと大々的に報道されたが、感染症に接触する可能性があるとしてリリス側は立ち入ることを却下とした。ヒト族もモルグで多数の死者を出している病に感染する万が一の可能性を恐れ、それ以上の踏み込みは強行しなかったようだ。
 リリスでは予防接種を受けることが最優先事項であったため、王宮側は連日そのために動き回らなければならなかった。通常でも死亡率の高い子どもが優先的に接種を行うようにし、次に医療関係者、境界にいたリオンの軍、あとは順に各地へ飛び回る率が高い商人たちや、発熱し身体機能が弱っている者などと続く。
 多くのリリスが、ヒト族を目の当たりにし、彼らの持つ注射器に怯えた。アマーリエは飛び回りながらそれが安全なものであることを説かねばならなかった。リリスにおいて感染の可能性が格段に低い唯一のヒト族として、やらねばならないことは山ほどあった。
 そうしなければ。立ち止まってしまえば。
 もう二度と歩き出すことはできないと知っていたからだった。
 冬の日が落ちるのは早い。ヒト族を招き入れる際、リリス保守派の譲歩として出来るだけヒト族の文明は持ち込まぬようにということで、チームの荷物、特に機械は必要最低限にされていた。照明は火になってしまうリリスの国で、ヒト族の人々の仕事はやりにくいというのがチーム側の意見だったため、日が落ちると仕事を終了させるようになっていた。代わりに、深夜でも感染の疑いがあるようならすぐに来るようにと公布している。チームの一部は夜勤と称してシャドの中に張った天幕にいた。
 自然にそういう指示が出来たのは、都市での友人の一人であるルーイがスタッフの中にいたためで、彼とアマーリエがつなぎとなり、双方の意思疎通を図ることは思ったよりも困難ではなかった。
 その彼らや王宮で睡眠を取る彼らのために、夜食や、必要なものはないかと尋ねるように二人の使いをやった。戻ってきた彼女らが何事もないと報告するのを聞いてから、アマーリエは王宮でも使われていない奥の奥、静まり返った宮に足を踏み入れた。
 灯火は絞られ、足下が不安定になるほど薄暗い。宮の中でも最奥の部屋に行くと、リュウ医師とシキが強ばった顔で振り返り、アマーリエだと知ると安堵の息をついた。
「様子はどうですか?」
「高熱が下がりません。かろうじて意識は保っておられましたが、先程眠りました」
 するすると近付いて、運び込んだ寝台に眠る人の髪をかきあげる。額から感じられる熱は汗をかかずに高いままだ。
「後は私が看ていますから、リュウ医師とシキは休んでください」
 親子だからか二人は似たような表情をし、シキはそっと囁いた。
「アマーリエ。無理しないで。君、昼間も飛び回ってるよね?」
「大丈夫。シキは他の人たちのこと、お願い。発病者の看護が出来るの、私くらいしかいないから」
「君の顔色が悪いんだよ。休んで」
 アマーリエはそれでも固辞した。
「お願い、やらせて」
 アマーリエが、過去に自分が役に立てないと漏らしたことを覚えていたのだろうか。シキは微かに眉を寄せると、一時間だけだよと言った。リュウ医師は、シキと隣室で待機しているからと声をかけていく。
 扉が閉まると、アマーリエは寝台の寝顔をじっと見つめた。荒い息を吐き、激しい苦しみに瞼が微かに動いている。布団から覗く首元に、血の色の桜を散らせたような発疹が見えていた。花のような発疹。フラウ感染者の特徴。
「――キヨツグ様……」
 呼びかけても、どんな些細な声でも拾ってくれるはずの人は、今、死の淵にあった。
 思い返してみると、彼は発症することを予測していたようだった。境界からの帰還後、キヨツグは王宮からほとんど出ないようになっており、アマーリエとも接触がない日々が続いていた。多忙であったと考えるのならそれも正しいだろうが、キヨツグは何故か知っていた気がしてならない。
 最後は、唇が瞼に触れたとき。
 大きな呼吸の繰り返しは、少しだけアマーリエを安堵させていた。まだここで生きていることが分かる。額の熱も、彼が病と闘っている印だ。だから、大丈夫。都市の医療チームも来た。人々にも、キヨツグにもワクチンを打った。だから、大丈夫。ここで自分が倒れては、アマーリエがキヨツグに寄り掛かっていたことになってしまう。
 でも、症状は治まらない。
 キヨツグが特殊な生まれであることに原因があるように思われたが、リュウ医師の見立てでも、症状が進行しており回復の兆しはないということだった。
 祈るように肘をついて手を組み、額に当てる。
 先に、逝くと思っていた。避けられぬ時間の流れで、きっと忘れ去られてしまうだろうとも。
 なのに今は、置いていかれそうになっている。
 そうなれば、アマーリエは老いる恐怖を覚えずに済む。きっと死に向かう自分を見られずに済む。彼が若いまま、自分は老いていく現実を知らずに。
(……なんて醜い)
 それもいいと思う、残酷な自分がいることを涙が出そうなくらい噛み締める。
 絶対に知られてはならない。こんな思いを。
 一人の方がずっといい。置いていかれる方がずっといい。対等に似ているからだ。自分たちは同じ生き物だと信じていたいと、アマーリエはこんな死の病にまで縋り付いている。
 人間として、医療にたずさわる者として、考えてはならないことだった。こうなってしまったのは知ってしまったからだ。共にいる喜び、思われる幸福、触れられる高揚と触れたいという望み。
 これはたったひとつの恋。なのに。
 ――愛する人の死を思うなんて、恋にはこんな残酷な感情がある。
「許して、ください……」
 意識がないことをいいことに、アマーリエは呟く。
 許して。許して許して許して。ごめんなさい。彼は今の姿のまま、年老いた自分を見送られるのは嫌。天国というものがあるのなら、そこで長い時を待つのも嫌だ。現世で、生きているあなたに忘れられるのなんて、我慢できない。でも。
 食いしばった唇から、思わず漏れてしまった願い。
「でも、私を一人にしないで……」
 いつまでそうしていたのだろうか。近付く気配に気付いて顔を上げると、知った人の姿があった。そこで、そうだ、何故かずっとこの人の姿を見ていなかった、と気付いた。
「オ……」
 呼びかけて、考え直す。
「……セン様?」
 彼はアマーリエに初めて表情を見せた。緩やかな笑みだった。
「何故その名を?」
「なんとなく」
 彼は恐ろしいと感じ入った言葉を呟いたが、飄々として受け流すようでもあった。
「なんとなくって言っても、推測よりの根拠はあるんです……。命山には、五百年以上生きているという女性がいました。その方には旦那様と子どもがいて、リリスのどこかにいると言って。もし子どもがどこかにいるとしたら、旦那様と一緒でしょう。別々であっても、命山にいる五百年以上生きる方の子どもに、相応の身分がないはずありません。すると、それは命山の守護を受けた誰かということになります」
 つまり、それは命山の守護を受けた、ライカの言う濃いリリスの血を持っているキヨツグと、誰かということになる。
 その誰かを、はっきりと考えたことはなかった。だが、今この場にいることで浮かび上がったのだ。この人が、その人物だ。
「推測の域を出ん」
「だからなんとなくと言いました」
 アマーリエはキヨツグの額に手を当てる。熱は下がる様子はない。濡らした布で顔や首元や、腕を拭う。
「どうして、あなたのことをキヨツグ様は知らないんですか?」
「赤子の時にセツエイに預けた故に」
 前族長の名を出して彼は答える。
「でも、セツエイ様の御子ではないと知っています」
「私は名乗っていない。問題になるからだ。だがセツエイが教えた」
 そちらを見ないアマーリエの後ろで、立ち去る気配がする。思わず呼び止めかけ、その名をはっきりとは呼べずに待ってくださいとだけ。
「……名乗られないんですか」
「助からぬやもしれぬからか」
 問いかけに問いかけに返され、考える間もなく言葉を失って、力が抜けそうになるが、支えてくれる人はいない。
 名乗らないのか。真実を告げた方がいいのではないか。もしこれが今生の別になってしまうのならば。アマーリエが無意識に考え、反射的に尋ねた理由を指摘して、彼は静かに言ったのだ。同時に、それは名乗るつもりはないという答えでもあった。
「方法はある。覚悟が必要だが」
「お、教えてください!」
 外聞もなく叫んだが、否定が返ってきた。
「自身で気付く。だから言わん」
 噛み締めた唇の感覚が失われてきた。それに、「考えるきっかけにはなったろう」と言って、彼はやってきた時と同じく足音もなく立ち去った。
 キヨツグは速い呼吸を繰り返していた。彼は一人で戦っている。アマーリエが手助けすることは出来ない。ワクチンが効いているかも分からない。祈るしかなかった。
 そしてこの世界の在り方の根源を思った。本当は、誰も助けてはくれない。
「……覚悟」
 それがいつかの別れのためのものなら、覚悟はしたくないと思う自分がいることを、アマーリエは認めなければならなかった。

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