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 化粧をするのは顔色を隠すためになった。都市ではほとんどのせたことのなかったファンデーション、ここではそこまで加工されていない白粉を丁寧に伸ばしていく。頬紅は下品にならないよう自然な色を。口紅は淡い色に。陰気にならないよう髪をまとめあげ、しかしこの情勢を考えて華美にならない衣装を整えていく。結局は袖をまくり上げたりするので気には留めない。
「アマーリエ、おはよう」
 表に出て医療本部に行くと、真っ先に声をかけてきたのはルーイだ。彼は都市が編成した医療チームの一員として、ワクチン責任者の初期スタッフとしてリリス入りしていた。
「早速で悪いけどあの人たちの説得を頼むよ。僕たちのこと警戒してるみたいで」
「うん、分かった。声かけてくる」
 説得を行っているヒト族に不審な目を向けているリリスたちに割って入り、リリスに分かる説明を行った。スタッフたちは面倒から解放されたのと、同時に、若干の嘲りを持ってその場を任していく。
 噛み砕いた説明の結果、納得はしていないが、アマーリエの身分を慮ってリリスたちは渋々頷いてくれた。この時も、アマーリエはキヨツグの存在を感じずにはいられない。
「アマーリエ、ごめん、ちょっと」
 ルーイが呼ぶのでそちらへ向かう。関係者の名簿に不備があるのではと尋ねられ、確認のために人を呼んだ。
「担当者はだれだった?」
「文部の、確か……」
「それだとカリヤさんの管轄だね」
「誰?」
 説明を聞いたアマーリエはそのままルーイに噛み砕いていく。年若いカリヤ長老は信頼できる人物だ。彼もまた、キヨツグが倒れたことで奔走しているはずだった。それでも彼が不備を起こすことはあり得ない。
「不安だから、確認してほしいんだけど。ストップかけていいかな」
 リリスの王宮の代表として来ている官吏と相談し、少し迷った末にアマーリエは了承した。時間がかかるのはあまり避けたいが、なんらかのトラブルが発生して洩れが起こるのも回避したいのだった。
「アマーリエ、時間ある? 都市の報告書が来てるんだ。君に読んでもらった方がいいと思って」
「五部くらい貰える? 王宮の医局に届けてもらうから」
 貰った紙の束を受け取り、それを付いてきていたココに手渡すと思わぬ目をして呼びかけられた。首を傾げると、彼女は声を潜めた。
「あの若い医者にお気をつけ下さい。あの男、嫌な感じがいたしますわ」
「若い医者……ルーイ?」
 ココは名を聞いて、確信を持ったと目を光らせた。
「お気づきでないのですか? あの男、真様を気安く何度も呼ばれます。他の者を呼びつければよいのにも関わらず、です」
 確かに呼ばれる数は多いが、ルーイは友人だ。リリスの国で、あまり円滑にいかない仕事の中、思わず潤滑油になるような知り合いがいればそれに頼ってしまうのも仕方のない話かもしれないと思うのだが。しかし、確かにかなり呼ばれているかもしれない。
 アマーリエの複雑な顔に気付いて、ココはため息をついた。
「……分かりましたわ。アイ様をお呼びしておきますので、どうぞあの男と二人きりになりませんように、お願いいたしますわ」
「うん。ごめんなさい」
 仕方ないと首を振ってココは王宮へ戻っていく。
 アイはキヨツグを見ていてくれているはずだから離れてほしくないのだが、そろそろ人員配置を変えた方がいいかもしれないとも考える。
 快方に向かわない病人は、側に付く者に不安を与える。リリスを支える人物が倒れてしまったのだから、リリスの者が不安に思わないわけがない。アイはキヨツグに近い人物だからと、精神力と信頼性を期待して世話を頼んだのだが、アイもまたリリスだ、感染する可能性は高い。
(私がなんとかするんだ)
「アマーリエ!」
 ルーイが呼ぶ。アマーリエは「今行く!」と叫んだ。
 都市の報告書は、ヒト族と、リリス、モルグにおける、フラウの感染について書かれていた。それはアマーリエが以前女官たちに説明したものを裏付けるようになっており、医療チーム責任者から、体液に触れる際は十分注意するようにと申し渡された。
 リリス側の確認作業が行われているので、スタッフはしばしの休憩だ。持ち込んだというインスタントコーヒーをルーイに振る舞われた。仕事に戻ると言ったのだが、押し切られてしまったのだ。それでも一杯飲むだけだと言って、必死に口をつけるのだが、かなり熱めに作られていてなかなか飲み干すことが出来ない。
 紙コップをひっきりなしに持ち返るアマーリエを、ルーイは微笑ましげに見ている。大学食堂に座っているかのようなくつろぎ方だった。
「その服、似合ってるね。映画みたいだ」
「そう? もう慣れたからあんまり気にならないんだけど、確かに映画の衣装みたいかも」
「都市じゃ、リリスを題材にした映画が作られるみたいだよ。恋愛小説も流行ってるし。異種族間の恋ってね」
 そうしてしばらくの間があった。アマーリエはルーイに対する義理があってコーヒーを残したまま席を立てず、ただ、彼の目がゆっくりとこちらを眺めているのを感じながら、自然と少しだけ身を竦めていた。
「もしリリスの族長が」
 それは不自然なほどゆっくりとした声だった。
「いなくなったら、君はどうするの?」
 コーヒーの黒い液体が、喉で重たい焼けた鉛のようになった。飲み干すのに苦しさを覚えるが、誤摩化すように笑みを浮かべた。
「さあ……」
 それでも言葉は濁した。どうなるかなんて考えたくもない。
 なのにルーイは問いを重ねる。
「やっぱり都市に戻ってくるよね」
 王宮の情勢をも一度引き受ける形になったアマーリエは、長老方や領主家から後継の存在を示唆されていた。現在第一継承者は、前族長の妹シズカの息子であるマサキ。アマーリエがそのまま天位を引き継ぐ可能性も否めないと示唆されていたが、最もあるのはアマーリエがそのまま次期族長に再び姻戚を組むというものだった。
 そのことについては、怒りもある。政略に利用された者は、最後まで利用されるしかないのかと。しかしアマーリエは、キヨツグが回復することを疑おうとは思わない。
 だからどちらにしろ、同盟の交換条件として政略結婚したアマーリエが都市に戻ることはあり得ない。だが、このルーイの自信は一体なんだろう。
「……戻ることは、多分ないんじゃないかな」
「戻りたいと言えば、戻れるよ」
 どうして戻したがるのだろうと胡乱な目で見てしまう。コーヒーはすっかり冷めていたが、飲む気はもうない。机に置き、両手を揃え、背筋を伸ばして彼を見据えた。
「戻るつもりは、ないよ」
 目の前にしているのが、林立するビルの群れや、暴走に近く行き来する車や、目的を目指して周囲を見ていない人々の波であるように、はっきりと声を発する。
「私が生きるのはこのリリスの国。都市じゃない」
 もう誰に利用されても、この心は決して変わらない。
 キヨツグだけだ。キヨツグだけが。
「生きる場所を決めたから、私は、ここで生きていく。あの人が生きる国は、私の世界だから」
 ルーイの顔が一瞬歪んだのを見て、これ以上彼への友情にひびを入れたくないと目を逸らし、挨拶もせずに出た。再開された診察のために人が激しく行き交って、アマーリエは髪をまとめ直し、袖をまくって仕事の中へ飛び込んだ。
 最低限に絞られたスタッフだから、少しでも医学をかじったアマーリエの存在は少しは手助けになるらしかった。リリスの人々も、アマーリエが動いていると安心するらしい。なるべく外に出たりを繰り返していたが、仕事の大部分は医師と看護士が握っている。ならば片付けくらいはと場所を任せてもらい、使った器具を厳重に封をしていく。焼却処分にするからだ。
 ワクチンのキットが残されており、必要ないのかと手に取った。何気なく裏返した場所にシールが貼られており、そこには、「Physiological saline」と印字されてある。
 見たことがある、と思った。どこかの書類だろうか。先程の書類などかもしれない、でもなんだか身近な印象だと考えていると、やがて、とんでもない衝撃となって記憶が降ってきた。
 不釣り合いな、大学の大教室。うたたねをする生徒たちが見える位置。午前の蛍光灯の白さ。蛍光マーカーをとってなぞる教科書の文字、ページ下方の区切り線の下の、注釈。
 答えが出たその瞬間、あまりのことに膝が震え、折れ崩れた。
「あ……」
 声が出ない。
「あ、あ……」
 恐ろしさのあまり叫び出すこともできない。目眩と吐き気で、地面についた手の先まで、血の気が失せているのが分かる。
 もし正しく「Physiological saline」であるのなら。
 リリスたちに接種しているのは、ワクチンなどではない。

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