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(立ち止まっては)
 胸が鳴り、叫んでいた。警鐘のごとく打ち鳴らされる声は、繰り返しその言葉を訴えている。
(立ち止まってはいけない)
 震える足をなんとか立ち上がらせて、呼吸を整える。血色を失って冷たくなっていたのが、次第に興奮で全身が熱くなっていくのが分かる。
 その後、何事もなく用意を整えてしまったのは、『それ』がまだ安全なものであるからというのと、もしかすれば無意識の偽装だったのかもしれない。気付かれてはならないという防衛本能で、アマーリエは仕事を終えると診察所天幕を出た。
 ルーイと親しくしているためか、スタッフの間には彼とアマーリエの関係を特別に見る者がおり、ご丁寧にも彼のいる場所を教えてくれる。
「謝りたいと言ってましたよ。喧嘩でもしたんですか?」
 ルーイのそれは恐らく建前だ。謝罪など口先だけに過ぎないだろうともう知っていた。だから、他人事である人々の揶揄とどこか軽蔑を含んだ目に、思いっきり笑ってやった。
「ありがとうございます。急ぎますので」
 アイは手が離せないのかまだ来ない。しかしアイよりも剣を扱える、軍備を動かせる人が欲しい。しかし安易に武人の誰かに話すのは避けたいところだった。腕がたち、理解がある誰かが、ここにいてくれたら。
 唇を、無意識に噛み締めていたことに、痛みを覚えたことで気付く。
 呼びたい名前を呼べない。
 しかし次の瞬間、さっと周囲を見回した時、向こうからユメがやって来るのが見えた。思わず、駆け寄った。
 ユメは笑顔になったが、一瞬にして表情が引き締まった。微かな声で、「如何なされました」と尋ねてくれる。どれほど不安な顔をしていたのだろうと情けなさと安堵のあまり、泣きそうになった。
「お願い、何も言わずに手を貸して。わけは後で話すから」
 帯剣しているのを確かめてから、抑えるために震える声でかろうじてそう言うと、ユメは緊迫感を持った顔で頷き、そして先程とは逆ににこやかな表情を浮かべた。周囲の人々に気付かれないようにだろう。少し大きめの声で言った。
「アイ殿の手が離せないとのことなので、代わりに参上致しました次第。何をすればよろしいですか?」
「ありがとう。こっちへ」
 踵を返すと奥へ向かう。高身長で凛々しい顔立ちの、武人である華麗なユメにスタッフたちは驚いたようだったが、アマーリエの側に控えていると納得するのか黙って見送っていく。顔見知りの者にルーイの所在を尋ね、奥で待っていると言付けた。
 ルーイはすぐに来た。アマーリエは天幕でひとり、彼に向かって微笑みを浮かべた。
「さっきはごめんなさい。黙って出て行ったりして」
「ううん。僕の方こそ、ごめん」
 ルーイは少し警戒を滲ませるように「そのためだけに?」と聞いた。
「うん……ちょっと後悔しちゃって。さっきののせいでヒト族とリリスの間に、今溝が出来ちゃったら困るでしょう? 忙しいのに、ごめんなさい」
 深々と頭を下げ、少し困って笑った。それから、と少しの迷いを見せた。
「……都市でのこと、きちんと返事をしてなかったなと思って」
 ルーイは虚をつかれたように黙り込み、ふっと息を漏らし、首を振る。
「振られるのが分かってるんだから、もういいよ」
「よくないよ。あの、だって……」
 そわそわと両手を組み替えた。訝しげなルーイに、手招きをする。図らずも泣きそうになってしまった顔で、俯き、唇を噛み締める。
 ごめんなさい、と呟いた。
「え?」
 喜色を滲ませて近付いたその頬に、アマーリエは短剣を当てた。
「っ!?」
「静かに。騒いだら怪我させるから」
 突然の刃物に一瞬真っ白になったようなルーイだったが、相手が小柄な女子だと見て取ると、すぐさま反撃に出ようと手を伸ばし。
 後ろからその腕を掴まれた。
「大人しくなされよ。騒ぎ立てれば容赦しませぬ」
 ユメ御前が剣を手に、力強くルーイの腕を捻り上げる。その鈍い痛みに顔をしかめながら、彼は吐き捨てた。
「色仕掛けか……よくもまあ」
「あなたの幻想を壊したようならごめんなさい」
 冗談のような本気を口にしつつ、手段は選ばないんだとアマーリエは囁いた。その懐からワクチンのキットを取り出し、地面に投げ捨てる。それをちらりと目で追った都市の青年の顔が、ゆっくりと青ざめていった。
「どういうことが説明してもらえる?」
 こんな時ほど笑えるのだと、このとき嫌でも思い知った。あくまでもにこやかな声、しかし目は笑えない。笑ってなるものか。
「これは、生理食塩水だよね?」
 ルーイの顔が青さを通り越して白くなった。アマーリエは暴き立てるがごとく声を押し殺しながら張り上げる。
「ワクチンはどうしたの! 生食なんて打って誤摩化してる理由は!?」
 ユメは分からないながらも忠実に、確実に職務を遂行している。決して逃がすことはないだろう。分かっていながらも、なおもルーイは食い下がるようにアマーリエを見つめてきていた。どこか縋るようにも感じられるそれに、胸には不快感の固まりが押し寄せる。
「……あなたは、製薬会社にいるって言ったよね」
 ゆっくりと口を開くと、叫び出しそうになるのを堪える。
 お願い。お願い。
「それは……異種族に対する……ウィルス兵器の研究、開発をしていたんじゃないの」
 この推測は当たらないで。
「あなたが言わないなら、ひとりずつ尋問する。容赦ない方法で」
 脅迫をかけたアマーリエに向かう彼の瞳に一瞬嘲りが見えた。アマーリエは懐剣を、刃の研がれた方をすっと立ててみせた。
「できないなんて、思ってる? できるんだよ。私が、ここに来て何もしなかったと思ってるの?」
 ――残酷なことを、言っているとは理解していた。非道で、正常な人間の言動でもない。青ざめながら本気で刃物をちらつかせて、脅迫して。人を傷付けようとしている。誰も喜ばない。ユメだって悲痛な顔をしている。事の次第を聞いたキヨツグが、情けをかけずに怒ることも考えた。それでも、今、守りたいもののために手段は選んでいられない。
 ひとりの手で都市という世界に立ち向かう戦いに、誰も助けてくれないのだから。
 アマーリエが立てた刃を引こうとした瞬間、ユメがルーイの腕をきつく捻り上げる。息を詰まらせたルーイが、次の瞬間、つかえをなくしたように叫んだ。
「君の――君のためだよ、アマーリエ・コレット!」
 痛みを堪えたせいか、目が充血していた。
 ぎらつく目で彼は言う。
「市長が他都市に提案した。世界をヒト族の手に取り戻し、君を、救い出すために……」
「コレットが、そう言ったの」
 肯定が響いた。
「そう……そうだよ、市長は君のことを心配してた。絶対に帰してやりたいから、だから」
 協力したというのだろう。彼なりの正義をもって。
 それ故に、アマーリエからは呻き声が漏れ出す。
(父さん、あなたは……!)
 甘い声。帰してやると、父に言われたような覚えがあった。よく覚えていないのは純粋にいたわりの言葉だと信じていたからだろう。父は、その言葉を慰めとしてではなく、真実で口にしていたのだ。
 優しい父。甘い父。そして、狂信的で残酷な父。
 だからこんな時ですらアマーリエは気付いてしまったのだ。父は、決して『アマーリエ』のために動いたのではないこと。いつだって父親の目には、失われてしまった佳人の姿。
「この世界にリリスは必要ない! 一体リリスが世界に何をしたっていうんだ!? 文明を築くヒト族と違って、ただ惰性に生きているだけじゃないか……!」
 アマーリエは顔を上げ、冷たくねめつけた。
「あなたは……それでも医者を志した人なの?」
 襟首を掴んだ。
「今死んでいこうとしている人がいるのに、よく平気でそんなことが言えるね!」
「君が言えるのかい、アマーリエ。脅したくせに」
 それに、とルーイもまた冷笑する。
「僕は直接手を下してない。ウィルスを打ったわけじゃあないからね。恨むんなら、君の、愛する! 夫を、傷付けたエリーナに言うんだね」
「エリーナ?」
 不意に表れた名前に、アマーリエは咄嗟に反応できなかった。
 それは、同じ大学に通っていた、明るく心優しい上級生の名前だった。今自分には出来ることがあると、彼女は大学を辞めて、ヒト族とモルグの戦線へ向かっていた。後方支援部隊だから大丈夫だと、安堵させるように笑ってくれた顔が思い浮かぶ。
「リリスに感染させろと命令を受けた実行犯さ。襲われただろ? 結局全員死んだみたいだけど」
 別れる時に、大切なことを言われた気がする。最後になってしまったのに、覚えていないなんて。
 モルグとの境界での襲撃。あの時キヨツグは傷を負った。襲撃者は、アマーリエを見て何かを訴えていた。
 もし当てはめるのなら感情は、罪悪。こうなってしまったことの謝罪なのかもしれない。しかし、もう一つ不思議な光があった。目が、泣きそうなくらい細くなって。痛みではなく、何かに心締め付けられるように。
 あの時アマーリエは、すぐさま駆け寄ってきてくれたキヨツグに庇われた。そして彼を、助けを求めるように見た気がする。
 斬られてしまったエリーナの最後の思いは何だったのか。
 それ以前に、本当に? あれは、本当に。
「真様!」
 ユメが叫び、アマーリエは踏みとどまる。
 何がエリーナを駆り立てたのだろう。超然と笑っていた彼女が、リリスに対して憎しみを抱く何かがあったのか。それとも命令だったのか。どちらにしろ、それを利用したヒト族は。
(気持ち悪い……)
 醜悪だ。どこまでも。同じ血の流れていることが、忌まわしくてたまらないと思った。
(気持ち悪い)
 吐き気を堪え、ユメに命じる。
「彼の私物をすべて没収した上で拘束し、小隊を率いて都市の医療スタッフ全員を拘束して」
「アマーリエ!」
「都市の市職員に悟られないように。遅れて送られてくる人たちにも。帯剣させた人たちで監視に当たって。荷物検査は十分にお願い。リリスに入る時点で没収されているとは思うけれど、携帯電話とか、機械を持っていたら面倒だから。もしスタッフに帰還命令が出たなら、私の名前を出して拘束して」
「アマーリエ! アマーリエ、君一人に何が出来るっていうんだ。いくら君がリリスの中で生きても、君はリリスにはなれない! 君は、何も出来ない!」
「親衛隊!」
「それは」
 ユメの声に、呼びつけられていた親衛隊が現れて、半狂乱で叫ぶルーイを拘束する。
 アマーリエは、開かれる天幕の光を背後に浴びながら、宣言した。
「それは、私が、決める」

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