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 何かの拍子に庭に降りると、庭師の老人がひょこひょこと動いていた。変わらずに仕事をしている姿は、ここに至って安堵を呼び起こし、裾を汚す心配など欠片もせずに、庭に降りる階段に腰を下ろして彼の仕事ぶりを眺めていた。
 どうですかと聞いた。要領を得ない問いかけに老人は、振り返って笑った。
「どうですかもなにもねえよ。花は咲くときゃ咲くもんさ。例え冬でもな」
 そう言って彼は隣に腰を下ろす。どっこいしょと声。リリスなのにこの老け具合だから、実年齢は相当なものだと窺えた。しかし荒い物言いが若々しくて、なんだか心地がよかった。
「花は見てもらえたかい」
「多分」
「多分。いい返事じゃねえか。それでいいんだよ。別に見てもらいたくて咲くわけじゃねえからな、花は。見てもらいてえと思うのは、世話をするやつだからな」
 アマーリエはちょっと首を傾げた。
「私……世話をする側じゃないんでしょうか?」
「思いの花は、その人間そのものだ。だからお前さんは花だよ」
 ああそうかと妙に納得してしまった。
 目を閉じても、銀色の日差しが瞼に淡く透ける。開けば、冬に生きる草木が映った。高い木の枝には、固く眠っている蕾がある。あと少し待てば必ず芽が吹く。枝を伸ばし、花を開き、閉じてまた目覚めまで眠る。それはきっと、変わらない営みだった。


 アマーリエは感染疑いということで表に出る仕事をすべて免除され、王宮の奥深くに籠っていた。人はすべて断り、アイやユメすらも遠ざけた。知らされていないアイたち女官はひどく怒っていたが、カリヤとユメの取りなしで事態は進められた。
 キヨツグの寝間もまた、人が寄せ付けられずにしんとしている。明るすぎる光は毒だからと照明が絞られていたが、彼の瞼は激しく動き、見る者に苦しさを見せつけてきていた。アマーリエはじっと彼を見つめ続けた。手を探り、握る。
「…………」
 はっとする。すぐさま屈むと、キヨツグがか細い声で何か呟いている。
「………………リカ……」
「キヨツグ様、ここにいます!」
「……泣くな……」
 どきんとして、もう一度呼びかけた。しかしもう答えは返ってこず、どうやらうわごとを言っただけらしい。熱で朦朧としているのだろう、だがここまで保っていることにキヨツグの強さが窺えた。あと少し、もう少し保ってほしい。せめて本物のワクチンが届くまで。
 手を握りしめていると、傷の残ったままの包帯が目に留まる。その包帯に指を添え、伏せる形になって顔を寄せた。
 彼は綺麗だ。しかしここに傷跡がある。それはすべて、ヒトの醜い業によるものだ。アマーリエの責任だ。
 ヒト族は知らない。リリスにあるものひとつひとつが都市にはない宝物で、そしてその都市自身にも、リリスにはない宝物が眠っている。ヒト族はみんな忘れてしまった。うずたかく塔を立て、すべて埋めてしまった。それを残したままだから、リリスは美しいままでいる。
 だから自分はここに来るべきではなかったのだ。ヒト族はヒト族として、あるべきところで生き、滅んでいくべきだ。他者を滅ぼす資格など、本来どの存在にもありはしない。
 そして思いが戻ってくる。
(私がこの人たちを殺してしまうんだ)
 彼の手のひらに唇を寄せる。
 こんなに愛しているのに、どうして阻まれてしまうのだろう。近い場所やどこか遠い場所で、幸せに終わる恋はたくさんあるのに、どうしてこの恋は、別れや悲しみを思い知らせてくるのか。始まったからには終わりが来るけれど。
 彼の手で自分が隠されるように、俯いた。自分のことをこの世で一番の不幸と思うのは、最も嫌うところだった。そんな風に考える自分を見られたくなくて、彼に手に顔を隠す。誰もいないことをいいことに呻いた。だって、この人は今、自分から触れてくれることはない。
 頭を撫でられて、頬に触れられて。手を繋いで指を絡めて。恐くないキスをして、夜は一緒に眠る。おやすみを何度も言えば、おはようが何度も返ってくる。その逆をやると、優しい声で名前を呼んでくれる。
「さっきのは数えないから、だから」
 あんな掠れ声のうわごとは、名前を呼んだことにならない。
「……ちゃんと、名前を呼んでください……」
 愛した最初があなたで、私はこんなにも。


 攻撃に走るリリスを抑えなければならず、混乱させないためにも情報規制を敷かなければならなかった。長老方はさすがその名の通りの人物なだけあって、今のところどこにも漏れてはいない。医療スタッフには未だ監視を付け、診察と生理食塩水の接種を続けさせていた。ないよりましだと考えたからだ。フラウは家畜など動物には感染しないようだと報告が来ているため、食料に関してはまだ安全のようだった。一方で、動物が感染しないのは、恐らく、自らの生産でものを賄っているヒト族が危険でないようにと操作されてのことだろう。どこまでも業の深い。
 母とイリアには事情を聞かせた。イリアは、そうなると癒着を疑われては動きづらくなるからと一足先に都市に戻っている。アンナはアマーリエの輸血から様子を見るために残っていた。
 初めてリリスの国に足を踏み入れたはずのアンナはひどく冷静だった。ろくに口を利いてくれないのは怒っているためだったろうが、それでも心配してくれているのか、始終側にいてくれた。たかだが二十歳の小娘に全権は託されていないが政治など手も触れたことのないアマーリエに、大人としてのアンナの目はありがたかった。リリスを信頼しているわけではなかったが、政治に関して疑問点が多すぎて自身の問題が明らかでないアマーリエに比べて、アンナの質問は的確だったのだ。
 ROMを送った後、スタッフ拘束の件についての心配は、母が打ち消した。
「あなた自身が人質になったからには、ジョージは個人的に動くでしょう。恐らく逆上しているでしょうけれど、スタッフ拘束やあなたの人質の件でリリスを悪者にすれば、物事が大きくなりそれだけ対応が遅れ、あなたは発病して死ぬかもしれない。あなたを助けるために、ワクチンを届けさせるわね」
「……私を助けるため『だけ』に?」
 アンナは静かに目を伏せ、頬を寄せてくる。耳元で深いため息。
「……愛しているわ、アマーリエ。どんなことになっても。今更だなんて思わないで。いつだって、私はあなたを抱きしめてあげたかったわ」
 そして「ジョージのしたことを許さないでいいわ」と言った。きっと、これまで母も許したことがないからだろう。
 ずるいと言ったシキの言葉を思い出した。ずるいという言葉は、いつの間にか残酷だという言葉に変換されている。残酷だ私は。様々な人を蔑ろにして、こうして母に、愛しているという言葉を使ってあげられない。何故ならその言葉は、今はたった一人に捧げられるものになってしまったからだ。母に対してであっても、口には出来なかった。
「真様」
 扉越しに役人の声がし、何かと尋ねると望んでいた答えが返ってきた。
「ワクチンが参りました」

 それからの動きはよく覚えていない。命を握っているルーイを呼び出してワクチンであることを確認させ、その後は真っ先にキヨツグに打ち、次にライカに、後は医療関係者に優先的に打たせ、感染者や疑いのある者に接種をさせた。各領地にも流行の場合のために持たせて送り出し、そうした後は、どっと疲れが出た。
「良かった……」
「真様、さあ、真様もお早く。いくらここまで症状が出なかったとは言え、発病者の血液を輸血されて、ご無事なわけがありません」
 リュウ医師に促され、アマーリエは頷いた。
 だが、次の瞬間、世界が暗闇に染まる。悲鳴が聞こえ、アマーリエは呼びかけられ、駆けつけられる音を聞く。身体が動かなかった。倒れたのだと考える自分がいて、声を出そうとするのに声の出し方を思い出せない。目が見えない。
 誰かがはっと息を呑む声がして。
「真様、失礼を!」
 持ち上げられて前をはだけられる。悲鳴と、それを押し殺す音。続いたのはまた悲鳴と、叱責と詰問。
「真様っ、真様!」
「こうなるまでどうして誰も気付かなかった!」
「お一人で籠られていたので! 身の回りのすべてをご自分で処理なさっておいででした」
「顔が青い」
「どいてください。……心音が速い」
 リュウ医師とアンナが覗き込んでいる気配がした。アンナの手持ちの聴診器は冷たく、呻いた。自身の身体があまりにも高い熱を発していたのだ。
「兆候はなかった?」
 リュウとアンナが交互に看ている気配がする。周囲に問いを投げかけたのはアンナだ。誰かに瞼をこじ開けられ、あまりの眩しさに視界が白くなった。
「はい。……あ、いえ」
「何か」
「一度、うずくまっていらして。嘔吐されていたのではと。ずっと忙しくされていましたから疲れが溜まっていたのだと思ったのですが、定期検診を受ける暇もないと仰って」
 その瞬間、リュウ医師の声が固まった。
「……受けていない?」
「まさか。この子、最初からこうするつもりで……!?」
 アンナが押し殺した怒りの声を上げ、ふと、何かに気付いたように聴診器を使った。黙って容態を看て、静かに言った。
「……都市へ運んで」
「……なんと?」
 絶句したのはリュウだが、周囲も同じく息を詰めている。
「このままではこの子は助からない。あなた方の医療技術を馬鹿にするわけではないけれど、多分ただの感染症だけではないわ。リリスの方々に、その治療技術があるとは思えない」
 声ばかりが聞こえる。母とリリスたちの間に緊張感が走っているのに気付き、朦朧とする意識の中で声を上げる。
「……や……」
「真様!」
 女官が呼んでいる。今にもすすり泣きそうな弱々しく悲痛な声で。
「い、や……私……ここで……」
「馬鹿言わないで。黙って見過ごすと思うの」
 ぴしゃりと妨げたアンナの声は、熱によってか歪に歪んで聞こえる。火のような息を吐きながら、アマーリエは切れ切れに訴える。いやだ。行かない。ここで。
「だっ、て……私……」
 歳を取って死ぬのは我慢ならない。あの人に置いて逝かれる方がずっといい。
 でも置いて逝かれたくない。一人にされたくない。
 それならば、今この姿のままでいなくなった方が、きっと記憶に留めてもらえる。
 きっと、忘れられないはず。
 呪詛のように巡る言葉を、本当に口にしたのかは分からない。闇の底から突き出した本音が渦を巻いて巡り、思わず恐ろしくて身を抱えたけれど、心のなかでだけだったろう。
(消える――)
 最後に浮かんだのは、キヨツグの姿だった。暗闇の中で周囲を見回して、何かを探している。その呼び声が微かに聞こえていた。
 遠くにそれを見て、アマーリエは裾を――持とうとして、ジーンズの腿に触れた。都市での普段着、そのブラウスの裾を両手で握りしめた。
 届きはしない。もう。

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