―――― 第 1 5 章
|  <<  |    |  >>  |

 絵画がぼやけたような世界の中にいた。周囲は極彩色で、目眩のように明滅していた。純粋馬や、羽毛の馬、尾長の鳥の群れが、色を塗りたくったような残像で過ぎ去っていく。草原の、人のあまりいない地域の光景だ。決して風景らしく見えていないのにそう考えている。シャドの周辺には、動物たちはほとんどいないのだ。しかしリリスに生きていても、このような風景は見たことがなかった。夢なのだから当然だ、と誰かが囁きかける。
 周囲を見回していると、向こうに白い影がうずくまっていた。長い髪は夜の水面、小さく細い身体の背。
 エリカ、と呼ぶ。まぎれもない自分の妻だった。見間違えることはないと知っている。頼りなげに見えるのに、日差しの下の花のような笑顔の娘だ。エリカともう一度呼ぶも、しかし彼女は身じろぎしない。耳を塞ぐように背を丸め、じっとしている。
 それは己を焦らせた。何故呼んでいるのに振り向かないのだろう。声を失ってしまったのだろうか。それとも聞こえなくなってしまったのか。この声が届くことはなくなってしまったのか。疑問ばかりが渦を巻き、必死に呼んだ。エリカ、エリカ。

 

「…………カ……」
 夢の中でも振り絞っていた声が、現実では掠れた妙な音となって紡ぎ出されていた。全身に汗をかいて、身体はだるく、目が光に非常に痛んだ。瞬きするのも億劫で、息をするのにも体力を使っているのが分かった。これほど消耗する理由が思い出せず、辺りで情報を得ようとする。
 奥宮だった。調度品は最低限。灯火は絞られ、看護の道具がまとめられているのが見えた。人の気配はなく、一人で寝かされていたようだ。寝台は一人のもので、傍らに妻の姿はない。
「……天様?」
 密かに呼ぶ声がして目を向ける。だがその前にすぐに彼女は現れた。
「お目覚めでございますか?」
「…………アイ……」
 声が掠れてうまく出なかったが、キヨツグは、真付き筆頭女官の女に眉をしかめた。
「……何故、お前が、ここに」
 アイは応えない。少し眉間に皺を寄せるようにして悲しそうな顔をしただけだった。
「真、に、何か」
「どうかお休みを。まだ元通りではございません」
 触れる程度の力で、起こそうとした身体は簡単に押しとどめられる。キヨツグは敷布を握りしめ、抵抗して掠れた叫びを上げた。
「エリカは、どこにいる……!」
 しかし身体が思うように動かない。傾いだ身体をアイが支えたが、見向きもせずに手足を動かす。
 シキとリュウ典医が飛び込んできた。そして、その後ろから何故か現れたのは、都市で初めて会いもう顔を見ることはないと思っていたアマーリエの母親で、思わず不信も露に問いただしていた。
「どうして、あなたが、ここにいる……!」
「アマーリエに呼ばれてきたからよ。さあ、眠って。あの子のためにね。嫌だと言うのなら鎮静剤を打つわよ」
 細身の義母に寝台へどんと押し返された頃、ようやく状況が呑み込めた。病の流行、腕に脈打つ傷に、奔走していた最中に倒れたこと。そこから記憶が途切れている。夢うつつに何人かの顔を見て、泣くような声も聞いたが、幻覚や幻聴だったのかと額を押さえる。
 病に打ち勝つ手段が都市から来たのかまだ来ていないのか、その辺りが曖昧だ。
「ワクチン、は?」
「来たわ」
 アンナの簡潔な答えに、身体の力が抜けた。
「……リリスとモルグは、助かったのか……」
「少なくとも、あなたはこのまま眠れば助かるわね」
 リュウとシキがキヨツグの容態を確かめようとして、いくつかの質問をしてくるのに答えることになった。肺やその辺りに溜まっていたらしいものを吐き出すと、どっと眠気が襲ってきた。体力が戻っていないために眠りの流れに流されていきながら、アマーリエのことを問おうとした。だが、あまりにも失われた力では抵抗出来ず、あっという間に深い眠りに落ち、夢も見ず、意識が綺麗に消えてなくなるようになった。
 そして、それ以前のことが一瞬であったように目が覚めた。
 今度はだるさはない。日差しの明るさから半日ほどが経過しているようで、灯火は消され、代わりに差し込む朝の空気の匂いが少し胸悪く、口内がべたついているが、腕を楽に上げることができた。
 久しぶりに寝床から身体を起こす。しかし四肢は萎えていて、寝台から身体は滑り落ち、足は自由が利かず、腕も支える力だけはまだ戻っていない。その音を聞きつけて、アイがやって来た。
「天様、まだ歩ける状態ではございません」
「真はどこだ」
 何があった、と聞く。
 自分の覚醒は知らされているはずだった。少し前の目覚めの瞬間も、誰かがアマーリエを呼ぶことをしなければならなかったはず。しかしあの眠り落ちる寸前ぼやけた思考にも、誰もその様子を見せなかったと記憶されていた。
 きっと飛んでくるだろうと思っていた。なのに、その姿はここにはない。最後の記憶にある、小さな背中の後ろ姿が、現実のもののように感じられている。あれは、もう。
 アイは身体を支えながらじっと見つめられていたが、ふっと外に呼ばわった。
「イリア・イクセン様をお呼びして」
「良い。私が行く」
 立って、少しずつ歩く程度なら可能だ。枕元に横たえられていた、守りの刀を掴むと、それを支えにして歩き出す。部屋から現れたキヨツグに、宮中の者たちはざわめきと共に見送り、一部の女官は身支度を申し出たが、キヨツグは何も聞かずに、先導するアイと、途中合流したユメの導きで表に出た。
 冬の風は、まだ火照りの残る身体を冷たく撫でていく。まとめきれていない髪の数本がばらばらとなびいた。
 イリア・イクセンは王宮の入口で、待ち構えるようにして立っていた。
「……立てるようになりましたか」
「何があったか説明願いたい。真はどこにいる」
 一瞬躊躇する気配に、更に踏み込むようにして睨む。
「アマーリエは都市に行きました」
 視線を逸らさず、イリアはそう言った。
「なに……?」
「簡潔にご説明します。リリスに最初に持ち込まれたのはワクチンではなく栄養剤でした。更に病原はヒト族による兵器だったことが判明し、アマーリエは都市からワクチンを奪うために行動を起こしました。リリス族の発病者の血を輸血し、己を人質に立てたのです。その録画映像を市長に送りつけたところ、ようやく本物のワクチンが届きました。それを各地に搬送し、シャドの方々の接種を見守る中、自身が接種する直前に倒れました」
 呆然とそれを聞いた。次の瞬間、支えにしていた剣の鞘を払う。切っ先を、集まってきていた長老方に突きつける。
「行かせたのか、お前たちは!」
「ただで行かせたとお思いですか」
 カリヤは冷静だった。
「ワクチンを打っても真様の熱は下がらなかった。発病者の血を輸血することで何が起こるか、真様は理解されていた。提案したのはあの方でした」
「カリヤ――!!」
「それがどれほど恐ろしいものであっても!! ご自身ですべてをご説明なされた」
 震える息を吐き、キヨツグは歯を食いしばってカリヤを憤怒の目で見る。そして、カリヤの青白い顔にその目が暗く光っているのを知った。その周囲の重臣も女官も武官も文官も、どの顔も疲労が影のごとく濃い。
 イリアの説明が真実であるなら、リリスでは報復の方法が挙ったはずだった。彼らはそれを留めようとしたであろうし、そのまま急進させようとする者もあったろう。苦悩と、困憊。これまで関わることがなく侵略されることもなかった強靭なリリスには、病を作るなどという高等技術に対抗する手段を持たなかった。
 冷静に為政者としての思考が巡る一方、アマーリエを巻き込んでいった無情に、怒りと悲嘆が起こらないわけがなかった。
「アマーリエは、コレット市長が念のためにと手配したヘリコプターで搬送しました。彼女はなんとか助かって、今は眠っているはずです」
 そう言われて安堵で倒れそうになる。しかしイリアは、大きく息を吸った。
「ですが……都市も混乱の最中にあります」
 空気がうねったように大きく動いた。ざわめく周囲から見ると、まだ他の者たちには知らされていないことのようだった。イリアはそれらを睥睨し、静かに、押し殺した声で告げた。
「――ヒト族にも感染が始まっています」
 背後で重臣たちが息を呑んだ。キヨツグは、きつく目を閉じた。
「元は対異種族のウイルスです。ワクチンは開発していましたが、ヒト族に打つことを想定されていないものでした。そのため、瞬く間に感染は広がり、都市は死者を多数出す大混乱に陥っています。
「その身であがなってもまだ足りぬ」
 全てを知る、周囲の、心の底の声がキヨツグからついて出た。
 都市外交官は、それを甘んじて受ける。
「ええ……抗体がないと思われたために治療は遅れました。ですが、唯一それ以前の感染者がいたのです」
「……」
 感染者。
 アマーリエ。
 そしてこの時、イリアはひどく苦しげに息をついた。それでも、言葉は止まらなかった。
「ヒト族に感染しないということでばらまかれたウイルス、他の動物を媒介することもないと言い切られたウイルスは、しかし形を変えたらしいのです。予測不可能であったために、その新型ワクチンの効果は現れなくなりました。都市にあるワクチンではもう治療が出来ない。誰もが滅亡へ足を踏み入れると思った、ですが、たったひとり、抗体を持っていた者がいました」
 続く声は、震えていた。
「――アマーリエの、子どもです」
 声を失った。
 代わるようにして声が聞こえた。自分を呼ぶ、痛切な声。
『キヨツグ様』
 片手が無意識に顔を口を覆っていた。刀を持った腕が下がり、その手から刃が滑り落ちる。
 絶叫した。
(エリカ――!!!)
 だが絶望が深すぎて呻き声にしかならない。
 どれだけの無情があの娘を包んでいるのかを思わないではいられなかった。それでも言葉にはならない。なんという。なんということが。繰り返し繰り返し再生されるアマーリエの声に、キヨツグは答えることが出来なかった。
「覚悟を!」
 イリアの声が、王宮の広い空に響く。
「アマーリエの容態が安定した頃、救出する準備をします! あなた一人なら私たちの中に潜り込めるでしょう。覚悟をしていただけますか!」
 言葉を取り戻した周囲の声が弾圧で大きくなる中で、キヨツグは決断を迫られる。
 リリスの安定のために。これ以上見ぬ振りをするか。都市に攻め込み、報復を為すか。どちらを取るにしろ、イリアの提案によってアマーリエを取り戻すことは、私情に他ならない。
 なのに、あの娘を思い出せと、心が叫ぶ声を聞いていた。
「――――」
 アマーリエが望むもの。与えてやらねば、いつまでも、あれは諦め続けるだろう。その結末は、キヨツグにとって一生の後悔になる。
 望むことと、諦めようとすることを、あれはよく間違える。
 だから、答えは、決まっていた。

|  <<  |    |  >>  |



|  HOME  |