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「……室内のマイクを入れろ。こちらのマイクもオンに」
 焦りの汗を噴き出させた職員が応じる。機械を操作すると、何かを無理矢理繋いだようなぶちんという音が聞こえた。始まったざらざらした音の波の中に流れ出したのは、キヨツグが望んでいた声だった。
『パパ。聞こえてる? パパ』
「聞こえているよ。……アマーリエ」
 娘と呼ぶというのに、声は固い。
『聞こえてる? 良かった。じゃあ、私のしてること、分かるよね?』
 アマーリエは、手にした針を振った。かなり長く、太いものだ。目を覚まして身体を起こし、部屋の向こうで何が起こっているかを知った彼女は、腕の針を抜き、それをまだ目立たない腹部に向けていたのだった。
 そこは隔離室。今誰も人はいない。踏み込めば、アマーリエは針を腹部に突き刺すだろう。都市を救う手段を、自分の子を、その手で殺そうというのだ。
『キヨツグ様を都市から無事に出して。イリアたちと一緒によ。でないとこの子を……』
 ぐっと喉が動いたことで、キヨツグは知る。
 市長が手を振ると、一斉に銃が下ろされる。退室までをも命じ、数名の職員とイリア、ジョージ、キヨツグだけが立っているだけになった。しんとした中で、彼女の苦しげな息遣いが漏れ聞こえてくる。
『……ごめんなさい、キヨツグ様』
 硝子越しと機械越しの手の届かない場所で、瞳を濡らしてアマーリエは言った。
『私、最低な……』
「……エリカ」
 呟きは聞こえたらしく、アマーリエが顔を上げる。
「……行こう」
 しかし、意味が分からなかった。アマーリエは首を振ったのだ。
『行けません。都市が死んでしまうから』
「その子どもがいなければワクチンが作れない。ヒト族が滅ぶことになる」
「身勝手で始めたことを、エリカと子に償わせると?」
 義父の関係となった市長に吠える寸前の声を上げれば『そう……』と肯定は、望まぬところから聞こえた。
『私は、いつだってひとつしか選べないんです』
 彼女は強い瞳をしていた。悲しみをたたえているのに、前を向き続けて逸らさないでいようと、本当は、逃げ出したくてたまらないだろうという目だ。そう感じるのは、一度逃げたことを、重罪のように負おうと決めているからだろうか。喉がひくついている。決して望んだことではないと、知れる。
『私個人がもっと大きなものかを求められる。でも選べるのは最初から決まっているんです。私個人なんて、私以外のすべてに比べたら小さなものなんだから』
 その喉が、また動く。
 泣きたくてたまらないのだ。
『純粋に綺麗なものなんてどこにもないけれど、汚してはならないものは、絶対にあります。どうか、それを守り続けてください』
 伸ばした小さな手が、硝子に触れている。押し付けたようになって赤くなったそれは、やがて堪えるように指を曲げられた。
 色褪せて乾いた唇が、拾えぬほどの声で囁いた。
『……あいしています、キヨツグさま。だから、いきて』
 そうして息をすっと吸い込んだ彼女は、脅しつけるような怒声で叫んだ。
『道をあけて。この人たちを元のところへ返して!』
「エリカ」
 アマーリエは目を逸らさない。目の縁を赤くしながら、唇に弧を描いて。
 笑う。
 動かない。
「エリカ!」
 キヨツグは硝子に手を伸ばす。手を取ろうとするのに、がつりがつりと指先が当たって音が響くだけだ。触れられない。包んで温められない。そして妻は、微動だにせずに指すらも動かさない。
 ――戻ることを望まないのだと、絶望と同じ気持ちで知る。
 望まなければ、キヨツグは決して動けはしないのに。
「エリカっ!」
「キヨツグ様!」
 イリアの指示で彼女の部下がキヨツグを引きはがす。いつまでも見つめ続ける、透明な壁の向こうで、白く小さな立ち姿は凛と立っている。キヨツグは、彼女とは遠ざけられていく。
 次の瞬間、照明が一気に落ちた。
「な……!?」
 驚愕の声が上がり、その隙間を、イリアとその部下がキヨツグを引きずって押し分けた。非常照明が点いた頃、キヨツグたちはすでに院内を駆け抜けていた。

   *

 ジョージはリリス族長を狙っていた銃を懐に収めた。入室してきた警備主任に追尾の有無を尋ねられたが、首を振る。照明が落ちたのは何者かが主電力を断線したのだと聞き、調査を命じておく。
 各自が滞りなく動き始めた後、元通りの明るさを取り戻した部屋に近付く。そしてパスコードを自身で入力して隔離室の扉を開いた。
「……気が済んだかい」
 夫の姿が見えなくなった途端、泣き崩れた娘に手を伸ばす。父親の手を撥ね除けて、娘は涙をこらえていた。
「……愚かだって、パパは言った……」
 何の話か瞬時に掴めず、後々になって、それが無理を押して奪還にやって来たリリス族長に言った言葉だと思い出した。
「唯一の恋に命をかけて、何がいけないの!?」
 腹部を抱えるようにしてアマーリエは泣く。まだほんの小さな命を人質にした、母親は、ひっきりなしに手を動かしながら、ごめん、ごめんねと繰り返す。
 そして自分は、その二人を利用する非情者だとジョージは考える。どちらが悪人だろうと、痩せてしまった娘を見て答えも出ないのに考えている。
 愛している。愛しているのに、どうして失われていこうとするのだろう。
 生まれてくる子は、その断罪をしてくれるだろうか。

   *

 ライカの部屋に、キヨツグは仕える女官たちの制止も聞かずに押し入った。山と積まれた冊子を拾い上げて、目的のものを探す。養母の夢見る過去と現在と未来は、すべてこの冊子に記されているはずなのだから。
 床に全て放り出す勢いで書物の山を崩していけば、ようやく作り物の花びらを貼付けた一冊が見つかった。思わず手を震わせながら、紙の扉を開く。
 そして、取り落とす。床に広がった歴史書のページは、重たくぱさりと中央辺りを広げて止まった。
 白紙だった。
「私たちに……未来は、ないのか……?」
 記されていたのは、一年前までのことまで。続きは何も書かれてはいない。
 それは物語の終わりを意味しているように思え、キヨツグは顔を覆って目を逸らそうとした。最後に思ったのは、終わりと同じ意味を持った、誰にも訊けない問いかけだった。
 届かないのか。もう。

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