―――― 第 1 6 章
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 マリア・マリサ・コレットという人物は、十九歳。悪女と呼ばれるに足る女だった。少女でも娘でもなく、女だった。
 金色の髪、碧玉の瞳。潤み艶やかな唇。豊満な肉体に伸びやかな手足。常に歌うような声と流麗な言葉遣い。常に一流の物を身につけ、上流階級の者を側に置き、自身で何かを行うことを提案しても、実行までの前段階は行ったことが皆無。引く手数多、しかし一人を選ぶことは決してない移り気。その笑顔を手に入れるためなら誰も金を惜しまず、言葉をかけられるためなら犯罪でもためらいなくやる。彼女が望まなくとも、望むであろうことを周囲が行う。そういった魔性を持った女だった。
 マリア・マリサはジョージにとっては、非常に美しい存在だった。つまり他の男たちと変わらなかった。家族関係にあるという理由で特権を得ていたジョージは、これ見よがしにマリア・マリサに命令された。彼女にかしずき、例えば靴を脱がせたりすることを、周囲に見せつけては心のなかでほくそ笑んでいた。そして恐らくは、マリア・マリサもそれを分かっていた。
 マリア・マリサが行方をくらませたのは十九歳の時だった。いずれはどこぞの名家へ嫁ぐはずの娘が、いつも通りの奔放さで遊んでいるのだろうと家の者たちは楽観視していたが、ジョージは違った。
 マリア・マリサは、家を空けることはあれど、決して、共犯者に行く先を告げずに出て行ったりはしない。何故なら姉は決して家から逃れられないからだ。姉は家を愛している。
 彼女は聡かった。その美貌も才能も、権力や周囲の思いも、すべてコレット家という威光があったために維持されてきていたこと。コレット家を離れれば、持っているすべては失墜する。
 マリア・マリサが帰らないことに、周囲が慌て始めたのは、半年経った頃だった。
 それ以前から、ジョージは父の持っていたすべての権限を活用し、それだけでは足らず、己のパイプを作り上げて、マリア・マリサの行方を探した。しかし父や他の信者たちが見つけられないものを見つけることは、時間が過ぎていき一年経ったとしても、ようやく十九年生きているだけのジョージには、到底無理な話だった。
 だが、ジョージは共犯者だった。
 弟が探していることを聞きつけたマリア・マリサから、自分だけに連絡が入った。姿を消して一年が経ち、彼女は二十歳になっているはずだった。
 そうしてその時気付いてしまったのだ。
 当然側にあったはずの温もりが傍らにないことの悲嘆と切なさ。失われて初めて気付くという陳腐な思いを、恋に不自由していなかったジョージは、それでも真実の思いとして。
 マリア・マリサは第一都市の一般市民層の住宅にいた。
 ジョージは呆然とした。いつも美しかった姉は、それは今でも美しかったが、化粧気はすっかり失せて派手さを消し去り、上等だったはずの衣服は大量生産品のありふれたものになっていた。
 いくつかの会話をジョージは耳から耳へ通り抜けさせていた。誰も、マリア・マリサの失踪の理由が恋をしたからだとは聞きたくなかったはずだった。真実の恋に気付いたのだとは。



 真実の恋は、絶対的に結ばれるものではないということを、ジョージは知った。



 そこから先のことは、後のジョージ・フィル・コレット市長を作り上げるための前段階だったのかもしれない。
 非情に、残酷に。ジョージはマリア・マリサを連れ去り、監禁した。父をそれとなく動かし、相手の男を潰した。行方は聞かなかったがどこかへ消えたのだろう。ジョージはマリア・マリサを何事もなかったかのように屋敷に連れ帰り、毎日のように会った。
 連れ帰った直後に、妊娠が発覚していた。俺の子だとジョージは思った。
 生気の失せた姉は、人形のような儚げな美しさがあった。どんな時でも、美しいものは美しいのだと、感じずはいられなかった。
「どんな名前をつけるんです、姉さん」
 虚ろにマリア・マリサは見る。
「同じようにマリアがいいな。マリエでもいい。ミドルネームはリリーかな。聖母の百合と言うでしょう」
「……何故お前が名前を決めるの?」
「だって、姉さん」
「お前の子じゃないわ」
 窓外の光を背後から浴びて、マリア・マリサはジョージを見る。
「お前の子じゃない。だって、お前は、わたくしに何もしていないじゃないの」
 唇が、歪む。嘲り。
「何を夢想しているの? 夢の中でわたくしをさんざん犯したのかしら? でも残念、現実にはあり得なくってよ。だってお前は、わたくしを汚すことは絶対に出来ないから」
 フラッシュバック。
 連れ去る以前。肩をつかんで、押し倒し。
 彼女は――。
「じゃあその子は誰の子だ」
 さあ、とマリア・マリサは唇の片側で笑った。男をもてあそぶ、物事を曖昧にする言葉だ。
「誰の子かという真実が必要? だったら言うわ、私の子よ。私の子。お前にはやらないわよ」
 手を当てた。膨らんだ腹。
 視界に光が閃く。
 押し倒した後、彼女は。
 ――腹を押さえて止めてと叫んだ。
「っ!!」
 伸ばした手がマリア・マリサの喉を締め上げる。苦しげに息を求める彼女は、決死の形相でジョージの腕を叩いた。ジョージは怒りで沸騰しそうになる。
 酸素がいかなければ、お腹の子は死ぬ。それを恐れているのだ。自身の命よりも!
 マリア・マリサの美しい瞳から、涙がこぼれ落ちた瞬間、ジョージは手を離した。
 それは生理的な涙ではなかった。マリア・マリサが初めて流した、涙だった。
 倒れ込んだ彼女は咳き込みながら大きく呼吸を繰り返す。だが、やがて腹部を押さえて呻いた。ジョージははっとした。
「姉さん」
 手が振り払われる。
「……来ないで」
 額に脂汗を滲ませながら拒絶したマリア・マリサは、何事か、窓を大きく開いた。ごうごうと流れる灰色の雲が、不気味な流れとなって空に浮かんでいる。
「姉さん!」
 窓辺に佇んだマリア・マリサの、マタニティドレスの裾がレースのカーテンと共に揺れる。嵐を感じさせる風に、マリア・マリサは影となり、瞳だけが別の生き物のように光っている。涙が溢れ、頬を伝う。
 裾に、紅が滲んでいることに気付く。
「…………」
 マリア・マリサはそうして無言のまま身を翻し、窓の向こうへ身体を躍らせた。
 庭師の者がそれを見ており、悲鳴が上がった。駆けつけた人々が救急と警察を呼んだ。
 頭を打ち、即死だったという。
 彼女の立っていた場所には血の赤い跡が残っていた。その時お腹の子は瀕死の状態で、母親が飛び降りたことで死んでしまったのだと、医師は告げた。
 子どもが死にかけたから母親を連れていったのだと、そういう物語を聞いた。または、ジョージが彼女を襲ったから気が違って死んだのだと。
 どちらも、あたらずといえども遠からずだった。
 その頃、以前付き合っていたアンナ・アーリアが自分の子を妊娠していたと聞いた。アンナは黙っているつもりだった、迷惑をかけるつもりはないと渋ったが、ジョージは彼女と結婚した。ジョージは大学生で、彼女は年上で研修医だったが、妊娠していることを理由に仕事は辞めてもらった。
 ジョージは生まれてきた子どもの名前を、マリエにしようとして、改めた。アマーリエ、『一人の聖母(A Marie)』と名付けた。黙って届け出を出した。マリア・マリサを知っていたアンナは怒り狂ったが、罪悪感はあったため、彼女が候補に挙げていたエリカを、ミドルネームに付けておいた。それでも子どもの名前はアマーリエ・コレットと呼ばれる。
 娘は健やかに育ち、全くと言っていいほどマリア・マリサには似ていなかった。アンナにも似ていなかったし、ジョージにも似ていなかった。しかし、儚い美しさのある娘に育った。
 アマーリエはやがて二十歳になり、二十一歳になり、マリア・マリサの年齢を追い越していくだろう。その時の幸福を決めてやろうと、ジョージは心に誓っていた。
 もう二度と、失うことはしない。

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