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 歌を歌ってもらった記憶がない。母は完璧に家事をこなす人だったが、余分なものは加えない人だった。その後離婚してからアマーリエは祖母の家で養育されたが、祖母は祖母で完璧な教育を施すことを目的にしていたようだったので、新しいことを始めるということがなかった。だから、歌を歌ってもらった記憶がない。
 それを寂しいと思ったのかは分からない。客観的な今なら寂しかったのだろうかと考えるけれども。幼稚園でよく歌っていたからかもしれなかったが、今ならオーディオプレーヤーが簡単に手に入る。成長して、一人きりの部屋で、歌っていたこともしばしばあった。歌は、好きな方だった。
 なのに、歌ってやれない。
 最近、恋の歌を聴けなくなったからだ。
 自然、大抵の曲がだめになった。パソコン上からも削除し、聴く曲はクラシックやインストゥルメンタルばかりになった。妊娠している身で、ある意味正しいのかもしれなかったが、段々と嫌気がさし、音を切った。
 世界には音が溢れていることを思い知るようになった。黙って座っているだけでも、空気のちりちりとした音や、電化製品の唸る音、高層ビルであるために強風の音が響いて、地上のざわめきを届かせる。あれだけ自然に聞いていた全ての音に、今では苛立ちを覚えていた。
 気分転換に聞いていたオーディオを、ストップさせるのではなく電源から切ってしまう。
 歌を、歌ってやりたいのに。
 聞きたいのは風の音。人の遠い笑い声。木々のざわめき。星の音さえ聞こえる静寂。
 そして、たった一つの名で自分を呼ぶあの人の声。
 玄関で鍵の回る音を耳聡く聞きつけたが、黙って窓辺に座っていた。姿を現した父親は、一年以上前には考えられない日のある内や午後の時間帯に、自宅に通うようになっていた。
「アマーリエ、調子はどうだい? 果物を持ってきたよ」
「…………」
「医者に聞くと順調だそうだね。良かったよ」
 つわりは、リリスに強制送還された後の入院中に時期を過ぎて、腹部は大きく膨らんできていた。いつの間にか季節は冬から夏へと変わっており、薄いワンピースでも、空調を切っているせいもあるだろうがうっすら汗をかいてしまう。ワンピースの白が、午後の光に眩しく、アマーリエは目を細くしてゆっくり瞬きをする。
「名前は決めたかい? 私も色々考えたんだがね」
 いくつかの名前の候補を見せて、父は言った。
「女の子なら、マリアにしないかい?」
 氷の固まりが出来たように頭の芯が冷たくなった。何故あの人の名前をと思うと同時に、やはりこの人はという諦めが生まれた。
「……パパ。聞きたいことがあるんだ」
「なんだい?」
 久しぶりに口を利いたことが嬉しいらしく、声は弾んでいた。アマーリエはそれを、苦々しく、恐ろしいと感じた。
「パパにとって、私はなに?」
「なにって。大事な娘だ。世界で一番かわいい私の天使」
 何を当然のことをと言いたげに父は笑顔だった。しかし、アマーリエはそれを不満に思うだけの子どもではなくなっていた。
 アマーリエの帰還を秘密裏にするための隔離施設にされた、かつて育てられた祖父母の屋敷。そこで過ごした一ヶ月。身体の自由が利くうちに、あちこちを調べ、記録を探すには十分の時間。マリア・マリサ・コレットの足跡を辿るに費やした日々。
 この人は、その思いを知っているのだろうか。
「それ以外の答えがあるのを知ってる?」
 立ち上がれば、ワンピースの長い裾がひらりと床に落ちる。
「パパにとって大事な一人娘。もうひとつ、コレット市長にとって有意味の道具。最後のひとつは、ジョージにとってマリアとマリア・ジュニアの代わり」
 父の表情が変わる。
「このワンピースは、マリアおばさんのでしょ?」
 死んだ美しい女性。喪われてしまったお腹の子ども。彼女が何を思って死んだのかは、どこにも記されてはいなかった。残っていたのは、情緒不安定で飛び降りたのか、それとも父が原因で飛び降りたかという下種な噂だけ。真実は残されてはいないが、マリアにジョージが何をしたのかは、なかったことにはならない。
「マリアに何をしたの」
「……何も」
 意外にも、答えはあった。
「何も。ただ、私は知ったのだよ……」
 だがその答えは、残されていないものからは答え合わせが出来ないものだと、ジョージは気付いていたのかもしれない。彼が矛盾を口にしないかぎり、彼の語る過去はすべて真実になる。
「真実の恋は、絶対に向かい合うものだとは、決まっていないことに」
 それでも紡ぎ出された言葉は、何故か真意を語っているように聞こえた。アマーリエは、悲しみで顔を綻ばせた。
「……私、父さんと母さんに元通りになってほしかった。結婚したからには、一緒にいて当然なんだって信じてた。ませた子どもだね……」
 アマーリエが生まれたことで壊れていった恋。ジョージの語る真実の恋は、きっとそれではなかったのだと、気付いてしまう。目を閉じることで祈る。母さん、あなたの傷が癒えていることを祈る。
 恋とは身勝手で。信じる者によって形がある。双方向に向かい合うとは限らず、掻き消えたり、消されてしまうものもあるのだろう。
 マリア・マリサは真実の恋に出会って、家を捨てた。一年後連絡を取った弟に連れ戻されたが、妊娠が発覚した途端、信じていた弟は豹変し、自分を崇拝するほどまでに気を違えてしまう。彼を救う手段を模索し、一方で彼が畏怖するお腹の子どもを捨てられないマリア・マリサ。
 アマーリエに充てられた彼女の部屋に隠された日記には、悲しみと苦悩が美しい筆跡で綴られていた。
 そして、今に至るまで日記は気付かれていないという、悲劇。
 いつだって、誰もが、幸福な恋に出会え、続けられるとは限らない。
「……そんなに私は、マリアおばさんに似てる?」
 ジョージの瞳に切ない光が灯った。
「ああ。……ああ、似ているよ、姉さんに」
 羨望だった。敬愛し、崇める声だった。
「でもお前を一度も身代わりだと思って見たことはない。お前はアマーリエだ。私の、アマーリエだよ」
 この人の顔は、甘い父親と、厳しい市長と、弱い弟だ。あらゆる面を場に応じて使い分け、必要のないところを削ぎ落としてきた。だから、マリア・マリサを唯一に思っているその弟の面が、かろうじてこの人を人らしいところに繋ぎ止めているのかもしれない。
 例えそれが母でなくとも。口にしたアマーリエでなくとも。狂気に惑い、壊れかけた人格でも。ジョージの唯一の恋はこの形。愛すべきは失われた人とその子ども。
 だから。思い浮かんだ人の姿が眩しくて、目を閉じる。
 だから、側にいなくちゃならなかったのに。もう。
「そう、願ってるよ……」
 本当は、ずっと一緒がよかった。両親とは、両方揃っている親だから両親だと思っていた。どんなに仕事が忙しく休、日の過ごし方がどこか父親の仕事である父と、どんな時でも化粧と身だしなみという武装を欠かさず、仕事に復帰するために準備している母でも。二人が社会に対して夫婦と認められているだけで、アマーリエの両親であるというだけで、アマーリエには平穏が認められるのだ。
 しかし、それを言うのは残酷だと、六歳のアマーリエは知っていた。ジョージとアンナは、アマーリエの両親というくくりだけで生きているわけではないからということをずっと自覚していたのだ。
 世界にはたくさんの人々がいるけれど、その人々が単純に自分だけのものではなくて、その人自身の世界があって重なっているだけ。
 だから、早く一人前にならなくては。寄り掛かっては生きていけない。自立し、頼ることなく生きよう。
 そうしたら、生まれてきてはいけない子どもというレッテルは意味のないものになる。世界は私一人のものだ。世界は、本当は、一人で生きていくもの。
 私が失われても大丈夫だから、どうか。
 キヨツグの世界は損なわれることなく回っているはずだと。

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