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 何かが損なわれても、世界は回り続けている。死んだように生きる者たちは、生で巡るそこではやがて潰えていくのだろう。病にかからねば生きていけぬ者が治療されてしまうと、欠損したもので呼吸することまでもが機械的になるのだった。何も、元通りにはならなかった。
 季節柄、感染症の流行は減少の傾向にあり、対策がようやく追い付いてきたという印象だった。小休止といったところで、やがて寒さと乾燥が増してくると、再び流行するだろうということが予測されている。大方の者は予防接種やワクチンのおかげで抗体を持っているが、気をつけねばならないのは子どもたちだった。
 頭が引き攣ったように痛み、キヨツグは顔をしかめた。それを見てか、おずおずと事務官が政務の終了を申し出、キヨツグは了承する。何故か心配げに見送る官吏に、明日の予定を確認し、部屋を出た。
 寝間に入ると、灯火で部屋が揺れている。扉を開くと、音に身を竦ませた見知らぬ女が、こちらの顔を見て平伏した。
 長々とここにいる理由を述べる女の声を、キヨツグは聞いていない。人を変え、言葉を変えようとも、並べ立てる内容は同一のものだからだ。
 大股に近付くと、確かに美しい顔立ちをしていた。光が作る影が濃く、肌は白い。触れたところから感じる体温は、緊張のためか少し高い。
「それで、何をしに来た?」
「……天様を……お慰めするために……」
 気圧されたように女が声を震わせる。その自身に気付いたのか、女は慌てたように縺れた言葉で言った。
「お慕い申し上げております」
 くっと嘲笑って、キヨツグは女の手首を掴んで後ろへ倒す。倒れた女の身体の胸が上下し、その頬が染まった。
 それを見た瞬間、すっと心が冷えた。表情も、感情も、常闇に放り捨てられたように消えた。
 黙って手を引くと制止の呼び声が上がるが、戻ってくるまでに出て行けと告げて表に出る。女の顔は見なかったが、青ざめたか、怒ったか、どちらかであることは容易に想像がついた。
 表に出て我武者らに近く、歩く。北側の門に行くと警備兵が驚いたが、少し出てくるだけだと言って外に出た。
 遥かな山並みの望める空に、白い月と星が輝いていた。
 夏空の星は、青い。草もどこか青みを帯びた黒で、夜渡る風に、露を光らせて揺れた。
 いつかこの場所で共に空を見上げた娘。その時覚えた感情をはっきり思い出すことができる。娘の姿が時が経るにつれ曖昧になりそうなのを、何度も思い出すことで記憶に留めようとする。
 美しいものをひとり見ている孤独は辛いと、思う。そして、沈む夕陽と赤い空を、虹の掛かる空を二人で見たことの幸福を、今更ながらに覚える。
 キヨツグには、もう何も出来ない。
 一度目に去ったことを間違っているのではないかと教えてやることはできた。だが、二度目に去ったことを、間違いではないかとはもう言えない。あの時理解したのなら、これは納得ずくのことだと分かってしまうからだ。
 なのに、どれだけ季節が巡れば、別れを、別れと納得できるのだろうか。キヨツグには、分からなかった。

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