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 夢うつつに、あの懐かしい香りを感じた。真昼の、冬の風の匂い。夜の濃い冷たさや、雪解け水の感触を思い出すような。
 椅子に座って眠っていたらしかった。眠りの気配がリビング中に漂っているのが、はっきりしない視界に見える。瞬きを繰り返す。こうして知らず知らずのうちに眠ることが、都市に戻ってきてから度々起こるようになっていた。妊娠のせいだろうと医者は言ったが、あまりにも急激な眠気と体力の衰えに不安を感じている。別の命を育んでいる身体、だけでなく、自分そのものが変わっていく感覚。
 目眩のような錯覚を振り払う。そして身じろぎした瞬間、身体から毛布が落ちたのをぼんやり見た。
 そして、ぐらりと視界が揺れた。無意識に震える手が握りしめているものは毛布ではない。本物の、毛皮だ。草原の、香りがする。
 焦燥に駆られて周囲を見回すと、背の高い人影がすっと動くのを視界の端に捉え、そちらに身体を向ける。背の高い細身の、髪の長いその人。ああ、と漏れた声は、我ながら信じていない風だった。
「……マサキ……」
「よお」
 気軽に彼は手を挙げた。その身にまとっているのは、夏物の黒いシャツ。だぼっとしたパンツに片手を突っ込み、もう片方の手を振れば、財布か何かを下げているチェーンがちゃらちゃら鳴った。首元にはごついシルバーのネックレス。長くゆるい三つ編みが肩に、暗がりで光る目を隠すサングラスは、胸のポケットに下がっていた。
 その格好も彼がここにいる意味も分からない。しかし佇まいから、キヨツグが来ているわけではないということが分かった。マサキの姿は、あまりにも堂に入りすぎていた。
「どうしてるかなって様子見に来たケド。元気そうじゃねえなー。でもアマーリエのこっちのカッコ、めちゃくちゃ新鮮でうれしいけどな」
「……どうして?」
 遮ったつもりはなかったが、ぽろりと漏れていた。
 マサキは向こうのソファに腰掛けて、肘を立ててアマーリエを遠くから覗き込む。
「約束、したじゃん」
 約束、と鸚鵡返して、彼との別れを思い出す。
 何かあったらすぐ呼べよ。いつでも駆けつける。
 あの時は社交辞令にしか思わなかった。それぞれの立場を、個人には個人の世界があり、他人は自分の思い通りに動かしていいものではないと知っていた。アマーリエは真夫人で王宮に、マサキはリィ家の当主として領地に、それぞれの世界を守っていくことが決められている。
 なのに、彼はこうしてここに。
「アマーリエのキモチ、聞きにきた」
「……私の、気持ち」
 衝撃を受けて言葉を無くしていたアマーリエに、マサキは優しげに笑っている。そんな笑い方を、初めて見た気がした。こんなところで見ることになるとは、昔も今も思いもしなかった。
 マサキは、微笑みを形取りながら、そっと言葉を紡いだ。
「アマーリエがここにいたいっていうんなら、俺は、お前の側にずっといる。一緒に、この都市で生きる」
 大地とはほど遠い、大小の塔の乱立する灰色の都市。色鮮やかさは機械的な、ここは、ヒト族の街。
「俺がいるなら、アマーリエはリリスを忘れないでいられるだろ? 思い出を語れるし、知っている人の話もできる」
 視界が揺れた気がした。それはそのまま心が傾いだことを意味する。
 この場所では誰も知らない、近くて遠い国を、その人々を、誰かと語れるならどんなに。どんなに。
「でも」とマサキは続けた。
「アマーリエが戻りたいんなら、協力は惜しまない」
 どこにとは言わなかった。アマーリエが望む場所を、マサキはすでに気付いて知っている。
 息を詰めて、何も見ないように、何ものにも心動かされないよう顔を覆ってしまった手を、マサキに外される。跪いた彼の、真摯な瞳が見つめてくる。
 ごめんなさいと誰ともなしに心が呟いた。こうしたことがあった記憶を持っている。相手は彼でなかったのに、別のひとを思い浮かべてしまったことに、泣きたくなるくらいの悲しさと罪悪感で顔を歪める。
「……マサキは……私の弱い時に、すぐに走ってきてくれるね……」
「仕方ねえだろ。放っとけないんだよ」
 そう言って、腕が回った。久しぶりにそうされた。呼吸の身じろぎ。あやすような鼓動。腕は強くしなやかで固く、温かさで目の奥が熱くなる。こうされていたい、でも、その『誰か』は唯一でしかなかったのだ。
「アマーリエ……」
 熱っぽい囁き。マサキは、まだ好きでいてくれる。彼なら、リリスのことを、どんな日々を送ったか、人々をどう思っていたかを聞いてくれる。アマーリの知らない、リリスのずっと過去の話も語ってくれるだろう。願いも優しく受け止めてくれる。そして、愛した誰かを語るアマーリエを、許してくれるのだ。
「だめ」
 しかしアマーリエは胸を押し返した。
「だめだよ。私には、選べるものがひとつしかないから」
 小さなものが犠牲になることで大なるものを助けられるのなら、捧げることしか選べない。今は、まだ名前の決まっていない自分の胎内にいる子ども。そして都市。
「……それが自分のキモチに背いててもか?」
「背いてないよ。助けられるものは助けたいと思ってる。それに従っただけだから」
 背いてないともう一度、口にする。
 願いは多いのだ。すべての人を助けたい。でも、愛した場所へ、その人のところへ戻りたい。子どもを愛したい、抱きしめてやりたい、名前をつけて、たくさん呼びたい。しかし、都市を見棄てたいとは思わない。他にも気付かずに願っていることもあるはずだ。
 でも、選べるのはひとつだけ。
「だから、お願い。私のために生きるなんて言わないで。誰かの犠牲にならないで」
「それを、お前が言うのかよ」
 凍った声だった。怒りが閉じ込められていた。聞かない振りを、する。
「どうしてここにいるの?」
 一瞬虚をつかれたように黙ったマサキは、抑揚のない声で「任務」と答えた。
「どういう?」
「……リリスの、機械に対する理解力と操作能力の調査。俺が適任だからってことで」
 アマーリエは笑みを浮かべた。
「よかった。それじゃあ、大っぴらに機械が触れるんだ」
「お前、ハナシすり替えんなよ」
 誤摩化されてくれなかったかと、分かってはいたが微笑んで曖昧にしておく。マサキは一度息を落とし、跪いた姿勢のまま、右手を取って口元に持っていく。手の甲に口づけられる感触。息がかかる。
「俺が側にいたいって心から思ってても、ダメか?」
「マサキは、優しい。優しくて、私のせいでだめにしてしまうと思う」
 だって、現にここにいる。呟くと、痛いところを突いたのか、手の力が緩んだ。アマーリエは手を抜いて、触れられた甲を押さえる。温かいけれど、痛い。
 ごうごうと鳴る風の低い音が聞こえる中で、冷蔵庫が唸り始めた。空調が換気を開始し、ファンが動く音が微かに聞こえてくる。こんなにも音が溢れているのを、マサキはどう思っているのか聞きたくなった。あの静寂が、数々の自然な優しい音が、懐かしくはないのか。
「欲しいモノ、ある?」
 しかし結局は尋ねられず首を振るだけだった。
「欲しいものは、なんにもない。ここでは、なんでも揃うから」
 マサキは立ち上がり、アマーリエの頬に触れていく。
「思い知った」
「え?」
 微かな呟きだったのと、音のせいで聞こえなかった。だがマサキは笑っただけだった。
「またな」
 そうして夢のように去ってしまった。現実の音として、ぺたりぺたりとフローリングを歩む裸足の音、玄関の扉が閉じる音が聞こえ、しばらくすると、夢から冷めたように一斉に明かりが灯ったように感じた。
 首を巡らせると、カーテンの隙間から西日が差し込み始めていた。
 赤くて。でも、煙っていて。いつか見た、耳元で語られた物のような記憶に呼ばれる。落日の風景。高鳴る心臓。
 近付いて窓辺に立てば、無機質な灰色が逆光のために黒い影の固まりとなってそびえている。鏡のようなビルが、オレンジと紅の間の色を一面に映していたり、同じような高層マンションが、照らされて赤くなっていたりした。眺めていれば、夕陽はビルの狭間に消え、ゆっくりと沈んでいくのが、周囲の色の光の失われていく様で分かるようになる。
 いつかの物語。静寂の狭間に立ち、世界を手にしたのは誰か、アマーリエは語ることが出来ると思った。
 世界を手にしたのはヒト族。
 記憶という、時間の幸福な世界を手にしたのは、記憶の中のエリカと呼ばれた娘だ。
 アマーリエは、都市にいた。

   *

 サングラスをかけて雑踏に紛れてしまえば、長髪は目立つものの、高身長など物ともせずに人々に溶け込むことができる。リリスは知らないのだ。ヒト族はもう、こんなに進化してしまったことに。
 豊富な食料により、今では低身長は少なく、大概のものが幼くして高い身長を手に入れる。充実した機械とそのシステムで規制された都市という機能。それゆえにひとたび大打撃を与えられれば深刻だが、一方でその防波堤も築かれている。
 どちらがよいとは言えない。マサキは自身が故郷を愛していると気付き、そしてこの都市が居心地よく感じるのも確かだった。
 しかし、アマーリエには違う。
 彼女の言う『ひとつしか選べない』は、幼い依存と言えば、確かにそうだったろう。ひとつしか選べないと、一度決めたことを変えられない几帳面さ。草原が唯一と決めたのなら、唯一だったのだ。
 雑踏の中で立ち止まれば、迷惑だと思っているだろうに振り向きもせず、ヒト族はマサキを避けて歩み去っていく。
 前髪を掻き上げる。日差しが、じりじりと何かを焦げ付かせていく。
「……思い知った」
 アマーリエには唯一が出来てしまったこと。
 それでも、彼女がここにいるのならマサキは側にいるつもりだった。それでも、慰めにはなっても癒すことはできないのだということも『思い知った』。
(……望むなら)
 なんだってするだろう。アマーリエのように差し出すのではなく、犠牲ではなく、叶えようとする。それが自身の喜びでもあるからだ。
 キヨツグが都市に乗り込んだことを、マサキは聞き及んでいる。手を貸したのは自分だったからだ。病院のネットワークに侵入し、電源システムを一時的に遮断した。リリスにいた一年前などそんなことが出来るなど考えもしなかったが、ここまで知識が発展してしまったのは誰かさんのために決まっている。
「アマーリエは、分かってない」
 それが、キヨツグも同じであることに。
 望めばいいのだ。望めばいいのに。

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