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 胎児は、都市に流行する感染症や、様々な検査、予防薬のための細胞採取にも関わらず、順調に大きくなっていった。身体が動かしにくくなると、父が秘したまま、一人でアマーリエの世話をすることは難しくなったらしく、いつからか、大学の友人たちが顔を出すようになった。しかし、彼女たちがいつから現れるようになったのか、記憶にはなかった。
 オリガが台所で洗い物をする水音が響いている。リュナの姿がないのは買い出しだろう。キャロルはフローリングを拭き掃除をしており、すっすっという軽快な音がしていた。ミリアは物を落としたり邪魔になるからといわれて、ソファの横に座ってリモコンのボタンを手持ち無沙汰そうに押している。時々手伝いに呼ばれて行くが、すぐに戻ってきて足をぶらぶらさせていた。
 それを見ているアマーリエは、テレビの音も気になるので極力音を絞ってもらった周囲の生活音をぼんやり聞いて、惰性的に腹部を撫でている。子どもは、やがて生まれて来るのが分かるほど大きくなっているのが感じられる。時折ぐるりと動くのが分かり、ここに息づいているのを実感した。
 どんな目をしているのだろう。どんな髪の色。彼に似ていると嬉しい。生まれて来るどんな子どもも受ける祝福を与えたい。抱き上げて、抱きしめて、キスをして、手を繋いで、触れて。
 それでも、この子を抱く資格はアマーリエにはありはしない。抱きしめてやりたいと思う度に、そんな痛みに苛まれる。
「アマーリエ」
 呼ばれて、我に返る。
「ミリア?」
 どうしたの、と笑う。すると、ミリアは綺麗に描いた眉をきゅっと寄せて唇を引き結んだ。泣きそうにも見える表情を見ていると、つやつやの唇から漏れたのは押し殺した声だった。
「そんな笑い方、アマーリエはしなかった」
「……何が?」
 意味が分からない。
「そんな、なんにも見てないような顔、アマーリエはしなかったっ!」
 騒ぎに気付いたキャロルが手を止め、それに気付いて水道を止めたオリガが、ミリアと制止の声をあげる。
「ときどき遠くを見ることはあっても、あたしたちのこと、どうでもいいみたいに思ってなかった。今のアマーリエはアマーリエじゃない。あたしの好きな、アマーリエじゃないっ!!」
 立ち上がり、駆け出して、飛び出していく。オリガが緊迫した声を上げて追いかけていき、しばらく玄関が騒がしくなるが、音が止んでも誰も帰ってこなかった。
 嵐が一人で暴れていくのを見たように呆然としながら、静かに息を吐き、目を元通り腹部に向ける。
 どうでもいいわけではなかった。でも、一番が存在することを、ミリアなら知っているはずだった。友人より恋人を優先してしまう、ちょっとした裏切り。恐らく自分はそれなのだろうと気付いてはいたが、どうしても一番は存在し続けて心の大部分を占めていた。ただそれらのことを口にする気が起きない。自分のことを見ずに叫びを迸らせたミリアに、少しだけ罪悪感を覚えるけれども。面倒で、周囲は無理解だろうという諦めが、吐き出す息から漏れ出すのが分かる。
 あれほど色鮮やかだと思っていた都市の世界が、今は灰色に塗られて見えた。
 ソファの前のローテーブルに、白い手がコースターを置いて、マグカップが載せた。温かな湯気と共にスープが香り、見上げると、キャロルがそこに座って笑ったところだった。
「アマーリエ、あなた今、少し怒っているでしょう」
「……ううん。どうして?」
「私たちが何も知らないから」
 見つめると、キャロルは白い羽毛のようにふわふわと笑った。
「あなたがリリスの国へ行って、どういう生活をしていたのか。あなたの旦那様はどんな人なのか。あなたが旦那様をどう思っているのか」
 肺に溜まっていた諦めが、ゆっくりと溶けていく。
「教えてくれる?」
 アマーリエは自身の手に添えられたキャロルの手を見て、唇を震わせた。
 開けば、言葉は水のように流れ出た。
 最初はとても嫌で逃げ出したこと、でもリリスの国でみんながとても優しくて大切にしてくれたこと、特にキヨツグは気遣ってくれたこと。
 リリスの一員になろうとして、好きだと男の子に言われて、他人にリリスにはなれないと言われて絶望してその男の子と一緒に逃げたこと。
 キヨツグが追いかけてきたこと。
 言われた言葉。
 この人が大切だと気付いた。
 いつもいつもいつも、包んでくれた。にがさないでいてくれた。ふわふわと漂う子どもの自分を、その手で育てるようにやわらかく。時の流れの違いは、その時とても優しいものに変わって。
 広がっていくものに目を覚ました。見上げた先の始まりの色は鮮やかで、ひとり声をあげた眩さの名前。様々なところから響き渡るもの、聞こえた音は自分と彼の心臓の音、手を伸ばして。取り合った手から伝わる体温で。離れないようにと祈っていた。彼の温もりを聞きながら。
 いつか隔てられてしまうことを、恐れを、話せないでいたことを。消えていなくなってしまえばどれだけいいだろうと考えたことを。お腹の子が動く度に顔を覆って泣きたくなるのだ。会えなくなることの悲嘆が叫び出したくなるほどの感情となって押し寄せる。
 さよならは優しいものではない。
 こんな世界、こんなどうしようもない世界。あなたが、あなたたちがいるから、守りたいと思ったのだ。
 この一年のことを、たくさん話しながら、都市で再会したマサキを思い出す。思い出の話が出来るということ。アマーリエが、ずっと、誰かに聞いてほしかったことを、彼は知っていたのだ。
「でもね、思うんだよ……私は、みんなが従わなければならない族長の妻だから、族長に愛されてるっていう絶対の安心感を求めて、好きになったのかもしれないって」
 恐くて口に出来なかったことを言う。
「私は、あの人が寄せてくれる思いを利用しようとしたのかもしれない」
「後悔しているの?」
 後悔。
 好きになったことを。
「ううん」
 言葉はすぐさま出た。そして続きも。
「――奇蹟だと思う」
 問いかけるように見つめるキャロルを分かって、アマーリエは、ようやく自身の左薬指にずっと嵌められたままの指環を意識する。
 ずっと約束の環はここにあった。外さないでいた自分がいた。誓いは、なかったことにはなっていなかった。
「例え、私が汚い理由であの人を好きになったんだとしても、私はあの人が好きだった。一緒にいたくて、笑ってくれれば嬉しかった。悲しい顔はさせたくなくて、どうしたら幸せだって思ってもらえるだろうって考えたりもした」
 幸せにしたかった。愛したかった。ずっと。
「それが、奇蹟?」
「いつか私があの人を置いて逝ったとしても……それでも、一生恋が出来るのなら、それは、きっと、幸せな奇蹟だよ」
 多くの恋と愛が溢れる中で、一生を恋をする。ただひとりだけを。
 恋をしたことのない子どもと嘲笑われようが、信じていたいことがある。世界の平和も終末も再生も、ヒト族が失ってしまった宇宙に行くことを信じなくとも、それだけ。
 キャロルは、笑ったりはしなかった。温かく見つめて、隣に座り、肩を抱いてくれた。
「そうね。だって、それは永遠ってことだものね」
 少ない言葉で、頷いてくれた。
 リビングに通じる扉が勢いよく開かれ、「たっだいまー!」とにぎやかなリュナの声が響く。
「そこでオリガとミリアに会ったよー」
「ちょっと、この食欲旺盛娘になんとか言ってやって。この季節にアイスなんて買ってきてんのよ」
 言われて、少しだけ肌寒いことに気付く。首を巡らせたさきのカレンダーが、もう秋を示していて驚いた。お腹も赤ん坊も大きくなるはずだった。
「新発売のパイアイスー。マロン味!」
「あらまあ。取りあえず冷凍庫に入れておきましょうか。溶けてるでしょ、どうせ」
 それまで最後尾にいて黙っていたミリアが、スリッパをずるずると引きずって、アマーリエの前に立つ。俯き、両腕を拗ねるように身体に添えて、それぞれ拳を握りしめている。
「ミリア」
 彼女は今にも決壊しそうだ。鼻をすすっている。
「ごめんなさい」
 ごくんと喉が動いた。
「……私も、ごめん」
 ミリアはぽつんと言った。アマーリエは首を振り、少しだけ笑みを浮かべた。
 大切なものができた。もう失いたくない。どちらも取れるはずはないけれど。
「ごめんなさい……」
 望みばかりが大きくて。ひとりの手の小ささを、思う。

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