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 風の音がするのに、風がない。駆けることのできる大地がほしい。靴下に覆われた足は温かいが、フローリングは冷たいことが感じられる。こんな人工的な冷たさは敵わない。王宮の、ひんやりとした廊下には。
 この子の世界はリリスがいい。思った瞬間に、答えるようにお腹の子どもが身じろぎした。
 あの場所は幸福の固まりだった。命に溢れ、裸足で踏み締めることのできるもの、咀嚼する温かなもの、肺に取り込める清々しいもの、見上げたさきにあるものに満ちて。教えてくれる人たちがいて、笑ってくれる人がいる。みんなに愛を注いでもらえる。健やかに、生きていけるだろう。
 それらを誰もが諦めろと暗に示す。どうして、諦めなければならないのか。
 アマーリエは立ち上がり、外に出た。いつもいるはずの誰かがいないことを気にもとめなかった。胎児を守る服装だけを無意識に整えて、踵のない靴をもどかしいはずなのにいつの間にか履いて、何ヶ月も久しぶりにマンションを出たのだった。
 タクシーを拾い、都市外部へ出てくれるよう頼んだ。妊婦が呼び止めたことに、もしやと心配したらしい初老の運転手は、こちらが落ち着いて都市外部へ出たいと言ったことに安堵と、疑問を見せた。それに、アマーリエは笑いながら夫がそこに勤めているのだというようなことを喋っていた。
 タクシーでは都市を出て行けないために、途中で下ろしてもらった。お腹の子を気遣ってもらったことに何度も礼を言って、アマーリエは、そびえ立つ鉄のゲートを見上げた。
 よたよたと重たいお腹を抱えて歩いて来るこちらに気付き、詰め所から警備員が出て来る。
「奥さん、どうしたんですか?」
「行かなくちゃならなくて。開けてください」
 彼らは少し奇妙なものを見る目でこちらを窺う。
「だめですよ、許可証がなきゃ。奥さんお腹大きいじゃないですか。だめですよ、向こうに行ったら何があるか」
「行かせて。あそこには……」
 警備員を押しのけた。妊婦に強く出ることのできない彼らは、突き飛ばされた途端、呆然として、鉄の門に縋り付いたアマーリエを見ていた。鈍い音が、アマーリエの叩き付ける拳で響いていく。
「おい、ちょっと医者かなんか……!」
「お、おう!」
 あそこに行きたい。ヒト族が踏み入ってはならない土地。彼らがつよくうつくしいのは、ただあるがままに生きているからだ。流されるのではなく、争うのではなく、自分を守り自分と戦う。ヒト族が忘れてしまった生き方があるから、アマーリエはあそこが好きなのかもしれない。彼らはそれでも、ヒト族のアマーリエに言ってくれた。
 どんなものも、生きるだけ。
 彼を置いてアマーリエは逝く。
「……けて……」
 お腹の子は、一体どちらだろうか。
「……助けて……」
 誰か救って。永遠がほしい。時の流れを。運命や物語や世界を変えて。いつまでも変わらない時間を与えて。
 寄り添っていられる温かな真昼。二人分の温もりが一人分になる幸福な夜。そのすべての温かさがアマーリエを苛む。ここはなんて冷たく暗い場所。灰色に塗られた光のぼやけた街。ここでは、育てた花や芽や種が死んでしまう。
 いつしか、アマーリエは泣き叫んでいた。
「誰の道具にも犠牲にもなりたくない! 私は、幸せを望んでいたいの!!」
 本当はずっと叫びたかった。どうしてそんな、当たり前のことを許してくれない。いつもいつもいつも、たったひとつしか選ばせてくれない。
 未来を選ぶ、それを一度リリスで叶えた。都市にいるかぎりには都市にある未来を選ばなければならないのかもしれない。だが、欲しいのは褪せてしまった未来ではないのだ。リリスで一度納得したものは、体よく自分に言い聞かせる言葉で敷かなかったけれど。
 選んでしまったのだ。
 愛してしまったのだ。
「助けて……私を助けて……この子を……助けて」
 いつか歴史にはヒト族のみが記されることになるかもしれない。書かれぬであろうこの心と恋に意味はあったのか。
「――あ」
 次の瞬間、全身が燃やされるような熱さが襲う。同時に、腹部が外からも内からも刻まれるような痛みが走った。膝が崩れ落ちたのを、必死にゲートに寄り掛かることで転倒を防いでいた。手の感覚がなくなって、ただ熱い。目が利かなくなる。耳が聞こえなくなる。
 この感覚には覚えがあった。フラウに感染した折れたときと同じものだ。誰もが一歩ずつ踏み締めているはずの死への階段を、踏み外して転がり落ちていく。
 痛い。
「おい、大丈夫ですか!? 奥さん! 奥さん!!」
 痛い。
 目が利かなくなっているのに、白い光と大勢の人々の気配が感覚された。見ていないはずなのに、そこが集中治療室であること、オリガ、キャロル、リュナ、ミリアが、それぞれ固く手を握りしめているのが分かった。
 アマーリエは現実を見る一方で夢を見ていた。白い世界に、ぼんやりと陽炎のような光が立ち上る。いつか見た気がする白い光をまき散らす獣が、ゆらりと姿を現した。
『あんたに死んでもらうしかないね』
 何かが走り抜け、雷に撃たれたようにアマーリエは倒れ込んだ。威嚇が肩を掠めたのだ。
『あんたの身籠る子はニンゲンのはずだった。だが、あんたはヒト族ではなくなった(・・・・・・・・・・)
 呆然として、かろうじて身を起こすアマーリエに、獣は唸る。
『あたしらはずっと待ってたのさ。ひとつから分かれてしまったいくつもの種族、その血が混ざり合い、もう一度ひとつになることを。例えるなら、無数の支流が集まり大河となることさ。あんたはその合流地点のはずだった』
 そのポイントを、アマーリエは意味が分からないながらも瞬時に悟った。
 交わっても問題無しとされているはずの、血液。リリスの血。彼の顔が。
「……私が、ヒト族でなかったら、なんだというんです……」
 化け物でしょ、と声が聞こえた。あの人が思い浮かぶ。
『こういう言い方はもうしないんだろうが、敢えて記号をつけるんなら』
 全身を震わせて獣は言った。化け物、と等しい言葉だった。目を見開いたアマーリエが身を強ばらせた瞬間、獣はその場から跳躍し、牙を剥き出した。

 流れる血を感じる。全身から血が失われていき、合わせてゆっくりと、意識が消えていく。柔らかくアマーリエを包み込んでいくのは闇だった。いつだって、ビルの影や、車などの素早く走り去る影、人の側にあってどこにでも溢れるものだった。
(キヨツグ様……)
 しばらく呼べなかった名前を、そっと囁いた。愛を告げる言葉の代わりだった。そうすれば答えてくれるような気がした。
 そして、最後に呼んでやれなかった子を思った。
(私の……赤ちゃん……)



『――――』
 呼ばれた。
 瞬間、押さえた場所から光が迸る。夢の中でそれは包み込むように広がった。
 いつか見た、優しい虹の環のようであり、雪のように清らかな光だと思った。

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