―――― 第 1 7 章
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 扉が開かれた。兵を置いていたのを強行突破した女官たちが、食事の膳を持って執務室まで押し掛けてきたのだが、キヨツグは一瞥した後に下げろと言った。調味料の香りで胸焼けがしそうだった。
「いらぬ。下げろ」
「で、ですが……」
「下げろ、と、言った」
 一節を区切って告げれば、女官は竦み上がって膳を片付けて立ち去る。
 食事などしている暇はない。すべきことは山積みだ。族長とはいつだってそうだったが、この重い苦痛はなんだろう。何をしても終わらない、輪の中を永久に走らされている気がした。
 フラウの流行はしばらくの落ち着きの後、再び流行の気配を見せていた。この季節であるから、体調を崩す者も出始める頃だ。ワクチンは解析を終え、すでに同じものをリリスで製薬できるようになっている。秋から冬の流行は、今年頭ほどの死者を出さずに済みそうだった。
 自分を呼ぶ声は聞こえるはずがないが、しかし呼ばれた気がして一瞬息を詰める。耳奥に残る甘い呼び声を、振り払う。
 すべきことはまだある。リリスへのヒト族の機械の導入は、今回の件で難しくなった。マサキはよくやってくれているらしいが、彼のように柔軟なリリスばかりでないこともある。若い世代を中心に広めれば、案外すんなりと行くかもしれないが。
 機械の導入を考えたのも、リリスがこの世界で生き残る術を求めてのことだった。ヒト族の発展は目覚ましく、閉じこもったままのリリスでは、古いものにしがみついてそのまま潰えることがあり得た。リリスの最初の在り方を守り続けたとしても、周囲は恐ろしいほどの早さで力を手にしている。それほどまでにヒト族は脅威であった。そして、その対抗手段として、リリスの機械の導入だった。
 それももう必要とせぬかもしれぬ。
 汚してはならないものは絶対にある。それがリリスなのだと。ヒト族と同じ歩みを辿れば、守れなくなるものがある。
 頭を振る。声など聞こえない。
 そして、目の前に立った女官を見た。
「……何か言いたいことがあるのか」
「お体を壊します。何か召し上がってください」
 先程の女官が泣きついたのだろう。かつて真夫人となることを期待されて王宮に上がった経歴を持つ、最有力候補であったアイだった。
「少しは食べている。そう大袈裟にすることはない」
 それでも納得しそうにないアイに、積み上がった仕事を示す。
「ワクチンを管理補完する準備、次の流行の備え、新薬研究の研究費や施設費の確保、未だヒト族に対して敵愾心を抱いたままの長老方を抑えねばならん。その他にも仕事はある」
「……今の天様は、ご政務に没頭することで逃避しているだけですわ」
 キヨツグは目を上げ、威嚇する。
 だが長年王宮に仕えてきたこの女官は、怯みはしたものの黙ることはしなかったのだ。
「忘れようとなさっているだけです。なかったことにしようと。最初からあの方はここにはいなかったのだと」
「よく回る口だ」とキヨツグは笑う。
「私の怒りを買うことを考えなかったわけではあるまい」
 はい、とアイは毅然と顔を上げ、胸を張る。
「覚悟の上です。あなた様はその態度でわたくしたちに言いつける。忘れろ、と。忘れることなど出来はしないのに。それは、あなた様が最もご存じ、」
「出て行け」
 言い放つ。耐え切れなかった。
「お前は真の女官だった。真がおらぬ今お前に仕事はない。王宮を下がれ」
 独裁だった。平等さの欠片もなく私情で言った。
「……傷付きたくないから、仰る」
 その言葉に頭に血が上った。机を拳で叩き付けた瞬間、叫び声が上がった。
「あの方を愛していたのはあなただけではありませんわ!!」
「下がれ!!」
 お互いに荒れた呼吸で、お互いを睨みつけた。どちらも、相手に頑さと譲らぬ気概を見て取っていた。まだ言い足りないといった様子で唇や肩を震わせていたアイは、我慢ならないといった様子で、赤くなった目で強く眉間に皺を寄せると、黙って踵を返していった。再び静寂が戻り、キヨツグは椅子に倒れ込む。
 呼び声は聞こえない。現実に聞こえないのだから、内から響いていても聞こえていることにはならない。
 気配がして、顔を上げると、久しぶりに見る顔があった。
「オウギ」
 無言で立つ護衛官に、不信も露に言っていた。
「……お前も、私に文句を言うのか」
「文句を言われる自覚があるとみえる」
 笑う気配に無言で書類に目を落とすのは反抗の印だった。目を注がれているのを感じながら、どうしようもないことだと考える。
 リリスを守るためには。あれの願いを叶えるためには。もう、何もしないことが最良だと思ったのだ。そのように長老方にも告げていた。もう二度と関わらぬ。もちろん、彼らは納得などしなかったが。
 元の立ち位置に戻れば、二度と交わらなければ、いつか花は潰えて終わるだろう。時間は過ぎ、キヨツグはあれを忘れることが出来るようになる、はずだった。ただ、恋の花が終わることを待っている。痛みに苛まれ、何度も苦しさに喘ぎながら、時間が過ぎるのを、ただ。
「かつて天を行く者が何故地上にあるのか、考えたことは?」
 オウギが珍しく口を開いたと思えば、荒唐無稽のお伽話だった。今更ながら、この人物が幼いキヨツグに昔語りを何度かしていたのを思い出した。静寂と世界の王の話をしたのは、この男だった。
 突然、幻影の中に放り込まれたような曖昧な感覚を覚える。何故か、ここにいることを不可思議に思った。
「地上の者が恋い焦がれる天から舞い降りた最初の者は、その地上の者に恋をした。ひたむきな目、天に伸ばされる手を掴みたいと願ったのが、リリスの始まり。天と地の、初めの恋」
 何の話をするのだと見つめた先の、滅多に見せぬ感情の表情は、柔らかい。
「――幸せな恋をしろ」
 確かに伝えたぞ、と言われた気がした。
「顔色がお悪い」
 声をかけられて我に返る。立っていたのは、護衛官ではなく姫将軍と呼ばれる義妹だった。
「……リオン」
「酒盛りでもしようと思いまして。酔えばよく眠れます」
 まるで見抜いたかのように言う。確かによく眠ってはいないのだ。ならば、さきほどのあれは夢だったのだろうか。そもそも、オウギとは誰だったのだろう。力試しのつもりで興味本位に調査したのに、どこにも足跡が浮かび上がらなかった、偽名の男。
「リオン。オウギは、いくつだった」
 はあ? と不信そうに声を上げたリオンだったが、こちらを見るとしばらく考えたようになり、「……母上は、あの男を知っていた様子でしたが」とだけ言った。そうか、とそこで話は立ち消えた。
「天様、リオン様。お酒をお持ちしましたが?」
 酒を抱えて現れたのはシキだ。持っているそれを見て、リオンはもっと強いのをと文句を言ったが、シキが医療助手の立場からそれを諌めた。
 三人で卓を囲んだ。飲み過ぎるなという小言が遠くなるほど、惰性的に酒を口に運んでいる。それぞれに、酔う気配はなかった。
「……真殿がいなくなって、どのくらいですか」
「……」
 頭の中で暦を繰る。
「……七、八ヶ月といったところか」
「そうですか」
 途端、ぐいと襟元を掴まれた。
「その間、あなたは何をしていたんだ?」
 低い声で言ったリオンの目には、怒りがあった。
「政務? ああ結構! リリスもようやく落ち着きを取り戻した。あなたは采配を振るうことに関しては素晴らしい手腕の持ち主だった。広大な草原を、モルグとヒト族に取り込まれずに統治している。あなたが族長になってから、ヒト族に土地を取られることは少なくなった。それだけでなく王宮の空気もよくなった。前族長が育てていた次世代、私や各家の家長や若い者たちが、同じく次世代のあなたによってうまく繋がりを保てているおかげだ。ええ、感謝しています。ただ王宮に暮らしてどこかの家へ降嫁させられることもなく、私に自由という居場所を下さったのですからね!」
 キヨツグは、まくしたてる妹を、こんなに喋る女だったろうかと見つめた。
「……お前は、私を嫌っていると思っていた」
 思わず本音が漏れた途端、リオンのこめかみが引き攣ったのが見えた。
「……ええ。ええ嫌いですよ、大嫌いだ!」
 盃を叩き付けるように置いて、リオンは叫んだ。
「あなたはうまく出来すぎた。誰にも媚びず、誰にでも平等で、誰にも冷静な判断を下した。誰にも心を与えなかった。だから嫌いだった。肉親の私ですら、剣を取ることを許され将軍という地位まで与えられたのは、父上の実子である私を遠ざけるためではなく、私の価値を見出されたからだと分かっていたからです」
 その一方で思ったのですとリオンは告白した。
 きっとこの人は、リリスに害をなすなら私をも切り捨てる。
「だから、以前のあなたなら私情で首切りなどなさらなかった」
 アイのことを聞いたらしい。リオンは立ち上がり、キヨツグを見下ろした。
「誰も愛さなかった。心を与えることも。誰かを許すことも。胸が痛いでしょう。それはあなたが彼女に与えた心が痛むからです。彼女を愛しているからだ」
 リオンはそこまで一気に言葉を投げつけると、乱暴に座り直した。シキが黙っているのは、見守っているからだった。こちらに向けられた、問いかける瞳。
 夜の暗さに、酒の水面が揺らぐ。甘い香気に、思い出す。夜の水面の色の髪、淡い色の瞳。甘い香りのする、愛しい。
「……恋をした」
 漏れた声は、途方に暮れていた。
「……恋をしたから涙が出るのだと、あれは言った。それは、恐らく、いつか失うことを知っているからだった」
 悲しい。辛い。身が引き裂かれそうだ。叫び出したくなった。怒りに吠え、壊してしまいたくなるほど、呪いたくなる。
「何故世界が邪魔をする。時が、運命が、物語がある?」
 この世界の一部である己たちの宿命と言えばそうなのかもしれない。しかし、どうすればそれを超えていけるのか分からない。今でさえ、これほどにも。
「失われることを最も恐れているのは、私だ……」
 アマーリエには分かっていただろうか。考えなかったことがあると思っているのだろうか。少しずつ、その手に咲いた花が美しくなっていく。次第に失われていくだろうと思っているときの、あの途方もない暗闇を。
 最初は、それが運命なのだと割り切った。
 次に、愛おしくなった。
 最後は、愛おしすぎて絶望を感じた。いなくなる、失われる、消えてしまう。命は、記憶は。永遠などどこにもないことを、誰よりも長く生きる自分が知っていた。そして、その永遠ではない長い時間は、どれほどの絶望になってしまうかアマーリエは知らなかったはずだった。あの娘は、自分がいなくなって、キヨツグがどれだけの時を過ごさねばならないのかと考えたことはないかもしれない。
「何故あれは言わなかった。全身で、誰かが側にいることを望んでいるというのに。側にいてほしいと、どこにも行くなと。束縛を何故しなかった。一言、助けてほしいと言えば、私は」
「……真様も、かつての天様と同じようにお考えだったんでしょう」
 シキが、言った。
「あの方は、悲しくない別れ方をしたかったんです。ご自分にも、天様にも、傷を残さない、美しい別れを」
 静かに目を落とした彼は、それはなんと悲しいかといった様子だった。
「……誰にも心を残さないように」
「兄上。あなたには方法がある」
 リオンが指を突きつける。
「あなたの運命に、リリスを使われよ。あなたはリリス、リリスはあなただ。あなたが恋したヒト族の娘は、リリスが恋したも同然」
 一瞬、透明な壁が割れる光景が浮かんだ。しかし、否定していた。
「……私情で兵は動かせぬ。私がリリスであるのなら、尚更」
 それは、ついにリリスがヒト族に宣戦布告することを意味するのだから。
 おやとリオンは笑う。
「少し言葉を飾りすぎた。冷静になられては困るが、さて、何故私がここにいると?」
 立ち上がり、促される。王宮の入口までやって来ると、シャドの明かりが霞むほどに、王宮の入口には、数えきれぬほどの灯火と人の群れがあった。群れなどという言葉では足りない。人の川が沸いて出たようだった。地の果てまで続く勢いで、無数に。
「やっと出てきましたか」
 足を少しだけ引きずりながら、若き長老が姿を現す。
「カリヤ殿」
「さて次の族長を探そうか、花嫁を探そうかと浮き足立つ皆々様を抑えるのには苦労しましたよ。でもまあ腑抜けたあなたを見ているのは楽しかった」
「これは、どういうことだ」
「命山から命令がございました。天様」
 ユメが進み出て膝を突く。掲げた書にさっと目を通すと、確かに滅多に見ることの出来ぬ命山の印が押されてあった。竜の書と呼ばれる、命山の意志だった。
「……真は」
 久方ぶりに音に出したそれは、情けない響きだった。それも、まだ名前を呼べぬ。
「真は、戻らぬと言うやもしれぬ」
 皆が沈黙した。最初に動いたのはカリヤだった。表情を消して近付き、襟首を掴んで、吐き捨てた。
「この、へたれ」
 初めて聞く罵倒に呆然とする側をカリヤは憤然と通り過ぎ、ざわざわと夜の風が人の声を運んで来るのだけが聞こえていた。
 へたれとは、へたばるからきているのだろうか。とすると、弱ったものとか、情けないものとかいう意味だろうか。つまり悪口か。
「…………」
 悪口など、初めて面と向かって言われた気がする。
 噴き出したのはリオンだった。遠慮なく笑えるのは妹だけだが、シキもユメも意味をなんとなく分かって俯き笑いを堪えている。
「あんなことをあなたに言えるのはあの人だけだな。『へたれ』か、今度使おう!」
 キヨツグは、思わず前髪を掻き上げていた。前が開けると、思わず笑いも漏れた。いつの間にか、季節は寒さを覚える冬に突入しており、額にもその風がかかるのだった。
 こんなに王宮は親しい場所だったろうか、と思う。政治の中心でなく、住居でなく、天や巫女や祖霊のいる場所でもなく。ただ役目をこなすために必要な位置ではなく。
 白い息を吐き出し、もうすぐ、妻と出会ってから二年の月日が立とうとしていることを考えた。白い息は、どこかの風に舞い上がった、白い薄布を思い出させた。舞い上がったそれと、箱から転がり落ちるように現れた豪奢な白い異国の衣装の華奢な娘。噛み締めた唇の指で触れた柔らかさは花びらに似ていた。
 いつだって幸福な記憶だったそれら。
 確かに、恋をして情けなくなってしまった。恐怖を覚えたり、怯えたり、行動が出来なくなってしまった。強くもなるが、弱くもなる。そんな自分を、アマーリエは知っているだろうか。
 それは心を与えるから。半身を見つけたからだ。
(会いたい)
 心の底から思った。もう一度、道を示してやりたいと願い始めていた。

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