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 季節は、いつしか春に入っていた。花盛りは過ぎ、草原には新芽が萌え、温かな色の大地が広がっている。空の色は淡く、雲の形は、上空の風にゆっくりと形を変えていた。
 ヒト族側に設けられた交渉の場は、境界の、何にも遮られていない剥き出しの大地だった。求めるものが同盟調印ではなく人物なのだから、過剰なものは必要なかった。キヨツグとその親衛隊、ユメとアイが並び、都市の使者たちを待ち構えていた。シャドや王宮から離れたことない一部のリリスは、向こうに高くそびえる都市の建物群に意表をつかれたようだったが、顔色をすぐさま改めて厳格な警備についている。
 開かれた境界の向こうには、リオンとヨウ将軍の統率するリリス軍が陣を敷いており、どこか見えないところで、モルグ族もがヒト族を待ち構えているはずだった。
 モルグ族との同盟は、意外にも相手側から持ちかけられたことだった。申し出はいつの間にかモルグ族の能力か、どの重臣の耳に入っていた。
 モルグ族はキヨツグだけに面会を求めた。彼らの思惑は今後の世界のことということだったが、知らなくていいと突っぱねられた。知っているのは、守護の地にいる者たちだけでいいと。
 リリスの成り立ちは守護者である。崩壊へ到るものの抑止力となるもの。
 周囲と比べて、そういったことの心当たりのあったキヨツグは聞くこともせず、自らの意志を通した。そうして、同盟はリリスの目的のため、なされた。
 妻と子の奪還。
 モルグの長はそれを面白がった。その朗らかさから、血なまぐささは感じられず、どうやら彼らは好戦的というより、戦わねば生きていけぬ種族であるらしかった。異能力を持つ彼らは、その力の行き場を戦いという外に求めるのだろう。
 車両がいくつも見えてきた。乗り付けてきた彼らは、揃って無個性な黒い衣装を着ている。色付きの眼鏡をかけた一部の者は恐らく警護の者だろう。キヨツグは腰から剣を外して、その場に横たえ、歩み始める。親衛隊たちはその後に続いたが、一定の距離を置いて立ち止まった。敵対の意志がないことを示したのだ。
 対して、都市側も警護を下げ、しかし近付いてやって来る者は多かった。一瞥しただけで分かるのは、第二都市のコレット市長、他三つの都市の三人の市長たち、何度か離宮に足を運んできたことのある顔を知っている市職員が数名と、義母アンナと、イリアだった。
 そこに求める者の姿はない。
 背後も訝しく緊張を走らせ、キヨツグは慎重に市長の顔を窺った。男の顔は隙なく整えられていたが、無表情であるために強ばっているようにも見える。
 そうしていると、ばたんと大きな音が響き、人々の向こうに一人の白い影が現れていた。
 白い靴に収まった細い足に、純白の裾が周囲を泳ぐ。黒よりも淡い髪は長い。小さな身体に、何か小さなものを大切に抱えていた。
「……エリカ」
 思わず、名前を呼んでいた。人を割るように進み出たアマーリエは、キヨツグの前に姿を現す。
 目の前に立った、光景も気配も、何も変わりはしないのに、こちらを見上げる目と表情は、水の流れのように清かで、今にも波紋を描いてこぼれてしまいそうだった。
「……久しぶりだな」
「はい。キヨツグ様」
 声も、ずっと望んでいたものだというのに、柔らかさを増して降り積もるようだ。
 その表情が、こちらの視線に耐えられなかったように少しだけ曇る。しかし不意に側で上がった声に驚いて目を見開き、ゆるりと唇が弧を描いた。
「……その子が」
 はい、と声に幸せが浮かぶ。よく愛しているのだと分かる声だった。
「男の子です。コウセツと名付けました。……虹の雪と、書きます」
 差し出された子どもは、キヨツグの腕に確かな重みを感じさせた。産着の中のコウセツは、突然抱え方が違ったことに目をぱちくりさせて、視界に映るキヨツグにきらきらした瞳を向けて、きゃあと笑った。思わず、頬が緩んだ。
「……良い子だ」
「元気すぎて困ります。どっちに似たんでしょうね」
 笑っていたアマーリエは、やがてその笑顔のまま、静かに告げる。
「この子には、まだ戸籍がありません」
 コウセツは、自分のことを話題されていることが分かるのかアマーリエに手を伸ばす。アマーリエはその手に指を握らせた後、するりと解いて、言った。
「リリスの戸籍に入れてください」
 見上げてくる目は、揺るぎなかった。
「キヨツグ様は怒るかもしれませんが、ヒト族とリリスの初めての混血だから、色々検査されました。この子は、ヒト族にない長寿だそうです」
 キヨツグは、彼女の背後に立つアンナとイリアを見る。彼女たちから肯定が返ってくる。
「ヒト族にいては幸せになれません。だから連れていってあげてください」
 続けて「私は行きません」と、問いかけようとするキヨツグに断言する。
「都市にはまだ新型感染症があります。コウセツから作られるワクチンは数少ないですが、今の私なら、大量生産が可能なんです」
「……コウセツには母が必要だ。……私には、お前が」
 それまで揺るぎなく見えていた妻の表情が、そこでゆっくりと滲むように崩れていく。俯き、再び顔を上げた彼女は、笑おうとして、失敗したような歪んだ表情になっていた。
「……あなたは何度も許してくれた。愛してくれた。同じだけの思いを返せたか分からないけれど、いつだって、私はあなたを思っています。恋っていうのは、生まれた愛を相手に渡したいと思う気持ちなんですね」
 次の微笑みも、やはり。
 キヨツグはたまらずアマーリエに手を伸ばす。そして、頭を胸に押さえつけた。
 お互いの温もりと、呼吸を感じる。側にあったはずの、心。望み続ける存在が今ここにあるというのに、アマーリエは言うのだ。くぐもった声で。
「……分かっているでしょう? 都市は……ヒト族はもう、この世界の支配者です。私が都市に残ることで、外交と言う形で都市はリリスを対等に扱うはずです。私が被験者として協力すれば、都市はリリスを無下には出来ない。コウセツがリリスにいれば、万が一にこの子が大事な役割を果たしてくれるかもしれない……」
 それは、万が一都市がリリスに手を出せば、アマーリエは自らを手にかけるという宣言だった。
 戦慄する。次に目が眩んだ。視界が赤く染まるかと思うくらいに、激しい怒りを覚えた。一方で青ざめるかと思えるくらいに頭の一部が冷たくなる。
「――馬鹿者!!!」
 震える声で、怒鳴りつけていた。
 アマーリエがあまりのことに身を強ばらせている。怒りに目が眩むあまり、キヨツグからは気遣いが吹き飛んでいた。手を挙げなかったのが上出来なほどに、目を吊り上げて肩を掴んだ。
「お前はいつもそうだ。一人で出来る、一人で出来るようになる、一人でなんとかしようとする。心配をかけてはならないと、そうやって生きようとする!」
 本当は、周囲を求めて止まぬのに。涙を浮かべることすら恥じ入るように、笑って『私は大丈夫』と言うのだ。
「それが、周囲にどんなに苦しく映るか知らずに! 分かっているのか、周囲が、大切な者に何もしてやれない苦しみを。一人にさせてしまう悲しみを!」
 その強さは厳しすぎ、寂しすぎた。こうして呆然と聞いているアマーリエは、やはり分かってはいなかったのだと、悟る。
 どれほどの過去で屈折しようとも、他人の優しさに気付かないのは傲慢だ。残酷でもあった。誰も、ひとりきりでは生きていけない。抱えている心臓はひとりでに鳴るが、心は、何かがなければ響きはしない。ただひとりで生きていくことは決して出来ない。
 キヨツグは宣言する。言葉を失った愛しい者を前に。
「私は諦めぬ。我が妻を。そして、我が子を」

   *

 怒りに身を震わせていたキヨツグは我が子を片手に手を挙げようとした。呆然とするアマーリエの前で、真っすぐに都市を示し、揺るぎなく。まるで、そこに進もうとするかのように。
「――全軍」

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