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 ヒト族に見送られて、リリス族とモルグ族は境界を去った。都市側の遠くの空を舞う報道のヘリコプターが、恐らく去っていくアマーリエたちを見送っていることだろう。液晶画面などを通して、見ている人々もいるはずだった。
 瞬水に乗せられたアマーリエは、腕にコウセツを抱いてキヨツグに抱えられて進む。前を見据え続けていたアマーリエを支えていた彼は、一度手綱を引いて振り返った。
 晴れ渡った空の下に、灰色の塔の群れが見えている。春の淡さに溶けるようだったし、萌える緑の鮮やかさに霞むようにも見え、そして、瞳を覆う涙に揺れて見えてもいた。
 思うことがある。
 芽吹く前の静けさ。夕暮れの静寂と、夜明け前の静寂。虹の掛かる空の下での穏やかさ。いつだって静けさは共にあり、心の音は聞こえていた。その音に正直になれば、いつだってアマーリエは選んでいたかったのだ。キヨツグと生きることを。
 彼と見た、いくつもの時間を信じていた。踏みにじられても、キヨツグを思いたかった。この人を想う心はいつまでも、胸に灯していたかった。
 世界や運命や物語があるとしたら、いつだってひとつしか選ばせてくれなかった。それはひとりであったから。
 ふたりなら、きっと。
 胸で囁いた途端、腕の中で声を上げたコウセツに、さんにんね、と微笑んだ。
「知ってますか、キヨツグ様……」
 優しく耳を傾ける気配がある。
「恋って、出来なかったことを出来るようにするんです……。だから人は恋をするのかもしれませんね。出来なかったことを、叶えるために」
「……降りるぞ」
 途端、キヨツグが言って下馬する。アマーリエは赤子を抱いて共に下りることになり、キヨツグがコウセツを受け取って抱いてくれた。父親と分かるのか、人見知りを全くせずに赤ん坊は何度も声を上げている。
 踵のない白いパンプスの、足の甲に草が触れる。いつか、ウェディングドレスとハイヒールでこの大地に降り立ったことを思い出した。今は、白いワンピースに白いパンプスと、白さだけが共通しているがあまり綺麗な格好ではない。それでも、大地は以前よりずっと親しくアマーリエを支えてくれた。
 コウセツをキヨツグが下ろす。
「……コウセツ、これが、大地だ」
 初めて触れる本物の自然に、赤ん坊はきょとんと座っていたが、やがて何を想ったのか、手を上下し始めた。動きは激しくなり、何か見えないものを掴もうとしているように見えた。彼の目に映っているものは分からないけれど、きっと何か良いものなのだろう。必死で、真剣だった。
 そうして、両手を地面に付き、身体を前に倒して四つん這いになる。きょろきょろと視線を彷徨わせ、やがて前方のアマーリエを見つけると、顔を輝かせた。
 その明らかな歓喜に、思わず、アマーリエは叫んでいた。
「おいで!」
 服が汚れるのも構わずコウセツはやって来る。
 これだけ長い距離を行くことは、彼にとって初めての冒険のはずだった。初めて行く道に歩みを止めない子どもを、アマーリエは待つ。
 それをキヨツグは見守っていたようだったが、やがて、一歩ずつ踏み出してやって来た。コウセツが辿り着いたのを見計らって、抱き上げる。急に視線が高くなってアマーリエの顔がきちんと見れたコウセツはご機嫌だった。
「コウセツ」
 零れ落ちた言葉がある。
「コウ。コウセツ……」
 それは、大切な記憶と、これから紡ぐ思い出のための名前。
 決して良い母親ではないから、取り戻したいがために言葉が溢れて止まらなくなりそうだった。コウセツは、アマーリエを母と認めて向かってきてくれた。都市にいた頃だって、泣いたり、笑ったりする声を、側にいるアマーリエに訴えていた。
 この子にはだめな母親しかいなかったけれど、これからは、父親がもっと愛してくれる。だから、いつまでも、どんなときも、うまく愛せるか自信がないけれど、この子にはあげたい。愛を、過剰なくらい、精一杯。
「……良い名を付けた」
 キヨツグが微笑んだ。
「……愛したのが、よく分かる」
 アマーリエは震える唇を引き結び、ぎゅうっとコウセツを抱きしめた。愛してると、もう一度囁いて頬を寄せた。
「見ろ、花が咲いている」
「早咲きのエリカだ」
 喜びの声がリリスたちから聞こえ、アマーリエは改めて大地を見る。桃色の花が、アマーリエの行く道に続いている。何度か見に行こうとしていた、自分の名前と同じ花を、今こうして、夫と子どもと共に見ている。
 だからこれは、恋の花だ。いくつもの花の上を、いくつもの風が渡っていく。天上には、途切れることのない光。
 灰色の都市や、草原の国や、深い森を見つめる、命。
 これからどのくらい生きるのか見当もつかないけれど、決して忘れることはできない光景として、強く焼き付けていく。例えこの先に世界の終わりが待っていようとも、この光は消えない。
 愛するということは、その思いを誰かに渡したいという気持ち。確かな重みと支えてくれる手を感じながら、誓いのようにアマーリエは言った。この重みを忘れない。生まれたものは、失わない。
 強い風が吹いたので、髪と裾を押さえた。きつく目を閉じていたのを開いたさきで、花びらが無数に巻き上がっていた。視界が、色鮮やかな花びらと、優しい空の色に染められていくように思えた。美しい世界だと、何度も失望したり絶望したりしたのに思えるのは、生きているからだった。
 キヨツグが見つめている。コウセツが腕の中で笑う。リリスたちがみんなで笑って見守っている。アマーリエが立っているのを、やってくるのを待っている。
 残りの長い時間を――途方もない物語を、誰かを想ったり、恋をして生きられるのなら、きっと、幸せなことだった。
 手が重なる。思いが、温もりが、重なっていく。
 花の舞う空、光集う場所で。
 生きていく。恋をしながら。

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