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「嘘、でしょ……」
 青ざめた娘を悲痛な面持ちで見るのは母だけだ。しかしそれでも母の心配げに名前を呼ぶ声が空虚に聞こえる。縋り付くように見た父は、冷静な光を瞳に宿して揺るぎなく娘を見据えている。
 ヒト族とリリス族の同盟調印の証としての結婚。
「それ……それって」
「政略結婚だ」
 頷いた父はアマーリエに告げる。物語のような言葉。
「せいりゃく、結婚……?」
 分かっていたはずなのに疑問系で繰り返してしまう。新暦を数える都市文明には、ひどく時代錯誤に聞こえた。
 そんなものとは無縁だと思っていた。存在は知っているしどういうものかも理解がある。だが確かに家柄を重んじる風潮が上流階級にはあるが、そういったものはオールドファッションだと考えるような育てられ方をアマーリエはしてきた。人の心を踏みにじるようなものも、そうして守るようなものなんてどこにもない。ない、はずだった。
 思った瞬間、手のひらをテーブルに叩き付けていた。
「私を売ったの……パパ!?」
 食器が耳障りな音を立てる。何も考えず浮かんだことを、怒りに任せて部屋中に響く声で叫んだが、ここがいつも通される最奥の部屋だと思い出す。客はおろかウェイターも呼ばなければ決して来ない。誰もここで話すことを知らない。
 すっと落ちるような感覚があった。
「私を、道具にするんだね」
 言うと、肩にずしんと何かがのしかかった。違う、重いのは身体そのものだ。膝が震える。唇がわなないて、息が苦しい。酸素が回らなくて頭がうまく働かない。それでも胸がずっと叫んでいる。嫌だ嫌だ嫌だ。政略結婚なんて嫌だ。理不尽すぎる、ひどすぎる。父が娘を道具にして使うなんて。
「私はいや」
 拒否を口にする。
「そんなこと、許せない。納得なんて、出来ない」
 強く言いたいのに言葉が震えて途切れる。
 父はただただ娘を見つめている。絶対に覆せないのだと雄弁に語る表情と空気。市長としての表情と言えばそれらしかったし、でもアマーリエにはひどく悲しげに映った。
 荷物を全部手に取ると部屋を飛び出した。鞄を机にぶつけたため空のグラスが倒れて、わずかな雫をテーブルクロスに垂らしながら、床に落ちて粉々に砕ける。そんな悲鳴のような音を後ろに聞いたが、構わず店を飛び出した。
 意外にも誰も追っては来なかった。政略結婚の花嫁らしい自分に、てっきり警護とは名ばかりの監視がついていそうな気がしたのだが、商業区駅前に行っても止めるものは誰もいなかった。
(……逃げよう)
 まず考えたのは逃げるということだった。第二都市に潜伏するか他の都市に移るかを考え、しばらくは身を隠しておこうと、最初にやったことは銀行で貯金を引き出すことだった。お金がなければ何も出来ない。そしてその足で来た道を引き返した。
 商業区は都市の中で広く区画を取っている。ここを目的に他都市からの観光客がやってくるため、ホテルも点在している。この地区のホテルを点々として、誰かと連絡を取ろう。アングラ系の人間と関わりがある人間の知り合いであるような誰かが、遠いけれど大学の知り合いで何人か心当たりがある。その誰かを頼って、都市に出入りできるゲート通行証を偽造してもらう。甘やかされてきたためお金は十分すぎるほど持っていた。
 冬の都市は寒い。人造石の道なりは冷たい風を好きなだけ巻き上げる。コートの襟に首を竦めながら、髪もコートも風にもてあそばれただ黙々と歩き続けていると、段々泣きたくなってきた。出来ることなら今ここでうずくまって泣き叫びたい。
 車道に飛び出して車に轢かれてしまおうかと考えた。どこかビルの屋上に上って飛び降りてしまおうか。でも、死、は方法を考えるだけで、実行しようという勇気は出なかった。当てつけのような気がしたし、こんな凍えたまま消えてしまいたくなかったのだ。
 誰かに会いたかった。それはオリガやキャロルやリュナやミリアでもなく、ノルドやエリーナでも、告白してくれたルーイでもなかった。誰か側にいて温めてくれる人。言葉を重ねるのではなくて、黙って肩を支えてくれるような人。
 多分、きっとそういう人を、恋人と呼ぶ。
 ビジネスホテルが目に入り、入り口の明かりの程度から善し悪しを判断して、目についたそこを選んだ。ロビーは明かりが煌煌と灯っているものの人気は無く、カウンターにも従業員が一人電話を応対しているだけで、現れたアマーリエの姿を認めて新しい従業員が現れるわけでもない。
 電話が終わると、その人と目が合った。撫で付けた茶色の髪と縁なしの眼鏡に清潔感があり、微笑んでくれたので安心して、一泊したい旨を告げる。名前と住所と電話番号を書かなければならずペンを握って尖を揺らしたが、母の名前と住所を記した。電話番号は自分の携帯番号を確かめるふりをして母の携帯電話にしておく。書いた内容を特に確認するわけでもなく、ホテルマンはにっこりと笑うと部屋鍵を渡してくれた。
「明日の朝食はレストランでお食事できます。今日の夕食はいかがなさいますか?」
「ええと……いえ、いりません」
 正直ほとんど食べていないが、食欲がなかった。
「温かいお飲物がございますよ? 当ホテルはココアが自慢でございます」
 ぱちぱちと瞬きしてホテルマンを見る。いらない、と言ったのに何故薦めるのだろうか。
 すると彼は穏やかに笑い、指し示すように指を振った。
「冬の寒さにはきっと心も凍えてしまうのです。そんな時、温かい飲み物が心を優しく解きほぐしてくれるのですよ。外に出るとココアが飲みたくなることはございませんか? 実はそれは自然なことなのです」
「…………」
「おや、受けませんでしたか」
 飄々と言う方がおかしくて噴き出した。それに受けた受けたと満足げなホテルマンに、アマーリエはココアを頼んだ。部屋に持っていくと言うのでお願いする。若干呆気に取られてしまって、苦笑に近いのも確かだったが、優しさという形が現れた気がして心が和んだ。
 部屋はベッドでぎゅうぎゅうといった具合の小さなものだ。荷物を下ろしてコートを脱ぎ、靴からスリッパに履き替えるとなんとなく楽になった。
 そうこうしているうちにドアがノックされココアがやって来た。従業員はさきほどの彼ひとりではなかったらしい。持ってきてくれた笑顔の可愛い中年女性の従業員に礼を言って、ふとチップのことを考えたが、彼女はさっさと去ってしまった。そういうルールがないところらしかった。
 ベッドに腰掛けながらココアに口を付ける。チョコレートの風味が強い。少しの苦みが心地よく、甘さが胃に染み渡っていくようだった。皿に添えられている花のように折り畳まれた紙ナプキンがかわいい。ちびりちびり飲んでいると、音の無さが気になってテレビを点けた。
 ニュース番組を付けてみる。政治に強い局をかけてみたが、リリスとの同盟のことは全く触れられない。完全に伏せることは可能なのだろうか。それとも、さきほどのあれは嘘だったのか。
「嘘だったらどんなによかったか……」
 呟きでココアの表面が揺れる。
 母は多分事前に聞かされていたのだろう。父は市長の一人として決定を下した。その時何を思ったのだろう。思い出す『私の天使』の言葉が空々しい。結局、父にはそれまでの娘だったのだろうか。
 両親が離婚したのは六歳の時だ。母は、医者としての仕事がしたいのにアマーリエに手を取られるのが嫌で成人まで待てずに離婚したのだと言っていた。正直が母の美徳であると思うので、言葉のきつさは気にしてはいない。愛情は持ってくれていて、一年に何度か会っていたし、最近になって同じ医者になりたいと言った娘が、診療所に度々顔を出すのを追い返すことはしなかった。父はアマーリエを引き取ったものの政治家としての仕事が忙しく、祖母に娘の世話を任せた。しかし生活に不自由した覚えがない。父にとって大事な休日には遊びに連れていってくれた。
 両親の愛情に疑うところはないと思っている。だが政略結婚なんて言葉が降りかかってきたのは、両親にも避けられないものが迫っているのだ。ならばアマーリエが逃げることは正しいのか。
「……正しいとか正しくないじゃなくて、私個人の問題だよね」
 私を尊重してほしい。私を大切にして守ってほしい。両親に求めるのはそれだから、あの席で怒りと絶望があったのだろう。両親が娘を守れないのなら、娘は自分で自分を守るしか方法はない。
 決意の裏に忍び寄った考えがあった。もし、私が逃げ切れば、一体両親はどうなってしまうのだろう。都市は、どうなってしまうのだろう。
 考えるとぞっとした。いつも見えないはずの未来が、確かな崩壊のイメージとして脳裏によぎったのだ。
 震える身体ですっかり冷えてしまったココアを飲み干すと、すぐに温かいシャワーを浴びてガウンを羽織り、ベッドに入った。
 閉じた目、暗くなった視界の中で誰かの声がする。あなたと引き換えに助けられる世界があるなら、どうするのか。助けなければならないと分かっているはずなのに答えはまったく分からなかった。だからぎゅうっと身体を小さくして、肩や腕が痛くなるくらい小さくなって眠った。


 夢の中で、ロストレコード時代に残されたという美術品の絵を見ていた。
 どこまでも緑が広がっている。駆けていくのは美しく輝く純粋馬や、角を持った白馬、羽毛の馬。空を行くのは尾の長い鳥だ。あの鳥は草原に住み、たくさんの色彩を持ち、群れを虹のようにして羽ばたくのだという。
 いつの間にか絵の中に自分がいた。絵の具で塗った景色ではあったけれど、あの見えない向こうはどんなところか考えると身が竦んだ。どんなに美しかろうと、そこはアマーリエの故郷ではない。
 そこに座ってしまう。感触はない。風も渡らない。絵の具の色だけが風に揺れるようにゆらゆらとさざめいている。呼ぶ声がするがアマーリエの名ではない。
 誰も迎えに来てはくれなかった。


 目が覚めると身体のあちこちが固くなったように痛んだ。シーツもベッドに入ったときのほとんど皺のないままで、よほど縮こまって眠っていたらしい。着替えをし、髪を整え、軽く化粧をして一階のレストランに向かう。ちらほらと人がいた。誰もスーツ姿だ。商業地区をメインに活動するビジネスマンなのだろう。
 朝食はベーコンとトマトとレタスを挟んだ大きなベーグルだった。こんがり焼けていて温かい。キャベツのサラダにクリーミードレッシングがかかっている。コーヒーは飲み放題だと言われていたので二杯飲んだ。頭をすっきりさせたかったからだ。いつもの朝はトースト一枚に温かい紅茶一杯だが、苦みのある方が気が引き締まる気がしたのだった。
 朝食を終えると荷物をまとめ、忘れ物がないか確認する。そうしてチェックアウトに行った。
 カウンターに立っていたのは昨日の男性だった。夜の灯りの中では上品な紳士という感じがしたが、朝の光の中で見ると気のいいおじさんという風情だ。アマーリエが近付くとにっこり笑って鍵を受け取ってくれた。
「よくお休みになれましたか?」
「はい。ありがとうございました」
 本当はしばらくここにいたいのだが、足がついてしまう気がしたので行かなければならない。まさか目の前の娘が逃亡しているなんて思わないであろうホテルマンは、笑顔を深くして頷き。
「いつでもいらしてください。冬の寒い日に、当ホテルのココアを思い出していただければ幸いです。いってらっしゃいませ」
 ここはずっとここにあるというような確かさで送り出してくれた。外に出れば青空が広がっているものの昨日の夜よりも痛く感じられる風が吹き付ける。しかししばらくは、どんなに寒くとも行けるところまで歩いていけそうだった。

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