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 おかしい、と感じ始めていた。日曜の夜、教育区のホテルに潜伏しながら、どうして追っ手が来ないのだろうとアマーリエは苛立ちにも似た焦りで考えていた。
 美術館や博物館、図書館などが建てられている教育区は、眠らない行政区や商業区に比べて、明るさはささやかで柔らかい。灯りの色も違和感の少ないオレンジだったりして、暗闇の中に建物を浮かび上がらせている。四階の部屋から見えるのはそれくらいで、地上の道にはカップル以外の人影は見当たらない。
「私が逃げるのを、取るに足らないと考えてるのかな……」
 確かに十代の小娘一人が出来ることなどたかが知れている。戦う相手は都市、世界そのものだ。勝てるわけがない。ならば今は猶予期間なのか。
 ときどきエレベーターが動く音がするくらいで部屋は静かだったが、テレビを点ける気にはなれなかった。政治番組も笑い声ばかりのバラエティも、見たくはない。
「……明日になったら大学でポールと落ち合える。そこで偽造通行証をもらって、第二都市を出て行く……」
 ふと見た黒いブラウン管に自分が映っていてぎくりとした。液晶でないテレビはアマーリエを映し出す。それでいいのか、知らなければならないことがあるのではないか。この黒い箱に映るものを見なければならないのではないか。声はするけれど、そこにあるものが何なのか分からない。しかし確実に恐ろしく現実であることは分かる。
 引き寄せられるようにテレビを見つめ、電源に手を伸ばした。
 軽快なメロディが聞こえたのはその時だった。はっと弾かれたように手を引っ込めて胸に抱き、歌を流して振動する携帯電話を見た。設定している友人からの着信、メールだ。
 手助けを依頼した、ポールからだった。明日一限目が終わったら待っていると書かれてあり、返信はしなくていいということだったので、電源を切ろうとした。が、その後続けざまに大学の友人たちからメールを着信したので、その返信に追われた。
 他愛ない話題に答え、出先だからと断ってやり取りを終える。
 しんとした部屋で着信メロディが耳鳴りとして止まないのを感じ、小さくなりながら、自分は何をしているのだろうと考えた。



 アマーリエの大学の月曜は一限目から授業が詰まっている。担当教授の授業だったので、この授業だけ出て、しばらく休学することを伝えておこうと考えた。必要書類は後で送るからと言っておけば、なんとかしてくれる頼もしい教授のはずだから。
 いつもの席に座っていると、続々と知り合いが集まってきた。いつも昼食を取るメンバーの中でこの授業で一緒なのはオリガだけだ。颯爽とアマーリエの席に腰を下ろした彼女に挨拶を返しながら、なんとも言いがたい申し訳なさに駆られる。多分、明日にはもうここにいないのだ。
「日曜彼氏のバンドがライブでさあ。せっかく見に行ったのに出演する他のバンドと本気で喧嘩してんの。おめーらどっこいどっこいだっつーの」
「演奏はうまくいったの?」
「まあそれなりにね」
「へえ? でも喧嘩は負けたんじゃないの。あなたの彼氏顔腫らしてたわよ」
「あれはこっちがぼっこぼこにしたの」
「あたし二限当たるのよぉ、助けてぇあの先生めちゃくちゃ怖いのー!」
「今からやっておけば大丈夫だって。ほら、授業中にもちょっとやっておけばいいじゃない」
「あたしもアマーリエも教えないからね」
「オリガの意地悪! アマーリエ助けてー」
「あ、先生来たよ」
 教授が教壇に立っても教室はまだ騒がしい。マイクを持った教授が挨拶を述べて、始める旨を告げる。出席を取り始め、応じる声があちこちから上がった。何人かは代返の馴染みになった声が聞き分けられる。
「……あれ?」
 隣で上がった声にびくんとなった。オリガが何を言うか分かったのだ。
 アマーリエの名前が、呼ばれなかった。
「呼ばれなかったわよね? アマーリエ」
「う、ん……」
 名前を呼び続ける教授は気付いていない。てきぱきと出欠のチェックを入れ、出席簿を閉じる。教授が目を上げた時、すっと手を挙げたのは隣席の友人だった。
「はい、なんですか?」
 オリガに視線で促され、アマーリエは慌てて声を上げる。
「名前を呼ばれませんでした」
「ああ、それはごめんなさい。出席番号と名前を言って下さい」
「三五八の〇二二、アマーリエ・E・コレットです」
 出席簿を捲っていた教授は、そこで、む、と何か考える風になった。顔を上げ、アマーリエを見る。
「コレットさん、少しこちらに」
 マイクを置き電源を切るぶつんという音が響き渡る。教室内の空気も一気に緩んだ。呼ばれたアマーリエは席を立ち、教壇に向かう。何故か、一歩一歩が心もとなくなってきた。段々と帰ることのできない場所に向かっているような。
 四角い顔の老いた教授は、不思議そうに目を細め。
「コレットさん。今朝事務局から連絡がありましてね。あなたの親御さんから、退学届が出されたので受理したという」
 ――目の前が真っ暗になった。
 アマーリエに気を遣って、教授は声を潜める。
「特に悩んでいることはない様子だったし、いきなりだったので驚いたのですが。ご両親と何かトラブルですか?」
 心配してくれる教授に真っ白な頭を振る。頭は真っ白だが視界は暗い。顔を上げられない。足下にまで闇が降りてくる。でも、だめだ。顔を上げなければ。巻き込んではいけない。これは個人の問題だから、こんなことをするのは父しかいない、私が解決しなくちゃ。吐き気に似たものをこらえ、顔を上げた。
「だ、い、じょうぶ、です……ちょっと行き違いがあったんだと、思います……」
 笑う。何でもないことだと。道が消えてしまっても、まだ自分は都市にいるではないか。必死に表情を取り繕い、自身に言い聞かせる。
「お手数を、おかけしました。失礼します」
 密かに歯を食いしばり急ぎ足で席に戻る。教科書筆記用具すべて鞄に押し込み、鞄とコートを手に席を立つ。
「アマーリエ?」
 オリガが不審そうに綺麗な眉を寄せてこちらを見る。後ろの席の友人たちも戸惑ったように、戻ってきたアマーリエを窺っていた。
「どうしたの、何があったの」
「大丈夫。私、ちょっと行かなきゃならないから」
「アマーリエ!」
 質問を受け付けずに、振り返りもせずに教室を出た。怒ったようなオリガの声が追ってきたが、教授が喋り出すとスピーカーの音に紛れてしまった。
 コートを羽織り、ポールとの待ち合わせ場所に向かう。二階談話室のテレビ前。談話室にはぽつぽつと時間をつぶす生徒がいるが、肝心の相手はまだいない。もしかしたら学校にはいるかもしれないので、早く着いたことをメールで知らせておく。
 椅子に座ると、どっと疲れが出た。三日間のホテル泊まりは、いつも自宅に一人の自分でも精神的な疲労をもたらしていた。それに加えて退学届ときた。こうなると自室に入ったらオートロックがかかるかもしれない。携帯電話が解約されていないのが不思議だ。これで位置など分かる技術はないのに。温情だろうか。
 あれだけ未来が分からなくて曖昧だと思っていたのに、その道を辿るための『大学で学ぶこと』にしがみつこうとしていた。今の自分に、未来へ続く道のしるべはこれだけしか持っていなかったのだ。ひどく絶望した。
 なんて、弱い。
「わ、すげー、これ」
 談話室中の目がその声に導かれてテレビに集中した。同じように顔を上げたアマーリエは、ゆっくりと血の気が引いていくのを感じた。
 テレビはそこに国境、境界と呼ばれる場所の光景を映し出している。爆発の手があがる。その振動で映像が若干乱れた。視点が切り替わり銃を持った防衛隊員たちが前面へ突入していく。そこに再び爆発。
 モルグとの交戦の光景だった。
 戦争。戦い争っている光景はブラウン管を通して映し出される。それだけなのに決して自分の元には来ない現実として映る。談話室の空気はそういうものだ。
 なのに、アマーリエにはリアルだった。モルグに向けての対抗や牽制のための同盟。そのための政略結婚が降りかかっている身には。
 背後から肩を叩かれた。
「っ!」
「わっ」
 驚いた顔をしたエリーナが立っており、自分が思わず振り払う勢いで動いたことに気付く。どうしたらいいのか分からずぼんやりした声で名前を呼んだ。
「エリーナ先輩……」
「どうしたの。すごい顔してるよ」
 肩の力が抜けそうになる。だが、ぐっと胸を張って首を振った。どうしたんですかと問いかけることもした。
「いや、お腹空かせた猛獣並みの必死さでテレビ見てるから。おはよう」
「おはよう、ございます……」
 うんと満足げに頷いたエリーナはやがてテレビに目を映し、ふうっと息を吐いた。
「すごいね。久しぶりに派手だ」
「…………」
 何と答えたらいいのか分からないので曖昧な表情になった。エリーナは間延びした声で、私さぁ、と言い。
「大学辞めて、あそこ行くんだ」
 見つめ返したエリーナは笑っていた。冗談だと一瞬思った。なのに更に言葉は重ねられる。
「まあ、前線じゃないけどね。後方支援部隊で治療に当たるんだ。死ぬことはないと思うけど、治療師としては戦場かもね」
「…………まさか、どうして!?」
 遅ればせながら理解が襲い、悲鳴に近い声を上げて、椅子を蹴って立ち上がる。生徒たちがこちらを見るが触れてはならないと感じたのか、ちらちらと窺うに留まっている。
 エリーナはその様子と色を失ったアマーリエに苦笑したが、揺るぎなく答えてくれた。
「私はずっと何が出来るのか考えてたの。で、ここで勉強してる間に救えないものがあるって感じたら耐えられなくなった。偽善だとか傲慢だとか、あなたは言わないだろうけど自分で分かってるの。でも、自分を捧げて助けられるのなら、助けたい」
「でも戦場に行くなんて」
「確かに他にも場所はあるけどね。でも、約束があるから」
「約束……?」
 明かすつもりはないのか、エリーナは黙って微笑むだけだった。
 身近な人が戦場へ行く。異なる一族として人間同士が戦っている場所へ。死なないだろうと楽観視などできない。何故ならそこは戦う場所だからだ。死が存在して濃く漂う場所。この世のどこにも死がないところなど存在しない。
 エリーナだけではない。傷付く者、死んでいく者はいる。あのテレビの光景は現実だ。戦場へ向かう者は、今このときも存在している。
 膝が崩れそうだった。胸を掻きむしりたい衝動に駆られるほど、ひどい悲鳴が聞こえている。わなわなと震える唇からは今も叫びが洩れ出しそうだ。目を逸らしていたものを突きつけられた。
 そのことをお前には止められるかもしれないと、告げている。
「……戦争が、終われば……いいんですか……?」
「終われば、いいね」
 終わることを信じていない口ぶりだった。
「あなたに別れが言えてよかった。あなたはちょっと自立心が強すぎるところがあるから、少し、人に預けることも知りなさい。それが私のアドバイス」
「先輩……」
「じゃあね、アマーリエ。ありがとう」
 背筋を伸ばして去っていく。見えなくなる。もう二度と会えない気がした。何故ならその背中は自分の道を選んでしまって、もう変えない、振り返らない強さを持っていた。
 アマーリエの膝が崩れ、椅子の上にへたり込む。その間にも好奇心で回されたチャンネルに、さきほどの光景が繰り返して映される。呼吸が難しくなり大きく喘いだ。見たくない。見たくなどない。だが本当に止められるのは政策しかないのだ。
 この身を捧げれば戦争は終わる、かも、しれない。
 一人が自分を選んだことで、死んでいく者は積み重なっていくだろう。だがただ一人が犠牲になれば残りの全ては救われるだろう。
 そう考えた上で、アマーリエは自分を取れるか。
(できるわけ、ない――)
 完全な真実、自分に対する理解は、指の末端まで凍えさせるほど絶望と虚脱をもたらした。顔を覆った。涙が出る気がしたが、それも奪われたようだった。朝の声に満ちた学校内で、そこだけ光の射さない場所がある。声もなく、沈む。
 自身の幸福を取るか、ヒト族の平和を取るか。どう考えてもアマーリエに許された選択肢は、ひとつしかなかった。

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