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 どこかの底のような低い風の音が耳につくぐらい静かで、寝返りを打った先の時計の針は午前三時を示す。胸が騒いで目が冴えていた。ベッドから出て机の上のオーディオプレイヤーを手に取り、シーツの中でイヤホンを耳に入れた。お気に入りの音楽を流しリラックスを言い聞かせるものの、落ち着きなく右を向き左を向き足を抱えてしまう。
 もうすぐ都市を出て行く。そしてもう一つ、携帯電話が見当たらないという不安があった。
 ミリアが来たあの日、携帯電話はどこかへ消え失せてしまった。まるで神様が取り上げたように綺麗に。真っ青になる勢いで部屋中探しても見当たらない。ビアンカたちに携帯電話を知らないかと聞いたのだが、彼女たちはさあと芳しくない返事だった。電話をかけてみましょうかと申し出てくれたが、運悪く電源を切っていたことを覚えていたので諦めることになった。何故なら知っていたのだ。もう使うことはなくなることに。
 いくつかの保護メールや、たくさんのアドレスはもちろん大切だった。だが当たり前で取るに足らない話題のメールも、内容を覚えていなくとも存在を主張する。ダウンロードした音楽はお気に入りばかりで、携帯電話から鳴る音楽が好きでたまに聴くほどだった。
(もう考えるなってことなのかな……)
 都市との繋がりを切るように消え失せた。全部。アマーリエにはもう行くところがない。受け入れてくれるところもないだろうと思わせるほど、きつく寂しい夜。
 ベッドから、部屋から出てリビングに向かった。オーディオプレイヤーは寝間着のポケットに入れておく。裸足でぺたりぺたりと歩き、扉を開けると暗闇に沈む部屋が広がった。ビル群の明かりでカーテンの向こうが仄かに明るい。この光を見ることはなくなる。最後の夜。
 ひとりだ。母は遠く、父は帰ってこない。監視のビアンカは最後の夜ということで気を利かせて管理人室で眠っている。両親に会いたい気もしたが、会いたくない気持ちもあるのは自分が弱いからだろう。きっと両親に会えば無茶苦茶な言葉でなじってしまう。そして向こうを傷付ける。自分は後悔を抱いて都市を去る。そんな思い出は作りたくない。
 それでも、誰もいない部屋というのが、こんなにひとりの音を響かせるものなのかと新しい発見だった。子どもの頃から暗闇は怖くなかったが、起きている時間は長く明かりも煌々としていたから、まったく気付かなかった。膝を抱えて頬を寄せる。自室のベッドで眠るように自分の温もりを胸に抱く。多分、向こうでもこうしているようになるのだろう。
 イヤホンからロックの微かな音漏れを部屋に響かせた夜が、じきに明けた。


 早朝から、市庁舎に極秘裏に連れられ、前日まで磨き上げられた身体にウェディングドレスをまとわされる。肌の張りも体つきも見違えるようにはなったが、鏡の中の自分はひどく顔色が悪かった。
 ウェディングドレスはオーダーメイドのもの。第三都市の人気デザイナーが作ったのだという。注文をつけることもできたが、アマーリエはする気もなかった。望まぬ結婚に望むドレスを着てどうするのだと投げやりな気持ちがあったのもある。それでもドレスは純白で心が和むほど美しくはあった。膨らみは抑えたスレンダーなもので、肩は剥き出しにしてあり、裾は動くと慎ましく泳ぐ程度だ。手袋は指まで覆わず肘の辺りまでしかなく、手首には宝石が縫い付けられている。振り返ったトルソーには周囲に白い花の刺繍を施したベールがかけられていた。あれを着けて都市を出て行くのだ。
 着つけはそういうことに手慣れている市職員によって行われた。彼女らは無言で己の仕事をこなし、化粧を終えていたアマーリエの耳にパールのイヤリングとネックレスをかけた。その後、アップにした髪に白い花を飾っていく。その上からふわりとベールをかけ、仕事は終わりとばかりに数人が出て行った。
 指先が、冷たい。足も心もとない。踵のある靴に慣れていないことはないが、不安定な気がする。緊張していた。多分これまでにないくらい。
 話し声が聞こえて顔を上げる。鏡の花嫁も悲壮な顔をしている。
 扉がノックされ、部屋に残っていた職員がドアを開けた。
「――これは」
 初老、中年のスーツの男性たちが立ち尽くした。その中の誰かから息を呑んだような言葉が洩れ、そのまま居心地の悪い沈黙が場を支配する。驚きと戸惑いに少し息を呑みながら、アマーリエは彼らの顔を確かめた。見知らぬ、が、見覚えがあるような気もする。
「いや……これはこれは。美しい花嫁で」
「……うん、コレット市長にこのようなお嬢さんがいたとは」
 四角い顔の男性と丸い腹の男性がお互いに囁きを交わす。
 入ってきた三人の内、一人強い眼光を持つ男性は髪に白いものが混じって顔の皺も深く、最年長に見えた。その人がすっと前に出てアマーリエのところで一礼する。握手でないのは皺や汚れをつけないためだろうか。
「初めまして。第一都市市長、ボードウィンと言います」
 あっと声を上げそうになった。見覚えがあるはずだ。テレビで見る、開拓者の血筋を引く厳つい顔。
 後ろの二人も慌てて挨拶をする。四角い顔で背が低く、笑顔で社交的そうに見えるのが第三都市のエブラ市長、頭の薄い丸い男性が第四都市のロータス市長とのことだった。
 都市トップの面々にアマーリエは目眩を覚える。同時に政略結婚という言葉がちらついた。自都市を離れてまで確認に来る。これは政略結婚。塗られた唇を噛み締めたい気持ちになった。なのにどうして、ここに父がいない。
「ご令嬢には感謝しています。あなたの尊く美しい決意は、私たちに希望を与えてくれました。感謝や尊敬以外の言葉はありません。本当に、ありがとう」
「いえ……」
 アマーリエは目を逸らす。簡潔なものでも美辞麗句は欲しくない。ボードウィンにもエブラにもロータスにも、直系ではなくとも縁戚に娘がいるはずなのだ。それでも選ばれたのは都市市長の娘であるアマーリエだ。彼らはアマーリエを犠牲に立てて自身のものを助けた。
「いやしかし本当に美しい花嫁だ。確か十八と聞きましたが」
「もうすぐ、十九になります」
「遅生まれですか。私もそうですよ。ごらんの通り小さいでしょう? でもお嬢さんは小柄ながらもすらりとしたたおやかな風情で、とても麗しい」
 エブラは第一印象の通り過剰な人物らしい。ありがとうございますの言葉が喉に張り付いて、微笑むに留まってしまう。
「あなたの幸福をお祈りします。どうぞ……お忘れなく」
 エブラの頬に皺が浮かぶ、にやりとした笑い方が気になった。何事か呑み込んだ言葉も。だがノックの音に気をそらされる。
「失礼します。準備が整いました。どうぞ」
 身体が跳ねた。息を飲み、視線をさまよわせる。入ってきた女性たちにドレスの裾とベールの裾を取られ、ようよう歩き出した。
 しんとした市庁舎高層ビル。複数の靴音を響かせる廊下は、まだ出勤時間には早いため人の姿はない。コンクリートの柱。汚れの溜まった蛍光灯。古くて傷だらけの床。慣れ親しんだ覚えのない建物のひとつひとつが未練に繋がる。
 誰も祝福しない結婚は政策と打算と利益を見た契約。納得などしていないし、できるはずもない。けれど前へ足を進めるのは。
(私に選択肢はない。だからだ)
 背後からここまでやって来た道が崩れていく、追い込まれた道は一本道で歩き続けるしかない。それと似ていた。
 都市が用意した高級車の前まで来る。両側には防寒の毛皮のコートを持った市職員ともう一人が付き添った。だがその直前、アマーリエはその顔を見つけた。
「……アマーリエ……」
 ずっとここで待っていたのだろうか。父の吐く息は白くない。唇を引き結んで歩み寄った父は、スーツ越しにも分かる冷えた身体でアマーリエを抱きしめた。そして、アマーリエは父にしがみついた。父も掻き抱くように背に手を回してくれる。耳元で、切ない声が囁いた。
「アマーリエ。これはただの契約だ。婚姻という形でリリスの力を借りればモルグは抑えられる。だからモルグとの争いが終わるその頃にはお前を帰してやれるはずだよ。だからお前は、心安らかでありなさい。決して命を絶ってはいけない」
 うん、うん、と幼い子どものように頷いたものの涙は出なかった。父の言葉は嬉しかったが、アマーリエに考えられる可能の範囲を超えていたのだ。もう二度と帰っては来れないことは、分かっていた。唇を噛み締め深く息を吐く。
「……行ってきます」
 紡いだ声は張りつめた弦の音ようにか細い。崩れていく道を振り返ることは出来そうになかった。

   *

 走り出した車を見送っていた市長たちは、車が見えなくなると散り散りに解散を始めた。前日から集ってきていた他都市のエブラとロータスは、戻る前に観光でもしよう、いや姿を見せてはならないのだからだめだ、と呆れた会話をしていた。くだらない、実に。
「不用意な会話は慎むように、ジョージ。君の娘から情報が漏れかねん」
「その辺りはうまくやっている。気付かれてもいないよ、イグニス」
「どうかな。君の愛娘の溺愛ぶりは音に聞く」
 ボードウィンにはからかっている節があった。しかし信頼されているが警戒もされていることがジョージには分かる。ジョージは十年前市長職に就き、三度目の任期に入っている。力がなければ出来ないことだ。それに、気付かれているのか、自分はすでに政策を一部変更している。
 ボードウィンは肩を叩いた。
「空気の読めない言葉を吐くのは勇気がいったよ。楽しくはあったが。そこまでして自分を悪者にしたくない、か」
 当然だろうと首を傾げる。悪い笑みを浮かべた第一都市市長はふんと鼻で笑うと背を向けた。
「まあいい。君の案だ。指揮官は君。抜かりがないよう頑張りたまえ」
 去っていくボードウィンにまた食事でもとにこやかに声をかけ、姿が見えなくなるとジョージは真逆の方向へ歩き出した。駐車場から外に出て行く。人はいない。警備員も全員下がらせてある。
 冬の晴れた空だった。見上げた市庁舎からは人が飛び降りたくなりそうなほど強い風が吹いている。普段浮かべている笑顔をはぎ取り、ポケットに手を入れて予断なく視線をやる。その方向には東ゲート、その向こう、いずれ手に入れる土地があった。

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