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 通勤を始めた人々の車とは逆方向に、アマーリエを乗せた高級車は通常なら決して出ることのないゲートに向かっていく。寒くないかと聞かれたが首を振った。頬は熱いが身体は寒いという、体温調節がうまくいっていないらしいが、このまま暖かくすれば熱で卒倒しそうな気がする。
 あらかじめ通知してあったのか手間を取らずゲートが開いた。金属製の扉が、上に赤いランプを光らせて、ゆっくりと左右に押し開かれていく。足下が揺れていた。細い光が正面から差し込み、風がごうっと巻き上がったのが響きで分かる。
 アマーリエが眩しさに目を細めている間に、車は都市外へと走り出した。
 都市外あるいは農業区、まだ都市の勢力範囲内をそう呼ぶが、その地域には農場が広がっている。開いた視界の青々とした緑野に、草を食む動物たちが遠目に見えた。赤っぽい屋根の塔みたいなものは牧場の建物だろう。窓のスモーク越しに見えるそんな緑や建物や空の色はよく分からないが、鮮やかであるような気がした。灰色に霞むことのない本物の色。
 その光景がやがて終わり、空と緑の色に慣れてくると、次第に車が揺れるようになった。都市の勢力圏から次第に離れているのだ。この辺りは境界が近付くということで、開発の手が入っていないのだろう。近付く者もおらず、道は均されていない。
 時間の感覚はなかったが、三十分ほど走っただろうか。アマーリエの後部座席からでも、野の向こうに長くそびえる壁が見えてきた。
 境界。
 アマーリエがわずかに躊躇したように、車は高い壁から少し離れたところに止まった。
 後部座席の両側にいた市職員たちが車を降りて、アマーリエを見つめた。アマーリエは、有無を言わさぬその目に一度自身の目を閉じ、意を決して降車する。
 風が強かった。ベールを攫われないよう、指で押さえる。しかし風は暴れ回るほどのものではなく、遮るものがないから自由に動き回っているという感じだった。都市での行き場がないからぶつかり合うのとは違う。
 土の地面が思った印象と違って柔らかく心もとないのは、雑草が生えているからだろうか。見渡すかぎり柔らかい草が生えている。牧場の緑とは違う、少し冬枯れたような色をしていた。こんな地面の感触を知らない。
 荷物が運ばれ始めた。落ち着かないアマーリエの肩にもコートが着せかけられる。これも白だった。眩しいくらい反射していて、導かれるように空を見上げる。
 眩しい。太陽まで、どこにも遮られていない。
「お嬢さん」
 呼びかけられて振り返った。荷物を運ぶ車両に乗っていたらしいビアンカが、丁寧に礼をした。習って、荷物の運搬を終えた者や付き添いや運転手、他の職員たちも礼をする。都市でもエリートとされる市職員のスーツの大人たちが、二十歳にもならない小娘に深々と頭を下げた。
「私たちは、ここまでとなります。名残惜しくはありますが、この先のお嬢さんのご多幸をお祈りしております。どうぞ、お元気で」
 呆然として彼女らを見、高い石の壁、恐らく開かれはしないのであろう門の向こうから、背の高い一団がこちらを見守っていることに気付いた。皆覆面をした、得体の知れない人たち。都市の人々と身にまとう色彩が違うのが遠目でも見て取れる。それが最も大きく『異国』を感じさせた。
「……これで、最後なんだ……」
 洩れた呟きが呆然とした理由を告げていた。ここから先は、他種族は行くことができない。それを唯一通るのが今ここにいるアマーリエ。都市市長の娘。政略結婚の花嫁。
 遠く離れたはずの都市は、遮るものがなくても霞んではいたが見ることが出来た。最も高い市庁舎が一番大きく見える。生まれ育ち、一生を終えるはずだった場所。永遠の過去と刹那の現在と約束の未来があったはずの世界。選ばせてもらえなかったもの。
 目を戻した、礼をしたままの市職員たちの顔は窺い知れない。すべてを知らされた一握りの者たちには、ただ仕事に就いているだけなのか、それとも自責の念を抱いているのか、もっと別の感情があるのか。でも何があっても、この状況を変えることは出来ないのだろう。
 だが見送りがあるというのは少し心が穏やかにさせてくれた。ここまで仕事でも世話をしてくれたのは彼女たちだ。
「……ありがとうございました。どうか……皆さんもお元気で」
 心からの願いを口にした。だって、でなければ自分が救われない。
 ぴくりとビアンカや複数の肩が揺れたのにアマーリエは気付かなかった。そのままドレスの裾を持ち上げると、境界の方へと歩き出した。
 踵の高い靴は地を行くには向かない。長いドレスも。上等なベールも。
 もう振り返らない。振り返られない。振り返ってはならない。
 アマーリエ・E・コレットの持っていた都市の未来は失われる。だが悲壮な顔も、後悔も、未練や憤怒、マイナスの感情は見せない。与えられたのは都市の花嫁の役割だ。後ろにある都市の印象を悪くしたり悪影響を及ぼしてはならないと噛み締める。これは政略結婚である。
 自分一人の未来を捨てて、九百九十九人の未来を与えなければならないのなら、アマーリエは捧げずにはいられないのだ。心があるから。痛みを叫べる心臓を持っているから。
 境界は開かれていた。そこに、一歩踏み入る。
 すうっと息を吸った。胸を張り、そして、やって来たところからはすべて見渡すことの出来なかった面々を見据える。居並ぶ、馬と人の群れと一つの馬車。一人の出迎えとは思えない人数にアマーリエは少々の恐怖感を覚えたが、ぐっと顎を引く。
 近付いてきたのは一人。覆面の背の高い人物で、アマーリエより頭一つ高い。その人が、すっと膝を突いた。続いて、ばらばらと金属や布の音が響く。ぎょっとする。全ての人々が膝を突いたのだ。
「ようこそリリスへいらっしゃいました。我々はあなた様付きとなる親衛隊にございまする。これよりあなた様を王宮に送り届けさせていただきます。どうぞ、御手を」
 滑らかな口上の後、どうすればいいのだろうと迷う。御手をと言われたから……とそろそろ右手を差し出すと、その手を優しく取った人物は、ぱきっとした姿勢で立ち上がり、こちらへと美しい声でアマーリエを見たこともないほど壮麗な馬車へ導いた。
 黒く光る馬車はあちこちに金の装飾がされ、形も単純に箱ではなく多角形だ。馬は白馬。それも純粋馬で四頭もいて、彼らを繋ぐ紐や冠らしきものも華麗な色をしている。入り口を開く者たちは足場を用意してくれ、手を取っている人物はその手を取ったまま言った。
「お足下が不安定でございましょうが、支えておりまする。ゆっくりお上がりください」
 驚いたのはさきほどからの丁寧な口調ばかりではない。
(……女の人……?)
 背が高く、体つきは細身の男性に似ている。なにより、腰に剣、刀とおぼしきものを差しているのだ。近付いてきた時はこの人が相手なのかと過ったけれど、聞いた声は低いが滑らかで優しい女性のもの。覆面の下に想像がつかないが、その背筋といい、とても立派で美しい人である気がした。その人は見つめるこちらに微笑んだ気配を見せ、アマーリエはじっと見すぎたと若干赤面しつつ。
「あ……ありがとう、ございます……」
 小さな声で礼を言って段を上がると、彼女はぺこりと一礼をして一歩下がった。
 扉が音も立てずに閉められた。乗り込んでいるのはアマーリエだけだ。
 声が上がる。出発の声だと思ってすぐ、ゆっくりと馬車が動きだし、その動きにはっとしてアマーリエは背後を振り返ったが、弾かれたように身を引いた。
 振り返らないと決めていたのに。情けなさと弱さに唇を噛み締める。何度も噛み締めた唇で高価なルージュはもうぼろぼろだった。涙の出ない顔を覆い、別れを胸で囁く。
 馬車は花嫁を連れて、行列となって緩やかな速度で起伏の多い土地を進んでいく。この土地はもうリリス族の地。アマーリエが選ばされた世界だった。

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