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 呆然とするアマーリエの前で彼は身を翻す。それに続くのは、大きな刀を佩いた男性を筆頭とした人々、きらびやかな身なりの男性たち、赤い衣装の女性たち。アマーリエの元にはその衣装の女性たちが集い、深々と礼をして手を取ることの許しを窺う。
 あの人の姿は人々に遮られてもう見えない。なのに、声だけはうるさく耳に響き続けていた。
 王宮の正面玄関らしき場所は階段になっていた。浮つく足下でアマーリエは導かれるまま段を上り、天井の高い木造の建物を行く。歩いているのか分からない速度で、ひれ伏す人々を見る。そして、戦慄するような違和感で倒れそうになった。
 だって、普通じゃない。
 いくら花嫁でも、異種族の族長の妻になるのでも、これは、一介の市民が受ける歓迎ではない。結婚式が非日常でも、これは違う。
 違う。一歩一歩が別世界へ踏み込んでいく。戻れない道を。
 部屋では大勢の女性たちが、それもとんでもなく美しい人たちがアマーリエを待っていた。背を向けて両腕を広げるようにしてきらびやかな衣装がかけられている。その赤を基調にした衣装には複雑な文様や色とりどりの花や、金色の刺繍が施されている。婚礼衣装であることは明らかだった。
 アマーリエは更に進み、その先の部屋にて、「失礼いたします」の声で着ているものを一斉に脱がされた。
「――!!?」
 声もない。軽く押されて靴が脱げる。アマーリエの下着姿を前に周囲は平然としている。怖い。足下に跪いた女性たちは着るものらしきものを準備している。手が引っ張られ、隣の部屋の扉を開けると温かい空気に全身が包まれた。
「では、お清めを……」
「待って、待って待って、待って!!」
 悲鳴を上げる。外聞もかなぐり捨てての必死の制止で、女性たちは布や石鹸を持ったまま一様に動きを止めた。
 持久力走で四キロ走ったような気持ちで肩で大きく息をし、落ち着け、落ち着こうと言い聞かせる。さあ、ここは何か。
 ここはお風呂だ。木造の部屋の、明るい木の色の広い湯船。触っている床も木だ。温かいお湯がなみなみとなり、白い湯気が立っている。お清めという言葉から、旅の汚れを落とすのだろうということを想像し、周囲の様子から、この女性たちは洗う手伝いをするのだろうと考える。
 喉を微妙に引き攣らせて、なんとか言った。
「ひ……一人で、入れます」
 女性たちは顔を見合わせる。
「大丈夫でしょうか?」
 一人、髪を縦に長く結い上げそれでも長い髪の先を左肩に垂らした女性が、進み出てそう尋ねた。
「大丈夫です……」とは答えはしたが本当は嘘だった。主に精神的な問題でぎりぎりだ。声も頼りなく、女性たちは納得しない困ったような顔になる。そのように困らせるのは心外だがしかし裸を見られたり触られたりするくらいなら自分でなんとかしたいと必死に目で訴える。
 結局女性たちは引き下がり、何か分からないことがあったら呼ぶようにというようなことを丁寧な口調でアマーリエに告げ、お風呂を出て行った。
 どうしようとここまでのことに吐き気がするくらいの頭痛を覚えたが、湯気で湿った身体の気持ち悪さが勝った。籠のようなものの中身に、下着やその上に身につけるような肌着らしき布を確認すると、アマーリエは汚れを落とすことにした。
 落ち着かなくてからすの行水になったが、それでも吹き付けられたヘアスプレーを落としたりするとさっぱりする。上から線が出ないようなぴったりとした下着を身につけ、肌着を羽織った。肌着はボタンなどがない、袖だけがある布一枚である。腰であわせるのだろうと思った紐は結んでも余ったので、蝶結びにしておく。
 お風呂から出て行くと、さっと女性たちが背筋を伸ばして礼をした。手を取られ、部屋の中央に導かれる。タオルにしてはあまり毛が立ってふわふわしていない布で叩いたり梳いたり髪を丁寧に拭われ、アマーリエの合わせた肌着が彼女たちの手によって皺なく止められる。
 それが終わると、来た部屋に戻された。衣装がかかったところだ。いつの間にか椅子が置かれており、そこに座らされる。拭かれた髪に何か花のようなとろっとした香りのものが塗られ、結い上げられた。身体の水滴をすべて拭き取るように丁寧に身体が拭かれ、足に足袋を履かせられる。いちいち断りの言葉があって、アマーリエは化粧を施された。
 立ち上がらせられ、衣装がひとつひとつ着せられていく。着物のような衣を何枚も重ね、ずしりずしりと縫い付けるように身体に重みがかかっていく。胸が締められるように帯が締められる。見えないだろうにと思うのに見たこともない飾りを着けられ、着物にはない上着を着せられた。前で重ねるよう指示されたままの手に扇を持たされ、準備整いましてございます、と衣擦ればかりの部屋で声が響いた。
 終わりまでは長く、アマーリエは血の気を失って真っ青な顔でされるがままになっていた。この身につけているものはどれも故郷のものではないのだと、うるさく叫んでいる心があった。
「あら……?」
 小さな声に、落ちて消えそうな意識が向いた。目に飛び込んできたものは、女性が手にしているもの。白い。
「ま、待ってください!」
 声を上げて立ち上がっていた。女性たちが驚いたように身を浮かす。
「それ……」
「お荷物の中にございました」
 この場所には不釣り合いなもの。白く滑らかなボディの、角がえぐれて傷がついている、アマーリエの携帯電話。
 どこかにいってしまったと思ったのに。
「それ……大切なものなんです……!」
 女性は悲しげに眉を寄せ、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。リリスに、ヒト族の機械は禁じられております。これは都市の方にお返しさせていただきます」
 彼女は立ち上がると即座に持っていってしまう。待って、と追いすがることは、衣装が重すぎて出来なかった。ずるりと引きずる婚礼衣装は、アマーリエの足を取る。倒れるように崩れるのを周囲が支えた。その時初めて、心から嫌だと思った。
 嫌だ。帰りたい。
「大丈夫ですか。誰か、お水を」
 持ち上げられるようにして元の位置に戻される。
 すると、少し乱れた空気が改まり、みんなが離れて頭を下げた。視線は誰もアマーリエの背後に向いている。
「お目覚めになられたのですか、ライカ様」
「ええ」
 たった一言だけで分かるたおやかな声、その主が衣擦れの音と共に現れた。
 小さな顔に、潤んだ大きな瞳が笑っている。同じように唇も淡い笑み。歳はアマーリエの三つ四つ上かというくらいだろうか。もしかしたらもう少し若いかもしれない。落ち着いた空気、その声のまま、雰囲気は柔らかいからだ。ピンクの花束を思わせる綺麗な女性だ。しかしやはり、その瞳は蛇のような光るもの。
 その人はアマーリエに微笑むと、そっと裾を引いてやって来た。「初めまして」と目を合わされ、アマーリエがなんとか立ち上がると、目元に皺を寄せて微笑む。
「ようこそ、リリスへ、都市の花嫁さん。わたくしはライカ・シェンと言います。分かりやすく言うと、族長の母親、あなたの姑になります」
「それは……あの、初めまして……」
 慌てて頭を下げたのはほとんど習慣的なものだ。本当は今すぐ帰りたい。俯いたまま顔を上げたくないそのさきで、しかし疑問が沸き上がる。
 母親ということは、若くとも年齢は三十代後半から四十代以上だろう。だがこの人の見た目はどう考えても二十代にしか見えない。どう若作りしてもこの若さは奇妙に過ぎる。後妻なのか、でもまるで――年を取らないような。
 そっと目を上げた先で、姑となるライカは説明してくれた。
「わたくしたちはヒト族の二倍ほどの寿命があるので、二十歳を過ぎると外見年齢の老化が遅くなるのです。わたくしの齢は訊かないでね。ヒト族の文化も女性に年齢を訊くのは失礼に当たるのかしら」
 尋ねられたがほとんど聞こえなかった。ぽかんとしたまま小さく頷いただけだ。その脳裏には寿命が二倍、老化が遅くなる、の言葉が回る。
 寿命が違うということは、都市でも知っている者は多い。だが外見のことを知っている者は多くないだろう。実際アマーリエは思い当たらなかった。リリスに体面出来るのは都市の外交官、異種族交流課の人々のみであり、そして彼らと対面するときも、リリスはかぶり物をしているという話をビアンカに聞いた覚えがあった。
 そしてさきほど感じた違和感の理由が明らかになった。あの入り口の出迎えの人々。王宮の、つまり政治を司る場所、要職に就いているはずの人々、彼らには誰も姿勢の悪いものがおらず、仮面の下はほとんどが二十代から三十代の外見だったのだ。
 覚えたのは。
 怖い、という感情だった。
「リリスを怖がらないで」
 降った言葉に身を竦ませる。ライカはたおやかな風情に更に悲しみをひそめていた。
「大丈夫ですよ。ここにあなたの敵はいません。何かあれば、必ず助けてくれる手が存在しています。わたくしも」
 アマーリエは、自分が怖がっているからこの人は悲しそうなのだと思い至る。胸が痛んだ。リリス族はみんな背が高いようで、ライカは少し身を屈めてこちらに視線を合わせてくれている。周囲の女性たちも待機しているが会話は聞こえているはず。胸が痛い。自己嫌悪する。この人たちに嫌な思いをさせたくない気持ちが、大きく胸に響いた。
 怖い。こわいけれど。
「すみません……」
「いいえ。さあ、わたくしに何か出来ることはある?」
 顔を上げた。この人なら、なんとかしてくれないだろうか。
「あの……」
「何か?」
「携帯電話を、返して、いただけませんか……?」
 都市に帰ることはできない、ならばという自分の中での妥協案だった。
 ライカは少女のように首を傾げた。
「けいたい……それは大切なもの?」
「はい」
「何故返してやらないの?」
 投げかけられた問いに答えたのは髪を肩に垂らした女性だ。非常に恐縮した様子で言った。
「恐れながら、仰っているものはヒト族の機械にございますゆえ……」
 ライカは得心したと頷き、そしてアマーリエに同情の眼差しを向けた。
「あなたには申し訳ないけれど……リリスに、ヒト族の文明を持ち込むことは許されていないの。特に、機械は。ここには電気も通っていないし、あなたには不自由されることになりますね。ごめんなさいね」
 表情も口調もいたわりに満ちていたが、失望は免れない。でも無理を言ったこともよく分かっていた。
「すみません……無理を言ったみたいで……」
「いいえ。こちらこそ力になれなくて、あなたに申し訳ないことをしましたね」
 悪いのは自分だと弱い部分を見て思う。目の前に故郷のものが現れたことで、そちらに手を伸ばして戻りたいと思う。まったく違う人種と目の当たりにして怖いと思う。自分は醜い。逃げる勇気もないくせにしがみついて。本当に、全然、覚悟なんて出来ていない。
 そう思っても、本当は帰りたいのだ。隠せはしない。
 アマーリエの手はその時温もりに包まれた。
「あなたがこの土地で幸せになれますように。わたくしの祈りは効くのですよ。だから、大丈夫」
 温かくて優しい手だった。年齢を重ねているのが触れた肌の感触で分かった。包まれた手は少し温かくなったけれど、ライカが去ってしまうとすぐに冷たくなっていった。

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