―――― 第 4 章
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 目覚めた瞬間に呆然とすることがあるのは、アマーリエがあまり朝に強くないからだろうか。開けられたガラスのない窓から差し込んでくる、太陽と風。花とシーツと毛布の香りと手触り。広いベッドで、何故自分は隅の方で眠っているのか……。
「……っ!」
 がばりと起き上がると、背中を合わせていたはずの人の姿はなく、その部分だけぽっかりスペースが空いている。だがアマーリエは毛布で丁寧にくるまれていて、身体のどこも冷たくなかった。
「…………」
 いるはずのないのにきょろきょろと人の姿を探して、やはり一人なのを知る。安心したような慌ててしまうような気持ちで毛布をまとめて畳んで、二つの枕を若干赤くなりながら並べ直す。しかし堪えきれずに、形を整えるのに半分殴るようにばすばす叩いてしまった。
 落ち着いた頃、枕元に置いてあった携帯電話を手に取った。確かな冷たい感触を返してくる。高校生のときには鬱陶しいと思ったこともあったけれど、今こんなに愛おしくなるとは思いもしないものだった。
 どこに隠せばいいのだろうと考えて、こういうのって懐があるものだと中を探ってみると、合わせている下に小さなポケットがあることに気付いた。そこに携帯電話を収めて歩いてみると、落ちる心配もないし、触ってみてもあまり分からないと判断する。確認したと一つ頷き、着ている寝衣の乱れを整えて、部屋を出た。
 続き部屋を越え、廊下を行く。そこから部屋に顔を覗かせると、詰めていた女性たちが気付いて両手をついた。
「おはようございます、シン様」
 おはようございます、と部屋のあちこちから声が上がる。
「お、お、おはようございます……」
 もごもごと挨拶する。朝から華麗で綺麗な人たちがたくさん、アマーリエに美しい笑顔とお辞儀をしてくれて目が眩みそうだ。
「お食事を用意いたします。その間にお召しかえをされませんか?」
「あ……じゃあ」
 お願いしますと頷くと女性たちが一斉に散った。アマーリエは部屋の中央に導かれ、小さな腰掛けに座る。その脇から鮮やかな色の衣装が突き出された。
「本日はどのようなお召し物にいたしましょう? 私はこの蒼の晴れやかなものがいいかと」
「冬でございますから、上着は縹で……鹿の子ですね」
「装飾品は銀でございましょう」
「あら、やっぱり上着は菱の方がよくありません?」
 ハナダ、カノコ、その他にも続く会話の中で女性たちが聞き覚えのない単語を口にする。ハナダは色のハナダかなとぼんやり差し出される衣装や装飾品を見て考える間にも左右や後ろでは、ああでもないこうでもないと今日の着るもので騒がしい。聞いているのは、なんとなく楽しい。元気なのは良いことだ。
「あなた方、シン様がお困りじゃないの」
 一声で鳥たちもぴたりと口を閉じる。すると耳に、非常に朝の音が痛かった。静かなのって耳に響くんだなとどうでもいいことを思う、他人事のように聞いていてごめんなさいと後ろめたいアマーリエである。
「シン様、どうなさいます? 何かお気に入りの物がありました?」
 肩に髪を垂らした女性が顔を覗き込む。華やかな笑顔の人という印象で、昨日からここにいたことを思い出した。多分この女性たちの中ではリーダーシップを取る人なのだろうと推測する。
「ええと……ハナダっていうのが気になるので……」
 それを使ってくださいとお願いすると、後ろから若干の歓声と複数の落胆が聞こえてきた。もしかして競争だったのだろうか、煽ってしまったのかと自分の行動を振り返る。気をつけよう。
「では首飾りはわたくしの」
「それでは靴はこれを」
「かんざしはこれでございます!」
 とアマーリエが自身を縛めたのもつかの間、落ち込んだ士気が再び盛り上がり、それぞれに役目を見つけて物を取ってきた。結局、一人一つ選んだものを身につけることになる。役目はそれで決定というところであったのか、終わった女性たちは達成感で良い顔をしている。そうしてそのうきうきした表情で、アマーリエには慣れないリリスの普段着を着せかけていく。
「朝食の後は宮をご案内いたします。何か、他になさりたいことがあれば遠慮なく仰ってください」
「したいこと、ですか?」
 きょとんとして聞いてしまったが、そういえば、結婚したって生活が終わるわけではないのだ。ほとんど零からにはなってしまうが。ずっと、何もかもがなくなってしまうと思っていた気がする。
「シン様は、都市にいらしたと聞きました。何をなさっていたんですか?」
「えっ……と、学生です。大学生」
「ではとても優秀でらしたんですね。どんな学問を?」
「医学生でした。でも優秀なんてとんでもないです。もっと成績の良い人はたくさんいたし……」
 そういえばみんなどうしただろうか。オリガもキャロルもリュナもミリアも、都市も随分遠くなってしまった。大学は退学になっていることを人伝に聞いて、怒っていないといいのだけれど。あそこで未来を紡いでいる人たちが羨ましいのは今でもある。思う資格はもうないのだろうか。
 懐に、固い感触。大切な物だと聞いたとあの人は言った。
 懐に隠した携帯電話が一体どういう物で何をする物か知らない気がするけれど。ここにまだある。電源を、後で入れてみようと思った。
「医学生ということは、お医者様になられるお勉強を?」
 髪を梳られて意識が引き戻された。
「そ、そうです」
「素晴らしいですわ。是非お続けになられたらいかがです?」
 瞬きをすれば、鏡の向こうでアマーリエに気付いた彼女はにっこり笑った。その拍子に肩にかかる髪がさらりとこぼれる。
 彼女はまだここでどうすればいいか分からないアマーリエのために、一つ提案をくれたのだ。気を使わせて悲しいくらい申し訳ないと思う気持ちもあれば、続けてもいいのだという希望が見えた。
「……続けたいです」
 彼女は笑って、お支度が整いました、と一歩下がって手をついて礼をした。
 大きな姿見に映ると、ため息が洩れた。ハナダの青は手触りの良さを感じさせる優しい青で、白い円の染め抜きが裾には散るように、胸には一つされていた。重ねた下の色は日差しに照らされた緑。下には更に薄い緑と白を重ねている。上半分だけ結ったものにつけた付け毛は二つ輪の形。結った部分に指したかんざしは、大振りの銀の花。派手ではなくて、すっきりとしている。リリスの衣装を着た自分を初めてまじまじと見たが、スタイリスト役の彼女たちの手腕に感激する。とても、見られる。
「ありがとうございます」
 一瞬きょとんとする間があったが、遅れて「こちらこそ」と声があった。
 別の部屋に連れていかれて(もしかしてすることごとに部屋があるの?)と思いつつ、積まれたクッションで作ったソファに腰を下ろすと食事の膳が運ばれてきた。ドラマ以外でアマーリエが見る、本物のお膳だ。
 メニューはふわふわして溶けるように脆い出し巻き卵。里芋の煮物に色鮮やかな人参を添えて。薄黄色い豆腐には胡麻と思われる甘いあんかけ。小さな器には梅味のお漬け物が瑞々しい。透明なお吸い物には緑の葉っぱが浮かんでいる。主食はどうやら白米らしく、ふわりと盛られて輝いていた。
 朝ご飯が用意されてるっていいなあと思ってしまう。朝があんまり強くない夜型のアマーリエは、朝食は食べないときもあるし、食べたとしてもコーヒー一杯や牛乳一杯に、もう少し食べられるのならトースト一枚というものだ。
 リリスの食事はあっさり目の味付けで、生ものはあまり出ないようだった。都市のように地下の人工池で養殖した魚なんて存在しないから、魚は食べられないはずだ。肉類は牛、豚、鶏が都市では基本だが、リリスの地にはその他にもあるかもしれない。だが今のところは見慣れた素材の慎ましい朝食で、ジャンクフードに慣れたアマーリエには色々新鮮で少し物足りない薄味だった。
「少しお休みになったらまいりましょうか」
 入れてくれたお茶。リリスのお茶は少し苦い茶緑をしている。味は苦甘い。飲んで、昨夜のことがぼんっと音を立てて脳裏に広がった。お茶の温度が伝染したように顔が熱くなってきた。
 何もしないと言った。そして、何もしなくていいと。
 あの人には、アマーリエがときどき感じるような男性の何かがなかった。印象は冷たい水だ。雪みたいな。水は流れるだけだし雪は降るだけ。そこに意思が感じられなくて当然としてそこにいる、そんな印象だった。だからアマーリエは、一緒にいても大丈夫だと何の確信もなく思ってしまったし、彼にとってこの結婚は何の感情も付属しないものなのだと理解したのだ。
 意に染まないのはあの人も同じだった。
「…………」
 嫌いではない。嫌いではないけれど、少し、怖い。それと、よく分からないけれど、痛くて苦しいような。手を握りしめたくなる。
「シン様?」
「……あ、はい!」
 お茶が跳ねて指に触れる。だが冷めていてやけどせずにすんだ。手拭を持ってきて拭ってくれた彼女が、にっこり笑う。
「お茶がお珍しいですか? もっと飲まれます?」
 怖いけれど優しいと感じるのは、怖いの種類はいやだきらいだというものではなくて、知らないから怖いのだという気がした。都市にいた頃の恐怖と、昨夜の怖いは少し、種類が違う。そんな気がする。
「あの……名前を聞いてもいいですか?」
「はい。アイと申します。シン様の身の回りのお世話をいたします、筆頭女官です」
 使用人とか世話係という言葉を使わないで、女官という名称を使うらしい。すると、昨日今日と世話をしてくれたのは、アマーリエの女官ということだろうか。
 他にも分からない単語がある。意味が取れるので今すぐに浮かばないが。
「アイさん」
「敬称はつけないでくださいませ。ここで最も地位の高いのはテン様、次にシン様でいらっしゃいますので」
 それだ。
「あの、テン様、シン様っていうのはなんですか?」
 何度か呼ばれた覚えがある。なんとなく呼び名だろうなとは思っていた。
「天、というのはリリス一族の長のことで、今はキヨツグ様のことですわ。真というのはその奥方様を言います。ですから、真様とわたくしたちはお呼びさせて頂いています」
 そこで彼女は表情を曇らせた。
「真様と呼ばれるのがご不快なら、お名前でお呼びさせて頂きます。申し訳ありません。ヒト族の方をリリスに受け入れたのは今回が初めてですので、まだ勝手が」
「迷惑じゃないです!」
 アマーリエは急いで首を振った。
「ちょっと不思議だなって思って。文化が違うんだから、分からないことがあって当然です」
 言ってから、当然なんだと腑に落ちた。知らない、分からないから不安で、それはアマーリエがヒトであって、ここがリリスの土地だからなのだ。不安は恐怖。そして、周りの人々も同じようにアマーリエに対して恐怖に近い不安を感じているに違いない。
「あの……」
「はい」
「案内してくれますか、アイ……?」
 みんなも、と部屋に座っている女性たちを見る。目が合うと照れくさくて笑ってしまって、きっと顔色を窺って見えるんだろうかと切なくなった。すると、そうして、部屋に花が開いたように場が華やかになったのは彼女たちが笑ったからだ。ひどく眩しかったけれど、ほっとした。
「もちろんですわ。では、そろそろまいりましょうか」
 女性たちが立ち上がる。長身の彼女たちは、背の低い主人に今気付いたように沈黙し、誤摩化すように揃ってにこっと笑ったのでアマーリエは噴き出しかけてしまう。
 さあ、とアイが促した。
「探検ですわ」

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