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「! キ……」
 名前を呼ぼうとした喉が、動きの止まった舌のせいで奇妙に引き攣った。
(違う)
 一瞬戦慄して目の前の人、思い描いた人とは違う人物を見つめた。
 肩を越す黒髪は一部分だけが長くて編まれ、後は短くされている。瞳は黒ではなくこの影の中でも光る明るい茶色だ。男性的と言うより、悪戯少年のような明るい目や顔つきをしている。手はアマーリエの携帯電話を奪い、リリスたちにかざして糸のように目を細くして楽しげに笑っていた。
「これ、俺の」
「マサキ様……!」
 彼らはおののいて一歩二歩下がる。明らかに族長の奥方に対するのとは差がある態度だった。彼らが下がったというのに、少年はアマーリエの空いている方の手で後ろに寄せ、というより肩を抱いて庇う。親しげに引き寄せられてアマーリエは面食らう。
「真サマが懐かしがってさあ、見せてたワケよ。そしたら奪って逃げやがってさ」
 やっと捕まえたと笑う顔は悪戯好きの子どものようで、童話に出てくる賢い動物のようだった。腕の中で硬直し目を白黒させながら、彼が庇ってくれていることにようやく気付く。とても上手に事実を作り上げる雰囲気があって呆然としてしまっていた。
「ん? んー?」
 顔を寄せられ答えを求められる。綺麗な顔が近付いてきて「ご、ごめんなさい……!」と後ろめたいと胸が騒ぐのにようやく言えた。
 思わぬ反論と助けを前に勢いを削がれたリリスたちは、ばつの悪そうな顔をしたものの、そのまま立ち去る素直さを見せなかった。
「しかし……マサキ様、機械はあれほどリリスの禁忌だと申し上げているのに」
「しっかたねえじゃん、俺好きなんだもん。ほら、お前ら、さっさと天様にゴアイサツ申し上げてこいよ。俺後から行くから。真サマに話聞いてから」
 だが噛み付きも虚しく、あっさり、それも軽い口調で追い払われてしまった。誰が何を言おうと関係ない、もう終わったとばかりに少年はアマーリエの肩を抱いて歩き出した。
 引き寄せられすぎてよたよた歩き、すると彼の方が身長が高く力が強いため若干足が浮くようになる。どこまで連れていかれるのだろう、そしてこの手はいつまで自分を抱くのだ。すると彼は誰もいない部屋の扉を空けたので、怖くなって突き飛ばしてしまった。火事場のなんとやらだったのか、強く突き飛ばしてしまって双方よろめく。
「おっ、と。いってえな。何すんだよー」
 唇を尖らせてむっとされた。そういえばさきほど助けてもらったのだと慌てて手を振る。
「あっ、そ、それはすみません。でも、肩を抱かれるのはちょっと……」
 誰も通らなくて良かった。結婚した人間が夫ではない男に肩を抱かれていたら問題だろう。
「なんだよ、リリスは汚らわしいってか? ヒト族が考えそうなことだな」
 肩くらい良いじゃん、と彼は都市の深夜のコンビニでたむろする学生たちのような座り方をした。そして、アマーリエの嫌いないやな顔つきになった。
「大体さあ、結婚したんだろ? どうせ天様と寝たんだし、肩抱いて恥ずかしがるってイマサラ? ってかん」
 たった一音で、誰も通らず、誰の声も届かず、風も止んで鳥の声も消えた。
 しばらくすると音が戻ってくる。乾いた音の残響と手のひらのしびれに我に返ったからだ。
 頭に来た。それで手を振り上げて彼の頬を張ったのだと理解して、なんてことをと自分でも血の気が失せていくのが分かったが、怒りは収まらなかった。震えながら、言った。
「……謝らないから」
 プライベートなこと、恥ずかしいとされることを平気で口にして、貞操観念を馬鹿にされた。その怒りはある。でも、他の何かの理由が大きな部分を占めている。関係は今はないと言っても信じてもらえないのは分かっているし、本当の意味での結婚を避けているのも奇妙に映るだろうことは想像がつく。でも、勝手に想像してあれこれ言われるのは我慢ならない。自分も、あの人も、望んで結婚したわけではないのだ。
 青ざめているだろうアマーリエを下から眺めていた彼は、珍しいものを見たかのようにしげしげと、立ち上がりながら下から上まで眺め回す。これは何なんだろうという、不思議さと好奇心が混じった嫌味ではない眺め方だったのは、ふうんという頷きのせいだったのか。
「ふうん……助けてやったのに礼もなくて平手? ヒト族っていうのは不義理なんだな」
 相手も謝る気などさらさらないらしい。ならアマーリエは慇懃無礼に返せばいい。
「……助けてくれて、どうもありがとう。でも、ヒト族を誤解しないで。偏見を持っているのはあなたの方だと思う」
「かもね」
 にかっと歯を見せる笑顔を向けられ、拍子抜けした。
「あの完全無欠の天サマの真夫人になる、それもどんなヒト族かと思ったら、結構丈夫そうで安心した。あんた、見た目か弱いけど実は結構太いね」
「……体型のこと!? 気にしてるのに!」
 身長が高く贅肉など影も形もなく、骨太でありながらすらりとした人間ばかりのリリス族。アマーリエはヒト族の平均より痩せている方ではあるが、二の腕や足の太さに着替えの度にこっそり泣いているのだった。更に以前の食生活が嘘のように最近三食きちんと食事をとるので下っ腹が出てきた気がする。同じ物を食べているはずなのにいそもそも何故みんなあの体型で胸もお尻も豊満なのだ。
 というような意味を込めて叫んだのだが、彼はきょとんとした後盛大に噴き出してくれた。余計に腹が立って、殴りつけたい気持ちを押さえる。
「笑わないで!」
「い、いや、あは、は、はは。あーこれでよく分かった。あんたなかなか面白い人だね」
 怒りで唸っていると、彼はまだしつこく肩を震わせながら携帯電話をアマーリエに返してきた。そして最後に「悪かった」と一言残して、廊下の欄干をひらりと乗り越えていってしまった。三つ編みを尻尾のように揺らして。
「いやー、確かに肩はやぁらかかったなあ」
 蝶や扇のようにひらりひらりと踊る手と共に、そんな台詞。
 ぽかんとしてしまった。悪かった、というのは謝罪なのか。そして最後の言葉、あれはなんだ。肩に肉があるとでも言いたいのか。その考えに至ると、怒りで血が上る。地団駄を踏みそうになって拳を握ることで堪えた。
(確かにリリス基準の華奢ではないけどっ!)
「真様ぁ。どちらですか、真様ー!」
 呼び声にはっとした。すぐ戻るはずだったのに、逃げ出すようにはぐれてしまったのだ。実際、声は必死にアマーリエを捜索している。急いで携帯電話を懐に押し込むと、裾を手繰って声の方向に走っていった。

   *

 久しぶりぃと手を挙げると、彼女は少々迷惑そうな顔をして背筋を伸ばし、頭を下げた。
「ユメ御前ったら、あいっかわらず凛々しくて俺参っちゃうよ」
「お久しゅうございます、マサキ様」
 マサキの言葉を黙殺したユメは言い終えると顔を上げ、何の用かと尋ねてくる。族長就任のごたつき以来少々警戒されているのは、こちら自身ではなくその背後にある人々のためだった。
「天サマにご挨拶! さっき行けなかったからさ」
「窺って参ります」
 そう言って室内に入っていったユメを見送り、マサキは欄干に腕をもたらせて堅いつぼみのついた木を見ている。それでなんとなくリリスの体つきを思い出す。ユメなどはリリスの中でも屈強な女性の筆頭だろう。鍛錬はかかさないし、何より男並みに身長がある。
 逆に、とマサキは手にあった感触を思い起こした。あの肩は華奢だったが柔らかく、花を思わせる繊細さだった。傷をつけてもすぐ回復する丈夫なリリスと違って、壊れたら取り返しがつかなさそうな脆い身体だと思う。実際はリリスの少女くらいの身長があるのに、リリスの子どもよりもずっと小さい印象があった。
「マサキ様、どうぞ」
 戻ってきたユメが告げる。彼女自身はここで待機するらしい。同じくらいの目の高さにあって見つめると、ユメはどうしたかと尋ねてくる。
「ユメ御前って、身体固そうだよなあ」
「鍛錬は怠っておりません」
 それは分かってるよと肩を叩くと、しっかりした骨が固さを返してくる。ふうんと声を漏らしたのをユメが聞いて眉をひそめたが、何も言わずに部屋に入るのを見ていた。
 族長たる天の住居の建物は廊下がなく部屋をいくつも繋いだ形をしている。座敷にされている部屋もあるが、この住居には椅子が使われた部屋がある。その代表である執務室は警備の詰める部屋を越えなければ入ることが出来ず、緊急時以外に別の道が開くことはない。
 警備に挨拶をすれば、頭を下げられる。扉を開いてもらって部屋に入ると、何事か副官のオウギと話していた天が顔を上げた。
「お久しぶりです、天様」
 きちんと長に対する礼を取ったのは、マサキの意識の切り替えがそうさせる。
「ああ、久しぶりだな」
 美声で告げる族長は書類をオウギに手渡すと、一度仕事の手を止めた。オウギは特に声を出して挨拶はせず、軽く頭を下げて部屋を出て行く。元日の挨拶以来だが、彼も特に変わった様子はない。
「オウギは相変わらず喋りませんね」
「あれはいつもああだ」
 そう言うと、キヨツグは椅子を勧める。ありがたく革張りの長椅子に腰を下ろして、茶が出てくるのを待つ。彼もマサキがいることを気にしないのか、手は止めたものの気になるらしい書類を繰っている。その横顔はマサキの目から見ても、研がれて光る刃に花が添えられたくらいの風流で美麗なもので、昔はこの人が羨ましかったものだった。幼く見えるがマサキは二十代、大人になったとして成長が止まる頃である。今はこの顔がある意味ウリなのだが。
 お茶一式を持ってオウギが現れた。てきぱきと注いでさっさと出て行く。やはり言葉がないが、マサキもキヨツグも慣れている。いてもいないのが普通なのだ。
「そういえば、結婚生活はどうですか」
 ごっくん。奇妙に大きな音を立てて茶がキヨツグの喉を通っていった。
「特に、変わりない」
 すぐさま返答があるものの、おかしな空気が滲み出たのは確かだった。
「お祝いに行けずにすみませんでした。代わりに伯父上にお願いしたんですが」
「シズカ様のお加減が悪かったのだろう。快くなられたか」
 話題を逸らしたな、と思いつつ「もう良くなりました。全開過ぎて迷惑してます」と答える。
「母上も気にしてましたよ。真様はどんな方だろうと」
 と言っても母シズカの意識の方向は、ヒト族に対する嫌悪に向いていた。キヨツグは答えなかった。多分マサキと同じことを考えている。
「で、どんな方なんですか?」
 しばらく間があった。その間で、キヨツグは書類を置き、茶を何度かに分けて飲み干していた。実はその『真サマ』をとっくに見ているマサキは、どういう答えが返ってくるか興味津々で笑顔を向けた。
「……何が聞きたい」
「並み居る候補を薙ぎ倒して真夫人になったんでしょう。どういう人物か知りたいですよ」
「それをどこから聞いた」
「はい?」
 世間話にそぐわぬ剣呑な声が何処と問うたので、マサキは目をしばたたかせる。マサキの反応が思ったものではなかったらしく、天は一瞬眉間に皺を刻んで、何でもないと手を振る。
 どうやら、政略結婚には何やら秘密があるらしい。真夫人そのものに関わるもの、候補から選ばれた理由、というところか。
 言葉に失敗した手前答えぬのはまずいと思ったらしいキヨツグは、口元を覆って考えた後、一言。
「小さい」
 とのたもうた。どうやって事情を訊き出そうかと考えていたところに聞こえて、それは人柄を表さないだろうと呆れたマサキだった。
「はあ、小さい。……他には?」
 他? と心外だとばかりに尋ね返される。なんとなく頭が痛かったが、時間をおいて答えを待った。だが、この何を考えているか掴めない人物は、不思議そうに問い返してきた。
「気になるのか」
「まあ、人並みには」
 ふむと声を漏らし何事か考えている様子だった。そして立ち上がり、茶を入れ始める。考えていたのは、茶を飲もうかということだったのだろうか。
 相性というものがある。さきほど真夫人をいびろうとしていたあのリリスなどは読みやすいが、この人を前にすると掴めなくなるマサキだった。
 大変そー、と他人事よりは親密に思った。政略結婚で、異種族で。あの小さな少女はここで生きていかねばならない。あんな小さな、強くぶつかれば壊れてしまいそうな身体で、人の考えを読んで渡っていかねばならない。名前も知らない彼女が就いたのは、そういう地位だ。無理矢理でも、役目は義務だ。
 でも似合いそうにない。自由にしているのが一番綺麗に見えるような気がした。空の下、怒ったり、笑ったりして。颯爽と歩き、進んでいく。そんな見たこともない景色を想像した。
「……あまり怯えさせるようなことはするな」
 話が終わったと思ったところで茶を飲み書類を見ながら言われたのがその言葉だったので、マサキは驚いた。考えていたことを読まれたかとひやりとしたが、特にそれ以上の理由はないらしく、夕食は何が良いと尋ねられてしまった。
(……結構興味出てきた)
 怒らせてしまったのだが、怯えられてはいない。今度会った時には名前を聞こう。
「馬肉が食べたいです。お願いできますか」
 言っておくと頷かれ、マサキは執務室を後にした。

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