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 果たして、空に近いところにヒト族の娘、都市の花嫁の姿があった。天上に夜と星をいただいて、落日の方向を見つめる身体の輪郭は、淡く金に輝いている。
「……」
 名を呼ぼうとした時に振り向かれる。言葉が消えてしまった。
 瞳が陽に射られて天界の者のように不思議な色に輝いていた、そう感じたのは、瞳に怯えも喜びも感じられなかったからだ。ただひたすらに静かで、少しだけ寂しいと感じるものだった。それはこの空をそのまま映したようだったのだ。身につけている衣装も美しく艶やかで、神聖なほどの落日を彼女が抱いているように見えた。
 一瞬のことだった。だがその一瞬はひどく胸を打った。
 その刹那の後、彼女はみるみる感情をあらわにした。瞳に驚きが走る。慌てたように後じさり。
「……ぅ、わ!」
「!」
 布がふわり、舞う。誰かが連れ去っていくように、地に落ちた。
 思わず深いため息も洩れる。とてつもない力で心臓が縮んだ。足を踏み外して落ちかけたところをキヨツグが間一髪抱きとめることになったのだった。リリスでも怪我をしない高さではないというのに、この娘が落ちたらと思うとぞっとする。
 お互いに息を吐いた。
「ありがとうございます……ああ、落ちるかと思った……」
 が、彼女はすぐに腕の中で固くなる。慌ててもがくのが伝わった。
「あああの……はは、離してくださいませんか……」
「……ここで離れるとどちらかが落ちる」
「あ、ああ……そ、そう、ですか?」
 ならさっさと降りれば良かろうとは、思ったが言わなかった。彼女の方は気付きもしないのか小さくなっている。キヨツグはそこから抱きかかえ直しはしたものの離そうとは思わなかった。離しがたかった。
「……何をしていた?」
 緊張のあまり質問の意味を取るのが遅れたらしく、一瞬ぽかんとすると、慌てて応えた。
「え、えと……明日礼儀作法の先生がいらっしゃるので、服を色々用意してみようってなって……この格好が一番似合うって話になって、この上にものすごく重そうなマント、っていうのか、毛皮? を着せられて、今日は、これで」
 その……と語尾がしりすぼみに消える。しばらく待ったが続きがない。夕日の色ではない色に染まっている顔を見て、後から理解が来た。つまり、今夜はこれでと言われたのだと推測する。
 確かにいつもは薄い化粧を、慎ましく濃くも透明感のある粧いにしているようだし、衣装は薄く羽根のようで手触りはとても良く、体温が伝わりやすいのか、お互いで胸が温かい。
 恐らくお互いがそれぞれに夜を過ごしていることも知れたのだろう。皆が案じるのも分かるが、無理強いはしないと約束したキヨツグだった。今もその誓いは破るつもりはない。破るつもりはない、自分からは。
 息を吐く。騒ぎそうになる心臓を押さえつける。雲に一瞬隠れた陽が、再び赤い光で二人を射る。
「それで、ちょっと……逃げて……見つからないところはどこだろうって思って、ここを見つけたから、上って、夕陽を見てました」
 彼女が身体を動かし、夕陽の方へ顔を向ける。横抱きにされて寄り添いながら顔をあちらに向ける体勢だった。落日は速く、既に空には星が散っている。あるべくしてある空だ。何も変わりはしない。
「ここは、とても、静かですね」
 だと言うのに腕の中の娘はそう言った。
「……そうか?」
 疑問を口にすると、頷かれる。
「はい、とても静かで、とても綺麗。でも、一人で見ていて寂しいなって思ってました。だから、あなたが来てくれて、なんて言うんだろう、……安心……しました」
 安心、という言葉を反芻して胸を温かくする自分がいた。怯えていた娘は、こちらを見なくとも、身体を少し強ばらせていても、微笑んでいるのが分かったのだ。
「ひとりできれいなものを見るのは、ちょっと寂しい、ですよね……」
「……今は、ひとりではなかろう」
 呟くと、こんなに近くとも聞こえなかったのだろうか、ふと彼女が腕の中で見上げた。
「……静寂は、落日と天明の瞬間に存在する」
 指を、西に向ける。導かれるままに、視線が向けられた。
「……その真の静寂に立つ者が、この世界の全てを収めているという。だがこの世の誰もがそれになれはせぬ。生き物は皆、想いと心臓を抱えているが故に」
 誰が世界を手に入れるのか、世界は誰のものでもない、そんな物語だ。人はたった一つしか選ぶことができず、多くを望めば多くを失う。静寂の中に立てる者は、生者ではなく死者でもない。生者は想いと心臓を抱え、死者は想いも心臓も持たない。静寂にあるのは世界と時だけ。思い返す時にだけ、世界は思い返す者のものになる。
 そんな話を、自分でも何を思ったか静かに語っていた。日が沈む。差す光が途切れる瞬間まで、太陽が眠りに行くのを邪魔しないように息を潜めて見つめていた。落日はゆるりと瞼を閉じるのに似ていて、残照は瞼の裏の光を思わせた。
 そして、キヨツグは、あれほど焦げるように感じたものを忘れていた。
 やがて来る、夜という寂しさに。
 この胸の中に彼女という温もりがあることは、何よりも幸福に思えた。
 夜が来ると風を意識した。冷たい夜風はさすがに長時間当たると病になる。戻ると言うと、妻は礼儀正しくはいと応えた。


 先に降りて降りるのを手伝う。案外運動神経がいいのか、いつもより長い裾をきちんと手繰り、てきぱきと降りてきた。足が見えたことには若干目を逸らさなければならなかったが、彼女自身はあまり気にしてはいないようだったので、今度があれば誰かが言うだろうと思っておく。飛ぶように地面に降り立って、妻はこちらを見上げて照れたように笑った。それが、どんという衝撃を胸に与えた。
 あの刹那の輝きの中の娘とあまりにも違うし、美しさから言えばあの方が芸術的ではあっただろう。だがこうして自然と手を預ける娘が、自分に対して身近に微笑むのは、どこか奇蹟じみたものに感じてしまった。
「……あの……」
 困ったような声に我に返る。いつまでも手を握っている上に見つめていたのだった。
「…………」
 その頭の中は疑問符で溢れているのだろう。また考え込まれて困った顔をされてはたまらない。現に今、段々と赤くなって俯いていく。
「……エリカ」
 はいっ? と緊張気味に返答が来る。思わず、眉をひそめてしまった。
「……私の前で、笑ってほしい」
 あの温かさ。笑っていると感じた時の温かさの名残が、締め付ける、何か。
 かーっとアマーリエの顔が朱に染まる。また困らせたのかと己にため息をつきたくなったが。
「……お前は私に緊張しているように見える。……私が怖いか?」
 ぶんぶんと頭が振られ、それに合わせてちりちりとかんざしの玉の連なりが音を立てる。笑うように騒がしい。真っ赤な顔で頬を押さえている。しかし彼女をじっと見てみるとどうも怯えの種類の紅潮ではないようだった。更に首を振られたことを、怯えているわけではないと捉えた。安堵する。
「……そうか、ならば」
「ど、どどど努力、し、ます……」
 兵士たちがかがり火を掲げてやって来る。キヨツグはずっと様子をうかがっていたのを知っていたのだが、兵士はこちらを見て何を言いたいのか笑顔だった。かがり火を受け取って、軽く首を傾げると、相手は笑顔のまま首を振った。悪い話題ではない様子なので訊かずに置く。
 遠くから女官たちがアマーリエを呼ぶ声も聞こえてきた。ユメとオウギの姿もある。
「行くぞ」
 手を差し出す。顔が再び紅潮したように見えた。
「もう暗い。お前の目では足下が危ないだろう」
「あ……ああ、そ、そうですね……」
 そろそろと差し出された手は、とても熱を持っている。病の熱ではないが、よく手のひらに伝わった。自分の手はいつも冷たいため、じわりという感覚で熱を感じた。心地よくて少し力を入れたものの、不意に自分の手は冷たくないか心配になり、声をかけようと振り向いた瞬間、歩き出して数歩行ったところでアマーリエは転けた。

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