―――― 第 5 章
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 笑顔を望む時とはどんな時だろうと考えていた。都市を出る前に、自宅にやって来たミリアが泣いた。驚き戸惑って、どうしたらいいか分からず、それでもアマーリエが望んだのは自分のことで悲しんでほしくないということだった。
 暮れ行く空の下で聞いたあの言葉は、そのアマーリエと同じように悲しんでほしくないというのとは少し違ったようだった。でも、彼は少し悲しんだように眉をひそめ、そうして「笑ってほしい」と言ったのだ。自分の何かが彼を悲しめたのだと、思い知らずにはいられなかった。
「アイは……」
「はい?」
 着装を進めながら、アイはアマーリエの問いに耳を傾けてくれている。
「アイは、泣かれるより笑ってくれる方がいいよね」
「それはもう。笑うということは、気を許してくださったということですもの。泣くということも場合によってはそうかもしれませんけれど、泣かれるよりは笑っていただいた方が、嬉しいですわね」
「うん、私もそう思う」
 笑えというのは、そういう意味なのだろうか。心を許してほしいと。
 アマーリエは微かに首を振った。心を許しても、そこにあるものは何か、正しい形とは少し違う別のものだろう。笑ってほしいと望まれることは赤面するくらい嬉しかった。照れくさくて、恥ずかしくて、胸が嬌声をあげるように騒いだ。でも、心を許して――その後は。
 遅れて鳴るかんざしの飾りがしゃらしゃら、何か言おうとしているように聞こえた。
 あくびを噛み殺す。低血圧でまだ眠いからで、落ちそうになる意識を堪えた。授業までに目を覚ましておかなければ、講義中にあくびをするという失礼なことをしてしまう。目の辺りを揉んで、朝餉を食べることで目を覚まそうと試みた。あくびのせいで、涙がにじんだ。


 新しく礼儀作法の授業が始まるということで早めに部屋に向かったアマーリエは、そこに白髪の老女の姿を見つけて足を止め、次に慌てた。何故ならその人はやって来るアマーリエの気配を感じて、すでに深々と叩頭していたからだった。
「申し訳ありません。遅れました」
 席に着くと老女は言った。
「お初にお目もじつかまつります。今日より真様の礼儀作法等を指導させていただきます、ミチカ・サコと申します」
「アマーリエ・エリカと申します。よろしくお願いいたします。どうぞ、お顔を上げてください」
 老女は第一印象は、どこかのお屋敷に住む、ガーデンを大事にして楽しみにしている、上品な老婦人という感じだった。年齢を感じさせる深い皺があったものの、ひどく滑らかに白い肌をしており、引いた紅が鮮やかで下品ではなく、彼女を更に凛とした美しく見せていた。詰めている髪もきつくなく優雅、衣装の色合いも落ち着いているが若々しい印象を与える。見た目ヒト族の感覚では七十代だが、リリスのこの人は一体幾つなのだろう。
「定刻より三十分早うございますね。……なるほど、時間の観念はよろしいですね」
 にっこりとサコは笑い、アマーリエにつられて微笑んだ。
 だが。
「しかし、ご挨拶に問題があります。もう一度」
「あっ、……はい」
 名を名乗るところから入ると、違いますの声が飛んだ。
「目下の者に対して深々と礼はせずともよろしい。軽く頷くか軽く手をついて目礼の時に頭を下げるくらいです。もう一度」
「つくのは三つ指です。もう一度」
「先程と言葉が変わりました。一つ前のものが良いでしょう。もう一度」
 挨拶の仕方だけで何回か注意され、必死になって繰り返す。猫背を注意されて伸ばした背筋が痛み、肩に力が入ってだるく、舌が疲れてきた頃にようやく『よろしい』の一言を聞けた。だがほっと安堵するのも注意しなければならない気がして、ゆっくりと息を吸って、疲労を隠すために微笑んだ。
「今日はざっと基本的なお話からいたしましょう。せっかくでございますし、歩き方の練習をご所望だということでございましたので、それからまいります」
「お願いいたします」
 軽く目礼。サコは満足したように頷く。


「何ですかその歩き方は。その大股歩きをお止めください、裾をばたばた言わせないで!」
 という、リリスの上流階級や族長家の人々を指導してきた老女の、嘆きと怒りから歩き方の作法は始まった。
「やや内股気味に。歩幅は十センチ程度が望ましい」
「俯かない! 首は伸ばして。お尻をきゅっとつぼめなさいませ」
「踵は上げない! 走るのではないのですよ。その格好で走るなんてもってのほかでございますが」
 部屋の隅から隅まで何百往復する。疲れて背筋を丸めれば、背筋! と叱咤され、ため息をつけば、顔を上げて! と声。教室に選んだ応対用の部屋だったが、歩き方の練習をするのには狭すぎて、ほとんどくるくる回るようになる。おかげで、裾さばきはそれなりに様になってきたようで叱られない。裾さばきだけがうまくなっても、裾が乱れれば意味がないので、アマーリエも必死だった。
「顔……背筋……内股、摺り足……お腹に力を入れて……」
 口の中で呟きながら歩く。疲労が積み重なってきて別のことを考えそうになる。
 祖母に預けられていた当時は、お稽古ごとだらけだった。礼儀作法は祖母の躾だったが、先生を呼んで教わったのはピアノやヴァイオリン、フルートといった高価な楽器や、茶道や華道、ダンスや、勉強だった。習慣化した勉強以外は大体中学生になる頃には脱落して、挙げた中で唯一身に付いたのはピアノだけ。茶道も華道もリリスではかなり役立ちそうで、ほとんど覚えていないのが悔やまれる。
「足!」
 はっとすれば普通に歩いて裾が乱れていた。乱れると自分で直させられる。後で着つけのこともやると叱られながら言われたが、本当に終わるのだろうか。
 リリスの衣装はスカートの感覚で、いつもパンツ派だったアマーリエは足をぴったり覆って大股でつかつか歩ける都市の衣装が少しだけ懐かしい。都市の衣装はリリスと比べてシンプルだ。リリスでも女性と男性では男性の方が着やすそうである。
「胸を反らし過ぎです」
 どういう風に歩いていただろう、――あの人は。
 廊下を行くあの人。背筋を伸ばし、歩みを進める。堂々と迷いなく。ここにいることがすべて正しいのだと、ここが自分に相応しいのだというような、確かな存在の足取り。
 あの人の隣に並ぶようなことがあったら、見劣りはしたくない。歩くくらい、ひとりで。
 その途端、昨日のことが思い浮かび、持っている裾を取り落として顔を覆いたくなった。
「真様! 何をお考えですか!」
「はい! すみません!」
 しかしサコのおかげで吹っ飛んだ。「申し訳ありません、でございましょう!」と更に言われ、悲鳴を上げそうになりながら百何十回目の往復を始めた。


「よろしゅうございます。少し休憩を入れましょう」
 どっと倒れそうになったがぐっと堪えて、裾をきちんと持って丁寧に腰を下ろす。お茶を飲んでいる間にも厳しい目がこちらの一挙一動を見逃すまいとしているように思えて、いつも以上に丁寧に茶器を扱う。
「毎日稽古ができないのが残念でございます。一週間、午前午後とお教えできれば、不自由することはないと思いますよ」
「はい……」
 この授業を一週間されるのは、月曜から日曜まで一限から五限までの授業を受け、毎日運動系の部活動をするくらい辛い、と思う。げっそりとしていると、サコは「覚えが早うございます、と申し上げているのですよ」と言った。
「真様ほどの年齢の方をお教えするのは滅多にございませんが、大抵意固地になって初めの三日間は素直に言うことを聞く方はいらっしゃいません。初日でこれほど素直に聞いていただけるのなら、教えがいがあるというもの」
 褒められているようだった。だがうっかり口を挟むと言葉遣いを注意されそうで何も言えない。
「あの……ありがとうございます」
「いいえ。さて、せっかくでございますし、御衣装の着つけを一通りお教えした後は、宮中を歩いてみましょうか」
 衣装の着つけは概略といった話だった。あくまで今日だけの話である。大まかに自分でさせられ、それを女官たちが整える。彼女たちは流石王宮女官というだけあって、着実にアマーリエの未熟な部分を整えていく。これを次回から本格的に自分でやるのだと思うと、気が滅入った。覚えることはなんて多い。
 王宮を歩くのは、自室のある殿舎から紺桔梗殿までということになった。先頭に女官が行き、その後ろにアマーリエとサコ、その一歩後ろにアイと、少人数での散歩だ。ついて来ようとするのを、サコが少しで構わないと言った結果で、きっぱりとした物言いにアイも何も言わなかった。
 昼近い王宮は、人の気配は多くなくとも微かに気配のざわめきが感じられていた。静かなのに、一人ではないと分かる。
 内股で摺り足、と言い聞かせつつ、猫背になるのに気をつけ、顔を上げて胸を張り顎を引く。周りからどのように見えるのか分からなくて不安ではあったが、サコの厳しい声を聞いていると、その厳格さが正しい道に導いてくれるようで、びくびくしてしまいがちだが安心するのも確かだった。
 ぴたりと先頭が止まる。そして廊下の隅に下がって視界が開けると、サコもアイも同じように隅に下がった。
 向こうからやってくるのはあの人だ。傍らにマサキがいて、こちらに気付いたのか軽く目を見張っていた。
 アマーリエは退いた方がいいのか迷う間に、距離を開けて人々が立ち止まった。
「稽古か」
 昨日ぶりに会った人はあっさりとした口調で尋ねた。
「は、はい」
「うっわ、重たそうな衣だなあ。帯が微妙に曲がってるぜ」
 するとマサキが口を挟み、むっとするやら赤くなるやらで外面を忘れた。
「こ、これでも頑張った方なんだから。なんとか見られるようにしてもらったの」
「へえ、自分で着つけしたんだ。そりゃ悪かった」
「真、マサキとは知り合いだったか」
 滑らかな問いの声は彼方に消え去ろうとしていた礼儀を呼び寄せた。はっとしたものの、昨日のことを思い出して、目の前に当事者がいることで赤面する。笑ってほしいなんて、なんて。
「ええと、あの、何日か前に。彼が私に声をかけてくれて、それで」
「見慣れぬ人がいるなと思ったら真サマだったんで。イイ方ですね。ね、真サマ。俺もイイ人だと思ったでしょ?」
「自分でイイ人とか言う?」
 マサキは満面ながら大人びた雰囲気を漂わせてにっこり笑う。ぷっとアマーリエは噴き出してそうだねと同意する。尋ねた彼はしばらく笑っているのを見ていたがそれ以上尋ねることをしないでそうかとだけ頷き、背後で礼をしているサコへ目を向けた。
「サコ殿。真の様子はどうか」
「は。覚えが早うございます。文句一つない、良い生徒であらせられます」
 そうかと今度の頷きは微笑みと共にあった。アマーリエはとんと胸を叩かれたように思った。温かい笑み。誰かのことを心から喜ぶ。それだけでなく、都市にいたヒト族の誰も、こんな大らかで広い笑みは持つことができないだろう。
「真、何か足りぬものはあるか」
 次は胸に衝撃が来た。見つめられたことによって、めまぐるしく思い出される、不思議な伝承と、冷たい風を遮る温もり、声。生き物が抱える心臓の音。彼の音は、とても大きくて、耳に残っていた。胸の中でいつまでも聞いていられたのなら、一人でも眠ってしまえると思うくらいに。胸を押さえて喘ぐ。心臓が騒がしい。聞こえない、見えないようになってしまいそうになって、心臓に黙ってほしいと願った。
 首を振る。言葉が出て来ない。足りないものはないと必死に伝える。
 彼は、頷いた。分かっていると一つ。そうして道を空けたアマーリエたちとすれ違い、あちら側の方向へ歩み去った。
「真サマ! また遊びに行くからな!」
 大きく伸びをして手を振っているのを、後ろから人に殴られていた。行儀が悪いとか、礼儀がなっていないとかだろう。同じようなことをすればサコに注意されることが分かっているアマーリエは、笑ってしまう。少しだけ心臓の音が小さくなった。
 部屋に戻ると、用意された椅子に腰掛ける。椅子が一番楽だと思っていたが、くつろぐ間もなくサコに怒鳴りつけられた。
「くつろがれるのはよろしいですが、高貴な者のくつろぎ方というものがございます。それに、なんですか天様マサキ様に対するあの態度は!」
 怯んで後ずさりしそうになる。椅子なので逃げ場がない。
「奥方とはいえ、族長に対する最低限の礼儀がございます。本日はそれを覚えていただくまでお暇致しません!」

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