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 アマーリエはハナの部屋を訪れた。「それくらいわたくしたちが行きますのに」とアイたちが言ってくれたが、今日の勉強の復習の話なので、彼女たちではきっと要領を得ないだろうと思い、自分で行くことにしたのだった。
「あた、たた……」
 しかし午後の乗馬の訓練で打ち身だらけ。歩けば響き、息すれば眉間に皺が寄る。落花は美しい馬だったがどうもまだこちらを舐めている節がある。だが多分自分の技術の問題なのだろうと、今日一日乗り続けて思ったりもした。リリスの子どもは乗馬が出来て一人前、なのだそうだ。ならアマーリエは子ども以下。マサキに面白がられて声援を送られても仕方がない。暇らしいのに指導をユメに任せてアマーリエを茶化すのに全力を注いでいた。ユメに怒られていたがアマーリエはいつか絶対見返してやると決意する。この恨み、忘れまい。
 医務室に顔をのぞかせると、シキと若い男性が忙しく立ち働いていた。
 働く人は好きだ。子どもの頃からよく絵本などで『はたらくひと』を眺めていた。彼らは皆プロフェッショナルとしての誇りを持っていて、垣間見える当たり前の仕事が、子どもの自分には特別な仕事として映ったのだった。アマーリエにとって身近な働く人は、市長の父と医者の母だ。政治家というものにはぴんとこなかったが、医者の母には憧れのようなものを抱いた。同じ仕事をして同じところで働く、夢を見た。アマーリエが同じものを志すと知っていても、恐らく同じ職場を許しはしないだろうが。
 顔を引っ込め、壁に寄り掛かる。
「……このまま勉強して、私は何になるんだろう……」
 見通せない未来、その存在を久しぶりに前にする。このまま大人になるなんて想像もつかない。リリスで医者になるなんて、なれるはずないと思う。勉強しても近付けるだけで、きっと何者にもなれはしない。何故なら。
 ここはリリスで、アマーリエはヒトだからだ。
「真様?」
 びっくりして飛び上がると、シキが眼鏡の向こうの目を微笑ませていた。
「どうぞ。今少し散らかっていますけれど」
「お邪魔していいんですか?」
「もちろんです。さあ、お茶でも入れますよ」
 部屋に入っていくと、髪を乱雑に結い上げた若い男性と目が合った。軽く頭を下げる。
「やあ、こんにちは。どうぞこちらにおかけください。どこかお加減でも?」
「いえ、ハナ先生にお訊きしたいことがあって」
 ふうむと男性は顎を撫でる。その仕草がひどく歳のいったのを感じさせて、アマーリエは少し違和感を感じる。
「それにしては身体がだるそうだ。熱があるのではないかな」
「そうなんですか? 体温計、体温計……」
 シキが机の上を探し出すのを慌てて止めた。
「いえあの、今日は乗馬の稽古があって」
 顔が赤くなるのを止められなかった。
「落ちまくって打ち身だらけなだけですから、大丈夫です……」
 彼らは押し黙り、鴉らしき鳥の泣き声が響いて、アマーリエはますます小さくなった。次の瞬間、男性の方が笑い出した。
「はっはっはっ! そりゃあ大変だ。シキ、湿布を」
 身体がだるいのは本当なので、男性の観察力に敬服する。シキはこちらを慮ってか声を殺して笑い、棚の引き出しを開けて湿布を袋に詰め始めた。
「母に訊きたいことってなんですか?」
「ウスベニソウとウスベニクサの違い。表記の問題なのかどうか。先生、ソウの方もクサの方も仰ってたから」
 ああとシキは頷いた。
「それは一応別物。若い草をクサと呼んで、花が咲いたのをソウと呼んでるんです」
 なるほどと頭の中にメモを取る。口に出して繰り返すと、完璧とシキは太鼓判を押してくれた。
「ありがとう、うっ、いたた……」
「痛みますか?」
「それなりに……。でも大丈夫です。湿布を頂いたし、帰って貼ります」
「分解しないでくださいね。効力が薄まりますよ」
 アマーリエはきょとんとシキを見つめた。
 もちろん帰ってから、どんな薬草を使っているかということを確認してみるつもりのアマーリエだった。何故分かったのだろう。
 ぶっとシキは噴き出して笑った。そうして棚から薬草を持ってくる。
「ハッカです。王宮の庭にも生えている薄荷草を煮詰めて抽出したものですよ」
 受け取って顔を近付けると、あのキャンディやガムなんかで匂う、鼻がつんとする冷たい匂いがする。だが若干青っぽく、草という感じだった。
「よろしかったら持っていきます? ああ、そうだ、香り袋があった」
 シキは棚を漁り始める。この部屋で目的のもの、それも薬草以外を探そうと思ったら至難の業なのだろう。激しく汚い散らかり様ではなく、調和のとれた散らかり方をしていた。ここで生活しているのが分かるのだ。
 アマーリエの都市の家は、自室以外はがらんとしていた。自分には物を置くくせがないらしく大体モデルルームのように綺麗に整っている。自室は唯一、服や教科書を出しっぱなしにしていいところという感覚だった。だから初めて家を訪れる人は、きっと冷たいような思いをするだろう。夜の暗い時間に帰宅するアマーリエでさえ、冷えきった空間に一瞬立ちすくむくらいだったからだ。
 それを考えると、リリスはとても温かい。常に誰かがいる。例え、アマーリエが役目から逃げていてもだ。
 役目――何をしなければならないのか考えるとき、目の前に黒い覆いが降りる。体温を奪って、思考力を奪って眠りのようなものに誘う。今のように。
「多分……だから勉強するんだ……」
 一人前になれれば、役に立てれば、誰も居場所を奪うことなんてできないのだから。

   *

「え?」
 シキが振り返ると、主の奥方はうまく本に頭をもたらせて眠っていた。何事か言ったような気がしたのだが、眠りに落ちる際の寝言だったのだろうか。
「ありゃあ」
 という間抜けた声は父のものだ。しげしげと、きちんと眠っているか確認にやってくるのは、医者の性みたいなものかもしれない。
「お疲れだったんだなあ。熟睡だ」
「なのにわざわざご自分で出向いて来られたんだね」
 シキは呟いて、少女とも言える幼い顔を見る。閉じた瞼は淡い色で、睫毛は黒く長い。化粧はほとんどしていないらしいのに、これほどはっきりした顔立ちをしているのかと驚いた。確か十九歳。この人は、大人になれば素晴らしく綺麗になる。
「一生懸命なんだね。なんとか教えてあげたいな……」
 思ったよりも真摯な声で言っていた。この人が知識をものに出来れば、対等になれる、そんな気がしたのだ。
「そんなに寝顔を見つめてると、不敬罪だって天様にお叱りを喰らうぞ」
「と、父さん!」
 がっはっはと父は笑い、外で待機しているであろう女官を呼びに行った。シキは熱くなった頬をこすり、穏やかな寝息の少女を見る。
 思ったのは、いけない、ということだった。この人は主君の奥方で、強い政治的な意味を持ってリリスに来た。大切にしてやりたいと思うのは悪いことではないが、それ以上の感情はいけないことだろう。もし彼女が、行儀見習いの女官だったり、どちらかの家の令嬢だったら、シキはこの芽を摘み取ろうとは思わないけれど。
 何故、そんな風に突然思い始めたのか、不思議だった。多分彼女が、真夫人らしくなく話すからだろう。笑い、照れる。動きは丁寧だが洗練されていない。だから手の届く普通の少女のように錯覚してしまう。
 それでももし、シキ・リュウというリリスを知り合いとして認識してくれるなら、シキは喜んで知り合いや友人になりたいと思う。
「まあ、真様! 起きてくださいませ!」
 女官が困ったように少女を揺り起こす。
「あの、良かったら僕がお運びしましょうか。寝かして差し上げたままがいいと思います」
 肩に髪を垂らした年嵩の女官は動きを止め、じっと値踏みするようにこちらを注視したが、寝息を立てたままの主人を見て、承諾のため息をついた。
「毛布にくるんでお運びしてください。御体に触れたら許しませんから、気をつけてくださいませ」
 シキは言われた通り、毛布でくるんで抱き上げる。体温が高く、そして軽い身体だった。

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