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 朝早くに目が覚めるようになり、朝食前に落花の世話に行き、朝食後にもう一度身支度を整えて、医学もしくは礼儀作法の授業。時間があれば廟やライカのところに行ったり、午後は乗馬の訓練という生活パターンが出来上がっていた。
 マサキは声援という名の茶化しに磨きをかけ、ユメは竹刀でマサキを怒り殴ること覚えた。キヨツグの言った通り、二人は強者らしく、空手と竹刀の組み合いや飛んだり跳ねたりを馬の上から眺めて拍手することもしばしばだった。
 打ち身を作って湿布をもらいに行くようにもなり、いつもいるシキと言葉を交わすようにもなった。この前の男性は父親で典医のリュウ医師だと聞いて、面影があると頷けば、シキは嬉しそうにしていた。
 本を読むのにシキやマサキ、アイに分からない文字を訊き、暇さえあれば知識を吸収する。
 そんな風にして、厳しい冬が少しずつ去ろうとしていた。


「天界から降りたのが、リリス?」
 そうとシキは頷いた。
「宙(そら)を行く者たちの一端がリリスだった。翼を持ち、空を駆け、地を見下ろす」
 シキは伝承に関しても詳しかった。しきたりや作法に関してはサコに教わっているが、その元になる伝承をシキから聞いている。一番詳しいのは巫女のライカだと彼は言ったが、いつ訪れても姑は眠っていた。
「空、太陽、月、星、雲、虹、雨、雪、天空のものはリリスの眷族だったものだよ。リリスの族長が『天』と呼ばれるのは、地上に降りた天界の者という意味が含まれているらしい」
 頻繁に医務室を訪れていると、なんとなく敬語を使っているのに違和感を感じるようになって、アマーリエは提案したのだ。敬語をなしにしませんかと。シキは最初はとんでもないと言ったが、それ以前から時折親しく口をきいてくれることがあったので、お願いすると折れてくれた。今は自然に話している。
「真、ってみんな私を呼ぶけど、真夫人が正式名称なんだよね。これは?」
「古神話に由来しているんだ。天界の女神に仕える夫人の名前だよ」
 答えてから、彼は苦笑する。
「サコ殿に聞けばいいのに」
「う、いや、聞ける雰囲気じゃないっていうか……」
 褒めてはくれる。褒めてはくれるが、同じくらい叱られる。かなり慣れて怒られても泣きそうになったりはしないし、何度も繰り返すことで体力もついたが、やはりまだまだ一人前には遠かった。
「リリスは、どうして宙(そら)を降りたんだろう。故郷を離れるって辛くなかったのかな」
「真様は、辛かった?」
 お茶の湯気の向こうにシキが見える。アマーリエは微かに笑い、首を振った。答えないという意思だったが、多分辛かったのだと伝わっただろう。
「僕は、時々思うんだ。人間には必ず何かを選ばなければならないときが来るんだ。そして選べるものはたった一つしかなくて、僕たちは何かを失ってその一つだけを得る。――君は、故郷を離れて何を得るんだろうね、ってね」
「……無くしてしまったものは、いっぱいある気がするけど」
「得るものを考えるのが、未来じゃないかな」
 リリスで何を得るかなんて、考えたこともなかった。都市でもそうだった。必死に今を生きることをこなして、漠然とした未来のためになんとか道をこしらえて、少しずつ手探りで進んでいた。今も同じだ。何を得られるかなんて分からない。
 困惑が顔に出たらしい。シキはどこか仕方なさそうに微笑んで、お茶のおかわりを注いでくれる。温かい湯気が風の向きで目にかかり、反射的に目を閉じた。
「あ! アマーリエ、やぁっと見つけた!」
 足音高くやってきたのはマサキだった。足下の本などを見てげっという顔をしながら、注意深くこちらに近付いてくる。
「お前最近ウロウロしすぎ。まーたじじいどもに絡まれても知らねえぞ」
「絡まれたら逃げるから大丈夫。っていうか、勝手に入ってきて」
 シキを見ると彼は苦笑して容器を持ち上げた。
「お茶はいかがですか、マサキ様」
「おう、もらう。……って、それさ、乳鉢で茶葉擦ってね? それにこれ茶碗じゃなくて実験器具じゃん!」
「よく分かったね。今新しいお茶考案中なの」
 ビーカーのことに触れずにさっさとお茶を入れて押し付ける。怪しい薬混ぜてねえよなあとマサキが匂いを嗅いで仰け反った。興味津々に見つめる中、口をつけて一言。
「びっみょー」
 アマーリエとシキは顔を見合わせた。
「ほら、微妙だって」
「僕はなかなかいけてると思ったんだけど」
「そんな曖昧なもん飲ませたのかよ! つーか俺実験台!? っこら、アマーリエ笑うな!」
 マサキは怒りのあまり、部屋の中からきちんとした茶器を掘り出して、熱い湯を沸かしお茶を入れ始めた。葉っぱが湿気ていると顔をしかめると、アルコールランプの上にアルミの器を置いて、茶葉を炒るところから始まり、茶器は一度温い湯を入れて温めておいてから、お茶はぶくぶく沸騰するまで火にかけ、急須に熱湯を注ぐ。三分、と言われたので、それまで見蕩れていたのを慌てて懐の時計を取り出して三分測った。
「いい時計だね。綺麗な細工だ」
 マサキの鬼気迫るものに圧されて、シキは小声でアマーリエに耳打ちする。
「プレゼント……贈り物なの」
「誰に贈られたって?」
 マサキが時計を取り上げる。
「うっわ、これ凝ってるな。粋だわ。……ということは天サマか」
 そうなの? という視線に頷いた。ふうんとシキは声を漏らし「結構夫婦仲いいんだね」と呟いた。アマーリエは曖昧に笑う。
「時間」と時計を返しながら何故か怒ったようなぶっきらぼうな口調でマサキが言った。
「あっ、うん、あと二十、十九秒」
 時間が来ると急須から茶器にお茶が順番に注がれる。濃さの均一のためだとサコから聞いていた。マサキの入れたお茶は、すでに置かれた時から香味が違う。甘いような、いい香りがしている。
「いただきます」
 一口含んで、飛んだ。
「おいしい!」
 シキも目を見張っている。マサキはにやりと笑った。
「ざまあみろ」
「何か違うそれ」
 しかしお茶が美味しいのは本当だ。アイたちが入れてくれるお茶も美味しいが、マサキのお茶は濃くて甘い。舌やお腹に温かさが染み渡るのは、熱湯を入れたからだろう。ほうっと息を吐いた。
「すごい、おいしい。おいしいものを食べると幸せだなって思うなあ」
「じゃあずっと入れてやるから俺と幸せになろうぜ」
 肩を抱きにくる手をぺんっと払う。
「何人にそれ言ったの。そういうのは大切にするものでしょ?」
 マサキのパターンが大体読めてきていた。いいところを見せて、茶化す。褒められることを苦手とするような感じだ。茶化す台詞は若干口説き気味。こういうタイプは大学でも見かけたことがあるが、こういう台詞が女の子は嬉しいのだろうかと、女の子のアマーリエは少々不思議に思う。だがマサキは口がうまいのは確かだった。気がつけば女の子と歩いているのだから、普通はときめくものなのだろう。
「ううん、大切にしなきゃだめだよ。大切なものがあれば、きっと、どんな時でも前を向けるもの」
 それは、胸に灯る火、咲く花、射す光を指す。リリスにいるリリスのマサキは、そういったものがたくさんあるはずだった。ならば、失わないよう大切にしてほしいと思う。
 マサキはにっこりした。
「アマーリエにしか言わない。今は」
 分かってるのかなと、やれやれと肩をすくめながらお茶のおかわりを突き出した。

   *

 アマーリエは夕食だからと部屋に戻っていった。残されたマサキとシキは、それぞれに思い思いのことをしている。一人がいなくなると、二人の関係というものはうまく回らなくなることが多々ある。その一人が中心にあったためだった。シキは仕事に、マサキは適当に置いてあるもの、触ってもよいだろうものを見繕って、捲ったり触ったりしていた。
「シキはさー」
「はい」
「アマーリエのこと、イイなー、って思ったりしないわけ?」
 さきほど穏やかに笑っていた瞳は、今は絶対零度の冷たさだ。もちろん、マサキの質問に怒っているのだろう。
「仰っていることが分かりかねます」
「分かってるくせに」
 マサキは本を放り出し頭の後ろで手を組んだ。
「俺、あいつのことイイなって思うぜ。かわいい。フツーすぎてどこがいいのか分かんねえけど。でもあいつが時計の話してすんげー嬉しそうな顔したとき、すげー傷付いた」
 多分、彼女本人はそんな顔をした自覚はないだろう。頬を染めて目元を緩まし、本人を見るような優しい目で贈られた物に触れる。そこには、想いがある。そこにあると分からない花は、彼女の足下で芽を吹いている。
 その光景を遠くに見た時、マサキは、(ああ、好きだな)、そう思った。
「ほとんど接点のない僕にその話をする理由は?」
「牽制。と、どっかから話洩れねえかなって期待」
 言って、外に目を向けた。今は気配は消えている。アマーリエの後を追ったのだろう。キヨツグか長老家の誰かまでは分からないが。アマーリエもシキも気付いてもいないはず。分かるのはそういうものに長年晒された者くらいだ。
「なら残念でしたね。僕は喋りませんよ、何もない限り」
「何かって?」
「天様、あるいは真様に害悪であること、です。お分かりですか、ここは僕たちの領域ですよ。その気になれば毒を盛るくらい簡単です」
「きっつー」
 マサキは笑って腰を上げた。部屋を出て行きながら、口にする。
「アマーリエが望んでいるものがここにあるとは限らない。あいつがここで得るものは本当にあいつの欲しいものなのか?」
 シキは目をすがめていた。話を聞かれていたと不快、というより何を言うのか見定めようとしている。
「俺は望むなら全部与えてやりたい。茶ぁくらいいつでも入れてやるし、機械が欲しいならいくらでもやる。それでありがとうって笑ってくれるなら、安いもんだ」
 側にいてほしいというのなら、仕事なんてくそくらえだ。
 言うと、シキはため息をついた。
「あなたが族長に就任しなくてよかったと思いますよ」
「一人の人間を悲しませるくらいなら、そんなもんいらねえよ」
 吐き捨てた。ずっとそう思っていた。選びたいものを選べない生き方なんてしたくなかったし、嫌っていた。強要する周囲に反発もして、しかしそのおかげでうまく生きられる術を身につけたと思っている。
「あいつがここに居場所がないって言ったら、俺が連れていく」
 そういう決意も手に入れた。
「僕に言っても意味はないと思いますよ。戯れ言はこれまでにしましょう」
 用がないならお引き取り下さいと言った彼は背を向けた。マサキも前半部分には同意だったので大人しく出て行く。だが、出て行ってから少しだけ足を止めると、遅れて机に拳を叩き付ける音、「くそ」と押し殺した声が聞こえ、満足してその場を離れた。

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