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 ある日、ふと庭園の植木が目に入った。どの季節でも見目麗しいように植わっている花木は、冬の今は寒々しくはあるが、緑の濃さと枝だけの木の凛とした冷たさのようなものが感じられていた。花が咲く春はもっと美しいのだろうと想像する。
 しかし、午前中ハナの授業を受けたアマーリエは、そちらよりも枯れ木についている黄色い実に心奪われていた。その他にも、常緑樹の棘の葉や、地面に生えている茂みの青い種。きっと勝手に実が落ちたり葉が枯れたりして捨てられるのだろう。
「そろそろあの実が落ちそう……あ、あれ花が咲くと効用が薄れるのに……」
 でもあれを使えば薬ができるのになあ、という、風流もへったくれもない考えのもとだった。
 咲いた花を愛でることは知っているものの、どうも今はどういう植物かどういう効能を持っているかという知識が欲しい意識の方が強くて、ふと庭の木々に気付いて足を止めた次第である。そして、今はひとりだった。女官たちはそれぞれの仕事に向かってもらっていて、いつも側にいるアイにも先に行くように言ったのだ。
 廊下に人通りはない。あまり人が通らない場所らしい。隠れる場所もありそうだし、入っても問題ないのではないか。そう考えた末に、一つ頷くと裾を持って庭に出た。
 花が咲く前の本葉を選んで、広げた布に摘んでいく。そして手を伸ばし、あちこちの木の葉や実をもいでいく。枝と枝の間の実がとても熟して大きく、宝石のようだった。
「……真?」
「アマーリエ?」
「!!」
 声に飛び上がったその瞬間、思いっきり枝に手を走らせてしまった。
「いった!」
 ばらばらと葉と実が落ちる。手の甲に短いが深い引っ掻き傷が出来、血が指の間を伝っていった。その手を、横から取られた。
「……切ったのか」
「うっわ、ちょっと血ぃ出過ぎ。待ってろ、医者を」
 マサキが身を翻して誰かを探しにいく。
 取られた手はずきんずきんと規則正しく疼き、時折痛みで指先が硬直する。傷口に何か刺さっている様子はないようだと、彼の手の中の自分のそれをまじまじと見ていると、その手がおもむろに。
「き」
 彼の口に寄せられて。
「――っ!?」
 舐められた。
「ききききキヨツグ様!?」
 生暖かさにぞわぞわとする背筋。膝が崩れたのをキヨツグが支える。
「……気分が悪いのか。大丈夫か?」
 くらくら、目眩がする。胸がうるさい。触れられているところが熱くて、なんだかこのまましがみつきたい。無茶苦茶になって自分を見失ってしまいそうだった。
「き、気持ち悪くないんですか……」
「……何がだ?」
 だって他人の血を。リリスじゃないヒト族の血を舐めて。違う、ヒト族でも他人の血を舐めたりはしない。人の血に触ることには勇気がいる。不衛生だったり感染症の危険を考えたり、その色が警戒を呼ぶからだってあるのだ。この人は変だ。分からない。どうしたらいいのだろう。
 慣れた手つきで止血される手よりも、怜悧なキヨツグの顔を見ていた。
(どうしてここまで私にしてくれるの……)
「マサキ。リュウ殿を呼べ。……マサキ?」
「……え?」
 そこに立ち尽くしていたマサキが、呼び声に身を震わせた。
「……あ、ああ、はい、行きます」
 夢を見ていたかのように彼は頭を振り、すぐさま走っていった。

 手当を受けると「お気をつけ下さい」とリュウに言われ、アマーリエはしょんぼりと手当を受けた。だが、アマーリエの怪我の理由を聞くなりリュウは腹を抱えて笑い、心配げにしていたシキも呆れたため息をつくので、今度は身の置き場がなくなってしまった。
「庭の木の実なんて。無茶しちゃだめじゃないか。ああいうのは、君の場合女官の方に取ってもらえばいいんだよ」
「ごめんなさい……」
 キヨツグは呆れただろうなと思う。何も言われなかったのだ。リュウの手当を見届けると、そのまま仕事に戻っていった。だめだなあと思う。あの人のことはよく分からないけれど、でも普通好もしく思ってもらえる方向の行動が出来ていないのだった。
「アマーリエ、君一人の身体じゃないんだよ」
 シキが言うので、ぽかんとして次に噴き出した。
「アマーリエ」
「ご、ごめんなさい。なんだか新婚さんみたいな言葉だなって思って」
 シキがすっと表情をなくし、息を吐いた。
「当然じゃないか、君は真夫人なんだから」
「……役に立たなくても?」
「誰がそんなこと言ったんだい」
 首を振った。自分でも何故そんな言葉が出たのか分からない。
「ごめんなさい、独り言」
 でも何も出来ていないというのは、本当だ。キヨツグはあれだけ大切に扱ってくれるが、自分はまったく何も出来ていない。真としての役目を思うと胸がざわつく。背筋が冷えて、心臓が震える感覚がして息が苦しくなる。緊張しているのか、恐怖しているのか。でも役目に対してではない。では、何に。
(考えて……考え……考えちゃ……)
「アマーリエ」
 はっとして顔を上げる。シキが真剣な顔で額にかかる髪を掻きあげる。そこに手を置いて熱を測っているのだった。よっぽど顔色が悪かったのだろうか。なんとなく、思考にストップをかけられた気がしてほっとしたと思った。
「大丈夫。私、早く一人前にならなくちゃ」
 明るさを心がけて頷きながら言った。シキは複雑そうだったが、アマーリエはもう一つ、大丈夫だよと頷いた。

   *

 物言いたげにしているマサキに目を向けた。
「どうした」
「……いえ」
 そう断るもののやはりちらちらとこちらを見ていた。しかし追求はせずに自分の仕事に集中する。
 今読んでいるのはアマーリエの教科書、マサキに贈られた『コンピューター総合実習』やら『情報処理』『情報社会』と題名のふられた分厚い書物である。完全な理解には至らないが、疑問点を手元の紙に書き出してある。マサキも同じようにして、更に自身のつてで疑問を明らかにする書物を手に入れている様子だった。
 読んで感じたのは、都市とリリスはかなり異なった文明を持っていることだった。リリスが禁じているのは都市的な機械、主に電力を使うものである。リリスはそれらの代わりに火を使い、例えば、火を扱った際に出る煙を床下などに張り巡らせた筒に通して暖房としている。しかし利便性から言えば、当然電力の方が消費が少なくかつ広範囲に行き渡らせることが出来る。
 草原に開発の手は入れないというのがリリスだ。それはキヨツグも同意する。しかし、閉鎖的なリリスのままで良いのかと考えるのだ。
「……天様は……」
 マサキが口を開いた。
「真サマのこと、大切なんですね」
 何を言い出すのかと手を止めた。まったく読んでいるものにそぐわない。マサキは顔を上げない、振り向かない。いつの間にか背中を向けて頁を繰っている。声の質だけがひどく低い。
「だって、そうでしょう。何でもない相手に、あれは出来ない」
「昼間のことか? ……あれはまずかった」
 マサキはようやく振り返った。
「まずい?」
「舐めても、消毒にも止血にもならぬ。あれに悪いことをしたと思っていた」
 流れる血に焦って反射的に唇を寄せてしまったのだ。他人に舐められるのはさぞ気分が悪かろうと思ったのは手当を見届けて医務室を出てからだった。だが謝罪する機会を逃し、今に至る。
 マサキは不思議な表情を浮かべていた。
「……まあ、オイシイって言われるよりいいですけどね」
「美味いはずなかろう」
 そう言って、しばらくお互いに書物に入り込む時間があった。ずっと手元に目を落としていたため、鈍くなりつつあった肩をくるりと回していたら、集中が途切れ、不意に、大切、という言葉が浮かぶ。
 大切。それは口にする場合『重要』とは意味合いが違う。都市の花嫁はリリスにとって重要だが、あの少女は同じ言葉でくくれるだろうか。あの、華奢な花のような娘は。野に咲く花と飾られた花の違いほどのようなものを、感じた。

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