―――― 第 6 章
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 どんと床に茶碗を置く音で我に返った。顔を上げると、ハナが目を閉じて深く息を吐いている。その眉間には微かに皺があり、アマーリエは自分が意識を飛ばしていたことに気付いて慌てた。教えを受けている身でひどく無礼だった。何か言おうとする前に「今日はここまでにいたします」とハナが講義終了を告げ、アマーリエとしては申し訳なくて肩を落とすしかない。
「すみません」
「いいえ。でも、その気鬱の原因は何ですか?」
 気鬱。別に落ち込んでいるわけではない。あの真昼の虹の日のことを思い出しているだけだ。綺麗な空の下に二人がいて、何かが通い、何かが通わなかった。アマーリエはキヨツグを怒らせてそれ以来会っていない。いつも会うわけではないが、しかし会わないという事実がひどくくっきりと浮かび上がる。あの時、あの人は何かに気付いた。でもアマーリエは何も気付かなかった。私に何が分からなかったのだろうと思ったのだった。
 アマーリエは分かりませんの意思表示に首を振る。
 目の前でお茶を入れられるのを見るのはもうほとんど違和感がなく、茶碗にお茶を注ぐ急須が離れると自動的に手を取っていた。すっと口に含む。
 が、ふと渋みが違った。いつもより甘味もある。驚いて茶碗の中を見ると、紅い。
「どうしたの、これ」
 ハナを見て、お茶を入れてくれたアイを見ると、アイは微笑んだ。
「天様が用意せよと申されたお茶ですわ」
 天様、の言葉にびくんとする。
「で、でも、都市から輸入はできないよね」
「ええ。ですから、直産地へ赴いて直接購入したんですわ」
「リリスでは輸入に頼ることはありませんから、これが初めてのことですね。とても美味しい」
 杯の中の紅茶を見る。焼き物の茶碗の白に紅いお茶が映えていて、リリスの砂糖は黒くて、底の方に黒い小さな粒が沈んでいる。素朴に甘く、ほんの少しほろ苦い。湯気が瞼にかかって目を閉じる。
「真様、愛されていらっしゃいますねえ」
 顔を上げた。すると、アイも、ハナも、部屋にいたすべての人たちが笑っている。
「あ」いされてるって。
 混乱して言葉が浮かばない。あいされているとはどう書いたか。
「……え、愛?」
 文字が浮かぶと言葉が出なくなった。ぱくぱくと口を開け閉めするアマーリエに、彼女たちはうふふと笑う。それを見ていると段々恥ずかしくなってきて、顔に熱が上っていくのが感じられた。
「そういえば、この間商人を呼んでおられたようですが、あれもですか?」
「ええ、真様の御衣装を。真様ったら、あまり御衣装に頓着されませんから、わたくしたちが口出しさせていただいているんですけど」
「そうですわ、もっと着飾ってもよろしいぐらいですわ!」
 一人がどんと手をついた。かんざし係の娘である。続いて他の娘たちも集まってアマーリエに迫った。
「御髪も」
「お化粧も」
「その他お湯浴みや爪磨きに至るまで!」
「もっと派手に! 天様を悩殺するんですわ!」
 の、のうさつ……と目眩を覚えた。だが冷静になって考えてみると、あの人の愛情はきっと義務と優しさだと思うのだった。彼は、政略結婚の相手に誠意を尽くしているに過ぎない。
「そんなわけ、ないよ」
 落とした声は周囲に影を落とした。彼女たちは動きを止め、ゆっくりと後ろに下がってアマーリエを見ていた。
「そんなわけないと思う。だって、政略結婚だったんだから」
 政略結婚に恋愛はない。政略であって想いを通わせるものではないからだ。政略にあるのは打算と利益。付属するのは平和でも、アマーリエが望む想いの通いではない。
「政略結婚にだって愛はありますわ。作ればいいんです。……まさかそれとも、天様がひどい仕打ちを?」
 アイが勢い込んだが、不安そうに柳眉を寄せた。アマーリエが首を振ると「だったら」と更に言おうとした。
「キヨツグ様はすごく優しい。でも」
 優しいだけじゃ、恋にはならない。
 義務からの優しさだから。彼はきっと、アマーリエをここに嫁がせた責任を感じている。いなくなったのを探しに来てくれたのは、それがリリスの王たる彼の責任だからだ。ヒト族と取引をしたリリスの王であるからだ。彼には、アマーリエを保護する義務がある。だからアマーリエもここにいることを許されている。
 みんな顔を見合わせ、問いかけるのを躊躇った末に。
「……真様は、天様のことをどう、」
「お、なぁんかいいニオイ!」
 アイが何事か問おうとした時に顔を出したのはマサキだった。あの窓からぶらさがるように身を乗り出し、アマーリエたちが手をつけた紅茶と茶菓子を見ている。アイやハナは慌てて叩頭した。
 窓から覗くような人間に頭を下げねばならないとは、アイたちが可哀想だ。「またそんなところから」と眉をひそめる。
「いいじゃん、別に。頑張ってるとこ見に来てやったのに」
「頼んでないよ」
 にこーっとマサキは嬉しそうにすると、叩頭しているハナに目を向けた。
「リュウ、授業は終わりだな。真サマを連れていくけど問題ないな」
 アマーリエは驚いた。あまりにも断定的な口調だったのだ。いつも茶化して軽い口ぶりのマサキからは想像もつかないもの。アマーリエがいさめようとすると、ハナが答えた。
「はい、わたくしめの講義は終わりましたゆえ」
 マサキは笑う。それは少し偉そうで、アマーリエは良くないのではと眉を寄せる。あまり見ていて気持ちいいものではない。
「じゃ、表回る」
 そう言って部屋の外の方へマサキが消えていくと、アイたちは頭を上げてため息をついた。
「すみません」
 マサキの代わりに謝罪する。アマーリエ自身が講義を止めてしまっていたが、続きをお願いするつもりだった。それもわがままと言えばそうだろうが、しかしマサキのあれは、どう考えても自分勝手だった。
「真様が謝罪されることではありませんよ。それでは、また明後日お窺いさせていただきます」
 揃って手をつき頭を下げる。サコに高貴な者は頭を深々と下げないという話をされていたが、教えを請うている者として当然のことをしているつもりだったので、必要でないかぎり自分を通すことにしていたのだった。
 ハナは去って、アイたちに衣装を整えられたアマーリエは、外で待っていたマサキに連れられて彼の部屋に向かった。


 部屋に入り、足を止めた。部屋がこの前より狭くなっている。壁が黒く張り出しているせいだ、機械によって。
「また増えてない?」
 へっへっと悪そうにマサキは笑う。
「王宮にこんなに持ち込んで、怒られないの?」
「怒れるような立場の奴いねえし。立場にある人は大体黙認してくれてるよ。天サマとか」
 少々の疑いをもって、ふうん、と相槌を打つ。彼は初対面の時に咎められていたが、あれは怒れるような立場にいない人物なのだろう。だがここまで明らかだと色々黙認するのも難しいのではないか。
「信じてねえな。これでも俺、天サマ、あんときは従兄上って呼んでたけど、あの人と族長の座争いしたし」
「じゃあ、マサキが天様だったかもしれないんだ」
「そそ」
「うっわ、そんなのごめんだ」
「え、ひでえ!」
 顔を見合わせて笑った。
「でも、惜しいことした。族長だったら良かったのにって、最近よく思う」
「え?」
 笑いながら顔を見ると、アマーリエの笑みは引っ込んだ。彼は、少し寂しげだったが、優しく微笑んで、席を立つ。お茶道具を一式持ってきて、医務室の時のように丁寧にお茶を入れてくれる。
「そういえばさ、虹、見た?」
「虹? 今日?」
「いや、この前の天気雨の」
 黄色い空の下の虹のことだった。問いの意味が分からずに言葉はなく頷くだけにしておく。するとマサキは軽く息を吐いた。
「まあ見たよな。うん、あの状況じゃ、二人で見たのが丸分かりだったし」
 確認だったらしかった。嘘をつく必要性を感じなかったが、嘘をつかなくて良かったとほっとする。だが、二人でという言葉が引っかかった。あの時、確かにアマーリエは一人ではなかった。
「……見てたの?」
「見てた」
 ためらいもなくマサキは頷き、アマーリエはあの時の状況を思い出して赤くなった。だって、抱きしめられた。とても強く。あの時の感触を思い出して、少し身体が強ばり、震えた。
 俯くアマーリエを見ていたマサキがゆっくりと問いかけた。
「なんで、突き飛ばさなかったワケ?」
 驚いてマサキを見つめぽかんと口を開けた。
 マサキは真剣だった。逃げも妥協も許さない、譲歩しない目だ。表情が感じられず、目だけが光って見える。
 狼狽えて、必死に考える。
 突き飛ばさなかった、けれど。でもそこには何もない。あの時は混乱ばかりがあった。ただ抱きしめられて、驚いて戸惑って、どうしたらいいのか分からなくて。ただ音を聞いてた。温もりを感じた。生き物の抱える心の音。思い出せば、応じるように胸が鳴る。
「わ、分からない、よ」
 喉が渇いて掠れた声で答えていた。マサキは、目を眇め、そして伏せた。
 沈黙が落ちる。茶は冷めてきているのか、少しずつ湯気の勢いを弱めてきていた。冷めれば少し苦みを増すだろう。そんなものを見ていても、何を見ても、何を言っていいのか分からない。
 するとマサキは、懐から何かを床の上に置いた。
「これ、やる」
 見れば、四角い小さな石のようなものだった。まだどきどきしながら取り上げ、見てみると見覚えのある電気製品会社のロゴが刻まれている。小型バッテリーに見えるけど、と疑いを持ちつつ取り上げると確かにそれだった。
「え、す、すごい、バッテリーだ。しかもこれ、永久機関じゃないの?」
「よく分かんねえけど、使えなくなったら太陽に下に出しておけばずっと使えるらしい。携帯電話に使えるかって聞いたら大丈夫だって言われたぜ。でも型ってあるんだよな。大丈夫か?」
「うん、ちょっと待って……入れてみる」
 携帯電話の電源を切っていることを確認して、バッテリーを入れ替える。外した四角い穴にかちりと嵌まり、蓋をして電源を入れると、減っていたバッテリーが三つすべて回復していた。
「やった、すごい、ありがとう、マサキ」
 心なしか携帯電話が喜びを発している気がする。とても温かく、しっかりした影や重みを感じさせていた。思わず笑みを浮かべてお礼を言った。
 だがマサキの様子がおかしかった。笑いたいような泣きたいような顔をして、アマーリエに手を伸ばした。
 アマーリエの手から携帯電話が滑り落ちた。ごとりと鈍く、床にぶつかる大きな音。頭を抱えるようにする手の平と、耳元での声が懸命に告げる。
「アマーリエ。あんたが好きだ」
 抱きしめられていた。
「あの時、あそこにいるのがなんで俺じゃないんだろうって思った。そう思った時、俺、あんたが好きだって気付いた。俺なら守ってやれる。あんたの大事なものを。排除したりなんかしない。機械が欲しければ機械を使えばいい。帰りたいなら帰してやる。今のここは間違ってる。あんたはもっと、自由に生きるべきだ。うんって言えよ、アマーリエ。俺が何でもしてやる」
 マサキは熱に浮かされたような声で話している。次第に強さを増して、ぎゅうと腕の力が強くなった。
「マサ、キ」
 チャンネルを切り替えるように、帰りたい、と思った気持ちが降りてきた。ビルの間の狭い空、いがらっぽい空気と排ガスのにおい、アスファルトの道、自動車、信号。オーディオプレイヤーを聞いて乗る電車。大学のざわめき、食堂の食器の音、眠たい講義のうたたね。朝の紅茶の色。自分で作る簡単な食事。一人きりの部屋。
 それらが一瞬にして薄暗い行灯の光だけの部屋に変わる。背中の温もりは初めてだった。誰かが側に眠る、記憶の始まりだった。
 星を見た。
 夕陽を見た。ひとりではなかった。
 虹を、見ていた。ふたりでいた。
 気付けばマサキが遠かった。突き飛ばしていたのだった。
「ごめん」
 マサキは驚いている。アマーリエにも自身の行動の由縁が分からない。
「ごめんなさい」
 厳しい顔をしていた。その目の前で自分自身分からないなりに口をついて出たのは謝罪だったが、何を謝罪するべきなのか意味を知らない。
 怖くなった。マサキはこれまでに見たどんな男性たちとも違って、自分の思いに忠実であっても傷付いた顔をしていた。アマーリエもまた自分が分からなかった。何が悪いのか、何も悪くないのか、誰が悪くて悪くないのか。裾を手繰り、掴まれないよう早足で逃げ出す。
「俺は諦めない!」
 部屋を出る直前声が追いかけてきた。矢で裾を縫い止められたようになり、一瞬立ちすくんだが、必死に足を動かした。
「俺は諦めない」
 声は暴れそうになる感情を押し殺していた。
 その声を聞いて思った。悪いのは、同じだけの思いを抱けない自分なのだと。彼ほどの思いを抱けない。でも、どれほどの思いを恋と呼ぶの。

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