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 落花の手綱が知らず知らずに緩んでおり、主人の様子に気付いたらしい彼女は駆けていた足を緩めた。アマーリエとしては不意に足を止めたように感じたので、混乱して落花に声をかける。だが落花は鼻を鳴らし、戸惑ったように蹄で地面を掻いている。近くで見ていたユメも近付いてきた。
「如何されました」
「あの、突然、止まってしまって」
「そうではありませぬ。真様の気鬱の原因をお尋ね申し上げているのです」
 思わず頭を抱えた。また人に心配をかけて、迷惑をかけてしまったのだ。どうしてこうなんだろうと思う。誰も悪くない、心配してくれているだけだ。悪いのは自分自身だから、自分でなんとかしなくてはならない。
「心配事がございますか」
「……あの」
 大丈夫と言おうとした。
「馬をお下りください」
 だが言われて下りる。落花がアマーリエに顔を近付け、それを撫でてやると、満足したように頷いて馬場の広い方へと向かっていった。たてがみや尾が揺らしていく。心地よい風を感じる走り方だ。
「私が乗るよりも気持ちよさそう」
「あと少しです。あとひとつ呼吸が揃えば、落花も真様も自由に駆けられまする」
 最初は落馬ばかりだったのに、ほぼ毎日少しずつ練習してきたら今は軽く駆けさせるくらいは楽にできるようになった。全力疾走はさすがに危ないと思っていたし周囲も止めていたが、いつか好きに駆けていけたらいいと思う。都市にいた頃とは考えられないことが数多くあって、それを少しずつ日常にしていた。『アマーリエ』は、あの時とは別のものになっている気がする。少なくとも、都市を出た時点でヒトではなさそうだった。
 目を閉じて風を感じた。ここを渡っていく風はどこから吹いているのだろう。
「御前は、どうしてこの仕事に?」
「私ですか? オウギを、ご存知ですか?」
 頷く。キヨツグの補佐官兼護衛官の、表情も動かさない喋りもしない男性だ。顔と名前は知っているし紹介もされたが、会話をしたことがない。いつもキヨツグの側に付き従って、影か空気かという人の印象がある。だが都市では揶揄になってしまう影や空気という言葉も、彼に当てはめる場合少しニュアンスが違って、当然としてあるもの、なくてはならないものといった意味合いがあるように思う。そういう思いを込めて頷いた。
「私はオウギが大好きだったのでございます。オウギと同じことをしたかった。ずっと追いかけていくつもりでございました。ですが、それで虚しくないのかとある人物に言われたのです。それがなまじ私と正反対にいた人間でございましたゆえ、私は怒髪天を突く勢いでその者を嫌悪しました」
「……でも、あなたはここにいる」
 ユメは溢れるように笑う。
「はい。他に何が出来るのか私には分からず、一度は旅に出ようと思いました。ですが、大嫌いだったその者に言われたのです。『逃げるんだな』と」
 もしアマーリエが言われたのなら、泣きながらそれのどこが悪いのだと言いそうだ。もしくはどうしろと言うんだと掴み掛かるか。しかし、今のユメの顔は晴れやかだった。
「殴りつけてしまいました。ならあなたはどうすればいいというのだと、言って掴み掛かりました。『お前は何をしたい』と聞かれて、私はずっとオウギのようになりたかったのだと告白して。すると彼は言いました」
『なら、それを目指し続けろ』
「……目指し続けたんだから、何を言われても目指し続けろ、ってこと……?」
 頷くユメは嬉しそうで、この話を大切に胸に抱いていたのが分かる表情だった。
「それから、彼の言葉を胸に抱き続けました。そして一度旅に出ました。実は、そこで死にかけたことがございまして」
 目を丸くするアマーリエに、照れくさそうに頭を掻くユメ。いやそこは照れくさく笑うところではないだろう。死にかけたのはとうに思い出らしい。
「もう帰れぬのだと思った時、最後の瞬間心残りがあったとしたら、私の場合、彼に恨み言を言うことでした。その時、帰らなければならないと強く思ったのです。そして、そういう時が他の方にも訪れ、自分のことではなく誰かのことが浮かんだのならば、それは、きっと、真実なのです」
 そうして、ユメは空を仰いだ。つられて見上げた空には青と白と黒しかない。黒い点、翼を広げ空を行く鳥には、目指すものがあるのだろうか。どこへ行こうとしているのだろう。
「お互いを嫌ってもそれでも相手を思い続けることはあるものです。私にとって、それは初めての恋の形にございました」
 蒼穹にその語りは素晴らしい物語として映り、聞こえた。
 厳しいことを言われて相手を嫌った。それでも最後だと思った瞬間に恨み言を言わなければと相手が浮かんだ。帰らなければと思った。目指すものは何を言われても目指せと言った男性は、ユメの未来を繋いだ。ユメ自身の力も、未来を紡ぐ。
 真実の思い。相手を思う心。
 そういう恋はどこにあるのだろう。
「あなた様にもきっと、訪れまする」
 ふっと見ればユメが口元に微笑を浮かべていた。それでアマーリエは苦笑した。彼女は、アマーリエが何に思い悩んでいるのか見当をつけているのだろう。
 彼女の言葉は、本当なのだろうか。ユメは出会った、出会えた。そんな出会いは、政略結婚したアマーリエにも訪れるのだろうか。死にかけるようなことは絶対ないとは言い切れないけれど、確率は絶対的に低い。最後に思い浮かぶ人なんて、もしかしたら、それは最期の瞬間にしか分からないのではないか。恋を知らずに生きて、最期の瞬間にしか知らず、誰にもその花は見られることなく散る。光は消える。それはとても確かな未来に思える。
 懐にこつりと指先が当たった。時計だった。それを意識して、息を吸う。
 生き物のにおいはもう慣れた。リリスの全てに段々と慣れてきているのに、少しぎこちないのは何故なのか。
 理由は知っている。もう気付いた。アマーリエがリリスではないからだ。
「私、ここが好き」
 それは確かな思いだった。
「最初は少し嫌だったけど、でも暮らしていくうちに、リリスにはリリスの世界が、私の今までの世界に寄り添うようにしてあったんだなと思って。心が、ちゃんと存在してるんだなって思って」
 ちょっと、というのは少し嘘だった。本当はとても嫌で、逃げ出した過去がある。なのに好きだと言うのは、少し現金でずるい気がした。本当に、嫌な人間だと思う。
「心があると、好きになってほしいと思うんだ。でも、好きになってもらっても、何をどうすれば応えられるか分からない。自分が同じだけの好きの気持ちを持ってるのかも」
 好きとか恋とか愛とか、都市でもどこにいても分からなかった。寄せられる思いが本当なのかも分からなかったし、抱いている好意がどんなものかもよく分からない。この気持ちは何と呼ぶのか。どれがこの思いの言葉に当てはまるのか。笑えば嬉しかったし、泣けば悲しくて慰めてあげたい。楽しいおしゃべりは好きで、この人とは友達になっていたいと思う。
 でも誰かに対して泣きたい気持ちになるのは何故。恥ずかしいような笑ってしまいたくなる気持ちは何て呼ぶの。胸が痛むのはどうして。どくんと鳴る胸の意味は。
「都市では違うのでございますか」
 アマーリエは首を振った。何か浮かびそうになったものが消えていくが、気付かないまま。
「都市でも同じ。でも、今ほど難しくなかった気がするの。だって、嫌だと思えば関わらなければいいんだから」
 夜眠る前に解いた糸を、朝目覚めて繋いでいく。必要なければ切り、不用意に切れることもある。あのすぐに切れてしまう弱い糸が、少し懐かしい。思春期の頃は冷めた気持ちで、世界はそういう風だからくだらなくて誰もが孤独だと思って嫌悪していたのに。あそこは、世界だった。アマーリエの世界だった。世界は、最後には愛される。殺すことが出来ないからだ。
「真様は……」
 ユメが言いかけて口をつぐむ。だが首を振った後、言った。
「真様はご立派です。人々の評判を聞いたことはございませんか。ヒト族の今代真夫人は、リリスに教えを乞うてリリスの風習を学ぶ幼い方、親しみ深く毎日挨拶の言葉を投げかけてくださる御人だと」
 目を丸くした。初耳だった。自分がどんな噂をされているか聞くほど、恐ろしいものはない。
「だ、だって、それって当然のことじゃないの? リリスの一員になったんだから、郷に入っては郷に従えっていう……言わない?」
 笑ったのを見て、アマーリエは不安になる。いいえとユメは断り。
「そのお気持ちを抱き続けられますよう。誰かが真様に好意を寄せるのは、真様が周囲を好もしく思っているからでございます。真様が裏切らないかぎり、誰も裏切りませぬ」
 そして最後に「思いは、量れませぬ」と言って、落花を呼んだ。
「分かってる」呟いた言葉は拗ねて聞こえた。聞こえたのが自分でも分かり、恥ずかしくて顔を見られない。だがユメは切った会話を再び繋げた。
「お分かりではありませぬ。同じだけの思いを抱くことなど、誰にも出来ませぬ」
 ならどうして恋愛は成立するの、とは、聞けなかった。

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