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 裏切らないかぎり、裏切られない。その言葉を開いた本の上に見た。実際にはどこにも書いていないが、文字がひとつひとつ浮かんでアマーリエに一つの言葉となってみせる。疲れてきているようだと目を押さえた。閉じた暗闇の中で声がする。なら、帰りたいと思うのは裏切りなのだろうか。
 マサキの顔がよぎる。真剣な顔。声。抱きしめられた。帰りたいなら帰してやると言った熱。
 帰りたいと思う気持ちは心にあった。今でも都市を思い出すと、胸がどくんと鳴ってざわざわと動いているのだから確かなことだ。思い出したのは景色ばかりで、人の顔はなかったように思う。ただ。
 ただ、と思う。景色の中に、感じた温もりと姿があったように思う。あの時、記憶の景色に羽ばたいていた自分が、ふと地上に目をやった瞬間に何かを見たような感覚。何かを認めた。足を止めなければと思った答え。
 戸が開いた。音もなかったが気配で分かり振り返る。驚いた顔と目が合った。
「真。……まだ起きていたのか」
 彼の声にも驚きがある。不意に、今日マサキに告白されたことを思い出して俯いた。顔を赤くしてはならないと思いつつも、逸らした目が泳ぐ。
「は、はい。予習と、復習をしようと、その、思って。今日は、私の都合で、授業を中止というか、中断、してしまったので……」
 と、違和感が襲う。なんだろうと思ってキヨツグを見ていたが、分かった。キヨツグは、寝間着ではない。
「……眠ってますか?」
「……何故そんなことを訊く」
「ずっと不思議だったんです。本当にあなたは眠っているのかなって。私が聞いているのは、『ここで』ってことです」
 この部屋、と指を指す。瞬きをしていた彼は観念したのか、深々と息を吐いて告白した。
「……確かに、ここでは眠っていない」
 やっぱり! とアマーリエは目を吊り上げる。だが、もし彼が自分といるのを嫌がっているとしたら。急に勢いが萎んでいく。肩を落としたのはアマーリエの方だった。
「……あの……すみません。部屋、別がいいなら、そうして下さい。私に対する気遣いとか、しないでください。リリスは一夫多妻の風習が昔あったって聞きました。少し前の天様にも奥方が複数いたって聞きましたし、別の奥方が必要なら、そうして下さい」
「何故そうなる!」
 キヨツグの低く怒った声が響いて飛び上がった。また怒らせたと気付いて青くなる。そう、自分は以前にも彼を怒らせている。だからまた嫌われるかもしれない。
 キヨツグの顔に後悔に似たものがよぎった。厳しかった目元が少しだけ和らいだが、完全に殺すことは出来ず目を逸らす。同じく押し殺した低い声が言った。
「……私は他に妻を迎えようとは思わぬ。いらぬ考えを働かせるな」
「すみません……」
 ため息が重い。窺い見た横顔は疲労の色が濃く、相変わらず綺麗だった。影の中で光るくらいに。
「……お前こそ、どうなのだ」
「どう、って……?」
 低すぎた上に簡潔すぎて問い返す。彼はちらりと目だけをこちらにやって。
「……思う相手はいなかったのか」
 とてもつもない痛みが胸に走った。その理由が分からなくて胸を押さて俯き、目を白黒させた。思い浮かんだ相手などいない。ここにいるのは彼だけで、彼に問われただけだ。それに傷付いたのか? そうだとしても、でもどうして。
「い、ません……。男性とお付き合いしたことって、ない、ので」
 交際やそれに至るあれこれを飛ばして、また交際後のすべてを経ないで結婚したので、アマーリエには彼の考えがよく分からない。きちんと手順を踏んで結婚した人なら、伴侶のことは分かるのだろうと思う。なんだか、ひどく悲しかった。
「……何故……のか」
 キヨツグが呟いた。聞こえなかったが顔を上げる。同じものではないらしい言葉がもう一度、聞こえた。どうしたらいいのだろうと彼は途方に暮れている様子で綺麗な顔を拗ねるようにして呟いていた。きょとんとしてしまう。言われても、アマーリエにだって分からない。
 キヨツグは立ち上がる。
「……眠れ。私はまだ仕事がある」
 戸が閉められる。また寝室に一人。何もかも中途半端に放り出されて、うまく考えることが出来ない。
 のろのろと机に向かい直したものの、アマーリエは勉強に集中できず、もぞもぞと布団に潜った。そういえば、今日は毛布をかけてくれなかったから、一人で寄せ集めてくるまった。

   *

 当たり散らすような仕事ぶりを、オウギは指摘しなかった。恐らく何があったのか察しているのだろう。キヨツグも言わなかった。言う必要もないのだ。言えるだろうか、リリスでも大人とされる三十一歳という年齢の男が、ひとりの娘に溺れた時ほど執着しているなどと。
 思えばその気配は最初からあったのだ。出会いから、ここに至るまで。決して必要以上に会おうとしなかった、仕事を理由にしていたのは、こうなると深い部分で理解していたためではなかったか。一方でいなくなることを恐れているなど、どこの恋愛絵巻よりも陳腐に過ぎる。
「失礼致します。天様、片付けられた書類をお運びしてもよろしいですか?」
「頼む」
 現れたユメに書類を託し、片付けぶりを見ていた。そして、尋ねた。
「あれの様子は?」
 ユメはぴたりと手を止めた。不思議そうに首を傾げる。
「先程お答えした通りにございます」
 そうだったとキヨツグは額を押さえた。先程同じように書類を持っていくところに、同じ言葉で尋ねたのだ。気になる笑い方を隠そうとせずにユメは微笑んでいる。
「すまぬ」
「いいえ。……心配でございますか?」
 心配なのは、確かだった。他に妻をなどとあんなことを言い出すのは、何か理由あってのことかと思い、ユメに昼間のことを尋ねた。同じだけの思いを抱けるかを話していたのだという。しかし、こちらのことに気付いた様子はなかった。会うことを必要最低限にしていたのが無意識に思いを隠すための意味もあったのだとすると、なんという周到さだろうと己を詰りたくなる。それでいてお前には思う相手がいなかったのか尋ねるなど、自虐嗜好にも程がある。
 何故分からないのか。
 分からせないようにしているからだ。
 それほどまでに隠すのは、あれが、同じだけの思いを抱くことはないだろうと思うからだ。
 額を押さえていた手で、拳を作る。同じだけの思いを抱くことは出来ない。だが推し量ることは出来る。そして、キヨツグは最初から分かっていたのだ。ここに強いたのは自分自身であるのなら、奪ったのがそうであるなら、決して心は手に出来ない。あの問いは酷い。そして、これまでの行動も。割り切りきれぬなど、子どもにも程がある。
 目を閉じ、アマーリエを思った。どこにも行けないのなら、居場所はここなのだ。もうここなのだと、知らせる必要があるように思われた。

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