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 隣にいる人は恋人だと理屈抜きで感じていた。指を絡め合って手を繋いでいるが、温もりは感じられない。同じ体温が混ざり合うようになっていて、手を繋いでいるという認識だけがある。耳元に唇を寄せられ、囁かれる。声は風のようなトーンだ。言葉がないのに笑ってしまった。相手も笑う。どこかに腰掛け、肩を頭をもたせかける。彼の身体は大きくて、自分をしっかり支えてくれる。ふと顔を上げて、目が合った。綺麗な色の目が近付き、目を閉じて、キスをする。
 その後は?
 その後って、どうなるのだろう。何があるんだろう。私は本当にこの人が好きなんだろうか。それを許すほど、恋をしたのだろうか。分からない。どうすればいい。


 ぼうっとしたまま起き上がって、頭を振った。睡眠が足りない時特有の、頭の重さと目のしょぼしょぼした感じがあった。それというのもよく分からない夢を見たからだろう。でももう内容を覚えていない。なんとなく、白い衣装を着ていて、自分と誰かを映画やドラマのような視点で見ていた覚えがあるが、それだけだった。動いた拍子に強ばっていたらしい胸が痛み、苦しい夢だったろうかともう一度考えてみたものの、あくびに掻き消されてしまった。
 早朝六時。すっかり慣れたこの時間帯に、寝室から部屋に行けば、すでにアイたちが揃って今日の準備をしている。着替えはすでに自分で出来るが、細かいところの調整は彼女たちにお願いしていた。
 雨の日以外の毎朝食事前に落花の世話をしてから時々軽く駆けるのは、乗馬が形になりつつある頃から始めていた。あと少しだとユメは言ってくれていたが、その最後の一歩が遠い。馬場に行き、厩舎で落花に餌をやったあとは彼女をブラッシングする。もう慣れたもので、落花自身も『こっちやって』というように自分から動くこともあった。そのあとは、時間があれば乗って軽く歩くこともしていた。
「おはようございます、真様!」
「おはようございます!」
 落花を表に出すと、同じように馬を連れた軽装の武士たちが朝から騒がしいくらいのきびきびした大声で挨拶をくれた。この時間帯、別の厩舎には武部の武士たちが出入りすることがあって、アマーリエはすでに彼らと顔馴染みになっていた。今日はヨウ将軍がいた。
「おはようございます。いい天気ですね」
「はい! ですが、明日は崩れるそうです。寒くなりますから温かくしてくださいますよう!」
 そう言って背筋を伸ばすヨウ将軍は愛妻家なのを思い出す。だからこんな気遣いの言葉が出るのだろう。
「ありがとうございます。奥様にも、また風邪をぶり返さないように気をつけてあげてください」
「は! ありがとうございます!」
 ヨウはそう言って笑顔を浮かべ、部下を引き連れて馬にまたがると駆けていく。それを見送って、落花の顔を見ると「行こうか」と声をかけた。向こうではユメがすでに自身の愛馬の側にいて待っている。
 そこに姿を探したが、マサキは、姿を見せなくなっていた。早朝は姿を見せないが、午後も顔を見ない。見せないようにしている様子だった。後悔しているのだろうか。
 しかし、諦めないと言った声が思い出された。諦めないと言われても、どうしようもないのだと思わずにはいられなかった。アマーリエはマサキに恋愛感情は抱いていないと思われたし、自分は既に結婚している身であり、都市に帰れず、許されないものは許されない。数日考えて出した答えがそれだった。だが、直接伝えられてはいない。アマーリエもまた、マサキを避けていた。
 落花が立ち止まる。おやと思ってふと向こうに目をやり、どきんとした。いつの間にかキヨツグがやって来て、同じように青毛の馬を連れているのだった。
 キヨツグと何事か話していたユメはこちらに視線をやって笑う。来るのを待たれているのだと、アマーリエは少し急いで落花と近付いた。
「本日は天様が乗せてくださるそうにございます」
 乗せてくれるとは何だろうと理解が出来ずに目を瞬かせた。が、持っていた手綱をユメに奪われ、彼女はそのまま落花と行ってしまう。影のように控えていたオウギも、無言で頭を下げると去ってしまった。残されて、アマーリエは大きい人を見上げる。
「……行くぞ」
 聞いた時には抱き上げられていた。
(え、ええええ)
 アマーリエは痩せている方だ。最近は少しふっくらし始めたように思うけれど。キヨツグはそのアマーリエを両手で軽々と抱き上げ、馬上にあげてしまった。まったくふらつくことなく、つまんで乗せるように。
 その後ろにひらりとリリス特有の身軽さで乗ったキヨツグは手綱をふるった。ぐらりとアマーリエが揺れたのを、彼はごく自然に片手で支えている。お腹に触れる手がほんのり温かくてどぎまぎした。
 王宮の北側の門から出て、草原を行って丘を登っていく。北の方向には山が連なっており、青と白の色を見ていると、次第に進んでいる足下の起伏が激しくなる。草原と言うより岩場の方が多くなり、野生の大きな角山羊や牛などが穏やかに草を食んでいる。蹄の音と振動が心地よい。安定感があるのは操るキヨツグの技術と、彼と馬の信頼関係によるものだろう。早くもなく遅くもない。風は澄んだ冷たさがあって心地よく、人の匂いがなかった。山や川や、野の草花や、雪や雨や雲や太陽、空の香りをいっぱいに運んでいくのを、アマーリエは少しだけ分けてもらったようにして感じていた。
 やがて緩やかな足並みとなり、馬がくるりと反転する。それまで前方ばかりを見ていたアマーリエは、向こうに見える王宮とシャド、そして、都市を見た。都市が見えるのだった。
(都市……)
 あの高い建物は恐らく市庁舎だろう。それを取り囲むビル群が霞んで見える。ごくごく小さいが、確かにあれはヒト族の国だ。
 キヨツグが降りて、そしてアマーリエを抱き上げて降ろした。地面に足がつくと、まず近寄れないかとするように少し都市の方に足を動かした。だが都市は変わらずに小さく、ここが遠い場所なのだと思い知らせた。強い風が背後から吹き付け、髪を前へ押しやる。風はどこかへ行ってしまったが、きっと都市にまで吹くことができるのだろう。
「……早い花が咲いているな」
 かがみ込んで、キヨツグは地面に咲く小さな花に触れた。アマーリエも初めてそれに気付いて、しゃがんでみる。都市では見向きもされなさそうな小花だが、かわいらしい。岩の影などから必死に顔をのぞかせようとしている。あちこちがところどころ白いのは、その群れがあるからだ。
 アマーリエは立ち上がると、視線をあげて再び都市を視界に入れた。見ると、ますます目を奪われた。ほとんど見えないのに、確かにあるのだ。あそこから自分は来たのだ。置いてきたものがたくさんあったのだと、胸の前で手を握りしめた。
「……とても遠いところだ」
 キヨツグが側に立っていた。
「……お前の居場所は、もうあの場所ではない」
 反射的に離れていた。青ざめて。何故突然そんなことを言うのだと、非難を込めた。だが決して彼の瞳は揺らがなかった。静かに、事実だけを告げていた。
「……お前の居場所は、リリスだ。どこにも行くな」
「そんなこと、言わないでください!」
 どこにもと呟く彼の言葉を遮った。悲鳴を上げた胸があった。本当なら意味もない言葉を叫びたいくらいに、胸が切られて悲鳴を上げている。
 帰りたいと思うくらいは許してほしい。都市が自分の世界だったと思うくらいは認めてほしい。父が言った、帰してやれるはずという言葉を胸に抱いていたいのだ。あそこは故郷だ。奪われたも同然の。帯に挟んだ携帯電話を意識する。みんな、メールをくれる。まだくれる。だからあそこにはいつでも戻れる。あそこはまだ、アマーリエの世界だ。
 だが、もし、と何かが囁いた。もし誰からもメールが来なくなったら、どうする。
 ヒトとリリス族の同盟のためだった。だが架け橋なのかと自問する声があった。何の地位にもない小娘が一人、異種族のところへ嫁いだとして都市に影響はないのではないか。この身は、架け橋とは似ても似つかぬ細い糸としてあっさり簡単に斬り捨てられるのではないか。
 私の価値は何処にある。
 ヒト族としての価値は。リリスにおける価値は。
 ここにいる、意味は。
 青く俯いたアマーリエは、唇を噛み締め拳を握りしめ、目を閉じて祈っていた。どうか、どうかと、何も浮かばないのにただ願いの意思を表す言葉だけを。
 それを見下ろして、「……謝らぬ」とだけ、キヨツグは言った。

   *

 訪問者があるという騒ぎは、王宮の客人であるマサキにまず知らされた。何故自分なのだと不審がったのもつかの間、名前を聞いて仰天した。確かに自分でなければならない相手だったからだ。
「天様は」
「ただいま外出中にございます」
「仕方ねえな。女官長と侍中長に客棟を開けて準備するよう言っとけ。宴席は天様の判断を仰ごう。すぐ戻ってくるだろ。迎えは俺が出る。ついでに誰かヒマそうな長老呼んでこい」
 王宮の廊下で指示を求められ歩きながら答えた。人が散っていく。王宮入口に到着すると、すでにイン家のカリヤが待っていた。マサキは正面の大階段を下りながら、風に踊る旗を見て顔をしかめる。間違いなくウチだ。
 マサキが降りてくるのが見えたのだろう、馬車の扉が恭しく開けられる。現れた美貌の女性に、マサキは内心帰れと思いつつにっこり笑い、言った。
「お越しになるとは思いませんでしたよ、母上」
 扇で口元を隠したシズカ・リィは、まなじりの上がった目元をほころばせ、さしかけられた傘の下で、ほほほ、と上品な笑い声を立てた。
「そなたがなかなか帰ってこない。ゆえに何か心置くものがあるのかと思うての」
 ちらりとマサキの背後で叩頭する者たちに目を向けた。マサキは内心舌打ちする。誰かが余計な告げ口をしたらしい。アマーリエのことを耳に入れたのだ。だがそれらの思いを決して顔には出さず、あくまで良い子で笑って、頷いた。
「それはご心配をおかけしました。しかしもうすぐ戻るつもりでしたのでご安心ください。さあ、反転してどうぞお帰りを!」
「何を言う。せっかく実家に戻ってきたのじゃ。しばらくここで過ごすゆえ、承知しておかれよ、長老方?」
 カリヤは頭を下げた。叩頭まではしない。現在の族長にあるのは彼女の甥であり、彼女の兄ではないのだから。その態度を貫き通す若い長老が気に食わないシズカは、鼻の頭に皺を寄せ、先に王宮に入っていたマサキの手勢に先導を促し、マサキに手を取るよう言った。
(母上は生粋のリリス。アマーリエに気をつけるよう言わねえと)
 何の手仕事もしない、傷一つない滑らかな手に触れながら、マサキはアマーリエを思った。

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