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 ユメが指示を授け、自らも準備に走り回っていると、廊下の影で佇む女官の姿が見えた。真付き筆頭のアイである。彼女は足を止めた焦りを見せて近付いてくる。いつもの笑顔ではない弱さは彼女が一人の時に見せる表情で、その顔でユメに尋ねた。
「ユメ御前。天様のご様子は」
「小隊を率いると申された。本格的に追われるおつもりらしい」
 アイの顔がみるみる青ざめる。
「まさか真様を手にかけるということは……」
 王宮の女性の長たる真夫人が、別の男と王宮外へ出た。それもこんな天気が悪く星のない視界のきかない夜に。大っぴらに出て行くと言ったのならまだ良い。だがこの場合、逃亡と取られても仕方がない。
 ユメは浅く息を吐く。ユメとしては、単に故郷が恋しくなったためだと思いたい。主君夫婦の間には通い始めた光がある。それに気付かずむざむざ断ってしまうような愚かな人ではないはずだと信じたかった。そして、主君のことも。
「ない、とは言い切れませぬな。思いは深いご様子」
 しかし唇に微笑を浮かべて肩をすくめた。アイが弱々しくも笑ったのは、彼女もまた気付いているからだろう。どちらが何を思い、どれだけ深く花の根を張り巡らされているか。
「どうぞ、真様をお守りください。どちらの方も後悔されませんように」
「安心なされよ。いざとなったら我々が止めまする」
 心得ているとユメは頷く。すると、アイは青ざめた顔を一度振ると両手を腰に当て艶やかな唇を思いきり尖らせた。
「まったく、人騒がせな真様と天様ですわね。こちらから見ればお互いを明かせば早い話だと思いますのに」
 ユメは笑った。
「初めてというのは、気付かない、告げられないものですから」
 兵たちが声を上げる。キヨツグが現れたのだろう。ユメは篭手が緩んでいないか、刀はきちんと下げられているかを確認し、踵を返した。
 追走の始まりだった。

   *

 この馬は軍馬ではない。二人乗せては速度が出ない。マサキが足をつけたくないと言って別の馬を引き出したのだ。アマーリエは落花で行こうとするとマサキが気付かれると主張したということもあった。だが厩番に見つかり少し出てくると誤摩化した。この時間帯、報告が行っているだろうとマサキは腕の中のアマーリエに聞かせるともなく呟いていた。
 降ると言われていた雨はまだ降ってはいない。だが雨雲が追いかけてきているのが分かる。ところどころの雲間からまだかろうじて星が見えた。身体は抱きかかえられただけでなくひどく火照って汗をかいていたが、頬に当たる風は氷のように冷たく感じられる。そして震えるのは、それだけではなかった。
「もっとくるまれよ」
 気付いてマサキが言う。都市はまだ遠い。何も見えない草原をがむしゃらに駆けているだけのような気がした。そして、何故自分ひとりではないのだろうと思った。
「……!」
 マサキが息を呑む。
「来た」
 腕に力がこもり、手綱がぐっと握られた。自身の馬の蹄の音、そして切っていく風の音に混じって、別の音が近付いてくる。
「さすが従兄上、お早くていらっしゃる……!」
 どちらの門から出たかはすぐに分かるだろう。だがどの方向へ行ったかというのをこの暗闇の中で察知できるというのは、並々ならぬ手腕だった。二騎、左右に軽々と寄せられた。キヨツグの手勢の武士だと思われた。
「止まられよ、マサキ・リィ様!」
「天様が追い付きなさる。どうか留まりを、咎を受ける前に!」
 マサキは応えない。
「真様!」
 呼ばれ、びくついた。武士は覆面をしながら悲痛な光を瞳に宿していた。責めて、いた。
「天様を裏切られるのですか。天様はあなた様を」
 しゃんとマサキが刃を抜く。
「マサキ様!」
「悪いな。行かせてもらうぜ!」
 左右の馬が諦めて失速する。刃を交えることは本意ではないらしかった。
 だが、マサキはどうだろう。初めて見る大きな刃物にアマーリエは硬直した。いつも稽古で使っていたのは木刀だったのだ。マサキを見上げる。彼は何をも辞さない覚悟をしているようだと、前だけを見る目で気付いた。自分はとんでもないことを彼にさせてしまったのだ。
「マサキ、マサキ、お願い、それをしまって!」
「アマーリエ」
「誰かを傷付けてまで戻ろうとは思わない。あなたは降りて。私ひとりで行く」
 最初からそうすれば良かったのだ。今からならまだ間に合う。マサキを降ろして自分ひとりで行けば、咎めは小さくなる。そう信じたい。どれだけ都合が良くても。
「アマーリエ……っ!」
 がくんと前にのめった。右側に傾くようにして垂直に落下していく。馬はここまで二人を乗せて全速力に近く走らされ、更に足を取られたらしかった。
 真っ暗闇に落ちていくと思ったが、身体は叩き付けられずに済んだ。マサキが身を呈してくれたのだった。うめき声が聞こえて身体を起こし、呼びかける。
「マサキごめん! 大丈夫!?」
「……打ったけど、ヘーキ」
 頭は打っていないらしいと安堵する。肩を庇っているため見せてと言いかけたが、こちらを追いかけていたらしいリリスたちがその脇をばらばらと通り過ぎ、背後から陣を固めていく。馬の足が檻のようだった。誰も剣を掲げてはいないが、鋭い視線がアマーリエを射っている。逃げられないように。
「アマーリエ、行きたいよな。今なら突破できる。都市に戻れる」
「それは私が許しませぬ」
 マサキはちっと舌を鳴らした。
「ユメ御前かよ。見逃して……くんねーよなあ」
 女武士は馬上から逃亡者を見据えた。
「真様に対するあなた様の態度、確かに真摯なもの。ですがその御方は我らが真夫人。あなた様の叶う御方ではありませぬ」
 マサキは笑った。凄みを聞かせて、下からユメに挑んだ。
「イン家の女当主殿。あんたなら分かるんじゃねえの? ここには自分の未来がないって泣くアマーリエの心中。あんた、一時期めちゃくちゃだっただろ」
「答える必要性を感じませぬ。真様が問われるのなら話は別ですが」
 それに対してユメはあくまでも冷静だった。泥に汚れたこちらを見やり、倒れて身体を起こそうともがいている馬に目をやったが、どちらも大事ないことを知ると手当もしない。今この瞬間指揮官であるユメだが、しかし彼女に指揮権はないのだ。それが、やって来る人の気配を強くする。
 別働隊の蹄の音が暗闇の中で押し寄せた。ユメたち先遣隊は素早く下乗し、それを迎えた。
 闇の中で光る漆黒の眼。ああ、とアマーリエは息を漏らした。黒い愛馬に乗った精悍な人が、雲と星に揺れ動く空を背にやって来る。騎乗したままこちらを見下ろすキヨツグは、無言でアマーリエを捉えようとしていた。重苦しい沈黙に、涙が出そうになる。だが、ここで泣くのは卑怯に過ぎた。
「……申し開きを」
 聞こうとキヨツグは言った。アマーリエは目が離せないまま首を振る。言葉にすれば涙が落ちる。唇を噛み締める。
「……彼女は都市に帰りたいんですよ。自分はいくら努力しても決してリリスにはなれないと思ったんです。確かなことでしょう? 彼女はヒト族で、リリスにあってもリリスじゃあない。悲しまれるくらいなら、都市に帰してやろうって思ったんです。俺は、アマーリエが泣くのは嫌だ」
 アマーリエと名前を呼んだ瞬間、恐ろしい空気がふくれあがった。周囲が緊張したのが分かる。マサキもそれを感じ取ったのか、庇う手が震えて強ばっていた。
「それは、リリスとヒト族の同盟を知ってのことか」
「……ええ」
 だが反して感情の窺えない声音が恐ろしい。ごくりと喉を鳴らし、マサキは答えた。彼自身も、どうしようもないわがままだとは気付いている。しかし、決めさせたのはアマーリエだ。どうしようと混乱ばかりで、泣こうとする意思が思考する力を奪う。
「……真」
 重い声。
「……お前は何を言う」
 喉がしゃくり上げて震える。答えられない。痛みを忘れるくらい唇を噛み締めて、自分のしたことを後悔した。なんてことを、してしまったのだろう。
「何故」
 しかし、キヨツグの声は、思いがけず震え始めた。
「何故逃げた」
 顔を上げた。途端、胸が絶叫した。自身が叫んでしまったのではと思うほどに、口を覆って押さえつけた。
「何故私から逃げた!!」
 泣き叫ぶようだった。色があるのなら血を吐くくらい鮮烈なもので、彼は心から叫んでいた。眉間と目は苦しげに歪められ、どれほどの痛みならこの人にそんな顔をさせられるのだろうという、激しい悲しみだった。
 泣かせたくないのにと思った。これほどまでの思いを彼が抱いていたことを知った。感情を動かす強い思い。ずっと欲しかった思う心。義務なんかじゃなかった。この人は、真実思っていてくれていたのだ。すべて、すべてアマーリエのために。
「ごめ……ごめんなさい」
 涙が堰を切って溢れたのは、後悔からもある。
「ごめんなさい。ごめんなさい……!」
 叫びたい。あなたに嫌われたくない。嫌われたくないのに、取り返しがつかない。
 両手をつき、馬上のキヨツグに涙を流しながら謝罪するアマーリエの前に、影が立つ。
「天様、あんたはアマーリエに未来をやれなかった。こいつが望むものを」
 マサキが叫ぶ。違うの、という声は涙で言葉にならない。
「そんな気持ちを叫ぶなら、彼女が望むものをなんでも叶えてやればいい。リリスのしきたりとか、んなの捨てて、こいつの望みを叶えてやればいい!」
「そうして都市を模倣するのか」
 キヨツグが低く言った。目にはまだ苛烈な意思がある。
「模倣してもここはリリス。偽物である我らに何の意味がある。真似るのが愛か。与えるのが愛か。ここは都市ではないと気付かせた上で、新しい生活を始めさせてやるのが真の愛ではないのか」
 彼女は都市には帰れぬ。キヨツグは言い、マサキは腕を振った
「ならなんで機械を渡したんだよ。あんたが許したんだろ!?」
「帰れぬからと言って失われるわけではない。私は、これまで歩んでいた道、故郷を、忘れてほしくなかった。それが更に恋い焦がれる理由となったなら、落ち度だった」
 懐にある携帯電話は、確かに都市との繋がりを感じさせた。まだあそこに居場所はあるのだと教えてくれた。慰めだった。だが、それはリリスから逃げていると同じ意味ではなかったか。
 キヨツグは、そして、決意を言葉で示してみせた。
「戻れぬのなら、慰める。恋い焦がれるのなら忘れさせる。私は、逃げぬ」
 そうだ、逃げたのだ。最初からそうだった。それをこの人は許したのだ。そして最初の誓いを守り続けようとしてくれた。堪えきれずにほんの少し見せることはあっても、決して、好きになってもらおうとはしていなかった。同じだけの思いを返してもらおうとせず、ただ優しく見せてくれただけだ。ここにはリリスという国があることを。
 黒い大地に雫が消える。
 未来から逃げていたのは、アマーリエだった。自分自身、だった。

「止めて」
 マサキが捕縛され、縄がかけられようとするのを制する。
「彼は私を庇っています」
「真様。残念ながら、マサキ様は真様を連れて逃亡されました。宮中を騒がせた者を罰さないかぎり、これは収まりませぬ」
「……縛り上げないとみんなが収まらなくて、お咎めなしにはできない……?」
 ユメは安堵させてくれるように微笑んではくれなかった。騎乗をとアマーリエをキヨツグの馬まで誘導し、彼に引き上げられるのを見て立ち去る。
 支える彼の手は固く、アマーリエもまた身を強ばらせて光を失い始めた空の下を走った。
 小隊は宮殿へ戻った。戻った途端、すべての人から無言の圧力が肩にのしかかる。王宮の人々は所々安堵したようにアマーリエを見、アイたちも目を和ませて泥だらけのアマーリエを着替えさせてくれた。だが結局は無言だ。アマーリエの謝罪に「もうよろしゅうございます」と言っただけだったが、彼女たちが思っていることは感じ取れた。アイは唯一「天様にまず申し上げてください」と言ったきり、アマーリエを寝室に送り出した。
 寝室は十分に温められ、いつもより光は多くともされていたが、逆に影は深く、空気は冷たいことを感じさせた。やがて雨音が始まり、音のすべてを夜に落ちる水の音で満たす。ベッドの上で膝を抱えながら、アマーリエはもうその先を想像していた。
 そしてその通り、キヨツグは、来なかった。

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