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 予定されていた船遊びは中止とならずに行われた。アマーリエは欠席の旨を告げてもよかったはずなのだが、サコやハナやユメ、アイたちとさんざん悩んだ結果、出席しようと決めたのだった。出席を推したのはユメとアイだった。教師二人は渋面の末にそれを了承し、最終的にアマーリエが出席の旨を係官に告げた。マサキはというと、彼は外出を禁じられているらしかった。これが族長の妻と一領主の扱いの差であり、アマーリエがようやく容認されていることを思い知らせるものだった。
 ある晴れて暖かい日、船遊びは、リリスを流れる大河、コウリュウ河で行われた。姿を現したアマーリエに眉をひそめる者もいるようだったが、アマーリエは至って大人しく、十何年かぶりに見る川の流れを望んでいた。シズカやその周囲は華やかで、それに負けぬくらいアイたちが着飾ってくれたため、身体が重いのは確かだったが。
 着飾る全ての品はキヨツグからの贈り物、ということになっている。噂を否定するため、女官たちも小さな努力をしていた。主人に愛の証を身につけさせ、さりげなく主君の元に導き、などだ。しかし人の壁が阻み、なかなか面と向かい合わせる機会が訪れず、彼女たちは歯ぎしりして小さく悪態をついている。それをありがたく感じる反面、諦めの気持ちを抱く。何故なら彼は一度もこちらを見ないから。
 コウリュウ河はモルグ族の国とリリスの国とを分けている北の山脈から流れる。この大陸の海は表面から推定一キロ汚染されているが、山脈から流れる水は雨や雪解けで清く、海に注ぐ近くになると汚染が強くなるものの、草原にあっては恵みの川であった。今日はそこに船を浮かべようというのである。贅沢だ……と都市から草原の国へ来たアマーリエは思わずにはいられない。
 ヒト族の国に水源は限られており、すべて厳重な管理下に置かれる。アマーリエが十何年か前にある川を訪れたのは、小学校の社会見学という行事だったからだ。しかもその川は人工水路で、施設を通じて濾過と循環をさせていた。コウリュウ河のように、自然的な大河はないのだ。
 更に、船遊びに着飾って、船を担いで持っていって。お付きの人々に全てやってもらって。こういうことはリリスの中でも上流階級の一部しか許されていないとは分かりつつも、しかしやはり贅沢だと思うのだった。
 サコやハナの授業で、リリスが貧しくないことは知っている。広大な土地と大河。領主の統率。継がれる伝統。そこで生きることが全てだと思う人々は、それ以下にはならずそれ以上を望むことはない。不思議と、人間にありがちな望みというものがない。何故だろう。
 アマーリエはリリスでありたいと思った。それは、居場所が欲しい、認めてもらいたいということだ。けれど、リリスとはどういう人種だったのか。それを見つければ、本当の居場所を手に入れられるのではないか。
 川風にちりちりとかんざしの玉が鳴り、衣のひれがふわりとそよいだ。
「真様、お手を」
 船頭役を任じる兵士が手を差し出す。裾を手繰り、船に乗り込んだ。
 他に五人ほど乗り込める船には、アイと他の女官が三人。もう一人はユメが乗り込む。船が続々出発を始め、船頭は船をこぎ始めると振り返った。
「川の流れは穏やかですが、深いところがあるので危険ではあります。身を乗り出されて落ちませんよう、どうぞお気をつけを」
「はい。ありがとうございます」
 空から見ると船はどこかへ旅立つように見えるはず。地上からはきらびやかな行列として。風を切る感覚が心地いい。水の音も優しくて安心する。川の両岸の果てには、草を食む牛や水を飲む馬がいる。川面を滑るように飛ぶ鳥の群れが、アマーリエの側で羽ばたいていった。
 裾をまくり、水面に手を伸ばしてみる。表面を突き破って指が水面に沈む。小さな波が生まれ、細かな水しぶきと水の冷気が手に触れる。本物の水。濾過されたものや消毒されたものではない、大地を流れる水。再び身体を起こして見た草原の、木や草花を潤す。
 にぎやかな音色が聞こえてきた。他の船が楽器を鳴らしているのだ。
 笑い声も響いてくる。声の方を見れば、シズカの船ともう一つの光る船がキヨツグの船に寄せられていた。光る船の中、群を抜いてきらびやかなひとりの女性が目に入った。今朝方挨拶を貰った人だ。ミンという家臣のご令嬢だったか。長い髪を結わずに垂らしているのは珍しく、しかしとても手入れがされて艶やかで、清楚な印象があった彼女によく似合っていると覚えていたのだった。
 キヨツグはやはりこちらを見ない。彼自身がこの場にいることがとても不思議ではあったが、これも天としての義務なのだろう。
 思えば彼の仕事を詳しく知らない。アマーリエは王宮にいただけだった。昼間に会うこともなければ、会いにいくことも遠慮していた。乾いた関係だと思われても仕方がない。何故、もっと会おうとしなかったのだろう。聞こえてくる声に彼の音はないか耳を澄ませ、望んでいる自分を見ている。どうしてこんなに忘れてしまった夢のようになってから気付くのだろう。すべて望めば縺れた糸は簡単に解けたはずなのに。
 楽しげな声に傷付く資格はないと分かりつつも、胸が痛む。あそこに行く資格はないとしても。
 対岸で馬に水を飲ませている少年たちがいた。彼らは思いがけず遭遇した高貴なる人々の船に目を見張っている。アマーリエは、高貴なる人々、と考え自分のその中の一員であることに苦笑した。ひらひらと手を振ってみる。すると、彼らも楽しげに手を振って返してくれた。
「いい風」
「ええ、本当に」
 笛の音が高いところまで上っていくようだった。何かの呼び声に似ている。
 船の先端が水を掻き分けて近付いてきた。
「真様。良い日よりでよろしゅうございました」
 船の中で微笑んだのは、先程見ていたミンの令嬢、ユイコだった。
「はい。気持ちがいいですね」とアマーリエも笑い、甘い水の香りのする風を受けていた。
「ご衣装は川の色に合わせていらっしゃるんですのね。そのかんざしも、とても素敵ですわ」
「ありがとうございます。選んでくれたのは私の女官たちなんです。私がここに来て、最初の日に着けたもので」
「まあ真様、覚えていらっしゃったんですか!」
「うん、実は覚えてるんだ、ココ」
 振り返って声を上げた女官に笑った。すると向こうの船のユイコは溢れるように笑って頷いた。
「大切なかんざしなのですね。ええ、とてもよくお似合いですわ。今度わたくしの品も見にいらしてくださいませ。リィの土地は少々遠いかもしれませんが、土地の神々が数多く足跡を残しているところなので、是非」
「はい、是非」
 そのまま並走する。良い風だ、本当に。このままどこでも行けそうな気がするくらいに、春の匂いを含んでいて。
「こんな楽しい席ですから、鬱屈した心など洗われてしまいますわね」
「はい。川に船を浮かべたことなんて初めてですから、とても楽しいです」
 まあ、と上品にユイコは驚く。
「では、泳いでみたこともございませんか?」
「川や池ではありませんが、プール……とても大きな水槽みたいなものでなら」
「わたくしは泳ぎが苦手なのです。ですからあまり川辺には近付きたくないのですけれど」
 こんな席ですからと彼女はこっそりため息をついた。すると、とても親近感が沸いた。こんな綺麗な人でも苦手があるのだ。
「ヒト族の方は、その水槽で泳ぎの練習をなさるのですか?」
「そうですね。学校の時間割に組み込まれていて、必ず泳ぎの練習はさせられます。中には逃げ出す人もいますけどね」
「真様も?」
「私は真面目な子でした。というより、逃げ出して捕まえられた後の、罰が恐かったんです」
「わたくしも逃げ出した後の罰は恐かったですわ。特に礼儀作法の」
 サコ先生、の声がハモった。お互いに顔を見合わせ、笑い出す。すると、ユイコに対して無意識に抱いていた防御が解けていった。そして、こうしてどうでもいい話をして笑うことは楽しいことを思い出した。もちろんアイたちとはいくらでも話すし、シキやマサキとも普通の友人のようにおしゃべりをした。しかし、それのどれだけ尊かったことだろう。
「あの人は本当に厳しい方ですよね」
「本当に! わたくし何度も叱られました」
 声を立てて笑いながら、目尻を拭う。ここに何もないと思ったのは、とんでもない誤りだった。どこにでも世界はある。空の下に立って思う。空も、雲も、雨も、水の流れも、大地も。すべて、どこにでもあって繋がっているのだと。
 船遊びは夕刻近く、川下に船を着かせて終わった。ユイコはアマーリエの何を気に入ってくれたのか知らないが、ずっとおしゃべりの相手になってくれ、屈託なく笑ってくれた。そういう人にどんな打算があるのだろうと疑うのはよくないとは思うのだが、しかし彼女には特に取り入ろうとかそういったものは感じられなかった。ただ唯一、さりげなくではあったがマサキの話を聞きたがっていた様子だったので、そういうことだろうと思われた。
「他人のことは結構気付くのにな……」
「真様、御髪を整えませんと。川風に乱れてしまっていますわ」
 髪結い係の女官が手早くかんざしを外し、アマーリエの髪が整えられる。周囲でも人の囲いや布の囲いで姿を整える姿が見受けられ、女官たちのさざめきが夕刻のオレンジ色の中で更に明るい。
「これはこちらに」
「わたくしがお預かりしますわ」
「ああ、ほら、そんなに引っ張らないで」
 だが「え!?」という恐怖に引き攣った声が背後で聞こえた。驚いて振り向くと、女官たちが青い。
「どうしたの?」
「いえ、その、かんざしが……」
「なんですって、ないの? まあ、どうして?」
 アイが呆れた口調で言って女官たちを見やる。外したのはつい先程だ。持っているのが当然なのに、とアイの眉がぴくぴく動いている。彼女たちはすくみ上がり、逃げるように頭を下げた。
「本当にない? どうしよう」
「仕方がありませんわ。わたくしどもの不手際です。申し訳ありません、真様」
「ううん、そんなことはいいんだけど……」
 だがあのかんざしは大切なのだ。よくある一本でも、最初に着けた物という特別な意識と共に、あれを贈り物としてもらったアマーリエには責任がある。立ち上がった。
「ちょっと船を見てくる」
「真様、わたくしが参りますわ」
 声を上げてくれたのはアイとココなど数人だけだ。その彼女たちに笑って振り返る。
「それじゃあ、他のところを探してくれる?」
 真様! と追う声が上がる。団子になって同じところを探すより心当たりをたくさん探した方が手早くていいという都市で培われたアマーリエの合理性は、リリスには恐らく奇妙なものとして映るだろう。
 船に行くと、隅の方にかんざしが転がっていた。
「あった……っ!?」
 鋭い威嚇の声が響き渡って、反射的に手を引っ込める。伸ばしていたところに何かが飛びついて更に唸っていた。
 よくよく見えると、小さな猫のような生き物がそれを銜えていたのだった。子犬にしては小さく、毛が長い。目も瞳孔が縦に長かった。初めて見る動物で、それもあまり動物に対したことのないために困ってしまった。
 なるべく興奮させないように屈んで、声をかけた。
「ごめんなさい、返してくれるかな。私の物なの」
 手をそっと伸ばして、しばらく待つ。すると言葉を理解したのか、獣は威嚇を止めてそろそろ影から現れた。やはり犬でも猫でもなさそうな生き物だ。銜えたかんざしを渡そうか渡すまいか考えている様子で、どうもこれに執着する理由があるらしい。
 悲鳴が上がったのはその瞬間だった。
「真様!!」
 顔を上げた時に前から船がぶつかってきたのが同時だった。かなり上から流されていたらしい船は、激しい音を立てて船をえぐり、アマーリエの立っていた船底をばらばらにして、アマーリエを水へ引きずり込んだ。その寸前、ほとんど無意識に獣を掴むと高く投げ飛ばし、岸に投げられたか分からないまま身体は水に沈んだ。

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