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 ぱちんと弾けた音は火鉢の炭の音だと思った。いつも通りのほの暗さに、また深夜に目を覚ましたのだろうかともう一度目を閉じてみる。だが足先が冷たく、上半身が温かいという奇妙な感覚があって、自分がベッドに寝そべっていないことをゆっくりと自覚する。爆ぜる炎は、視覚と触覚と聴覚に訴えて、自分がここで生きていることを知らせている。じゃあ、ここはどこなのだ。
 首筋に安堵の息がかかったのはその時だった。
「……目が覚めたか」
 驚いて飛び上がる、が離してもらえなかった。キヨツグに横抱きにされていた、というより後ろから抱いているに近い。絶対心臓の音が聞こえてしまう。すると、その焦りを知ったかのようにキヨツグが手を離した。
「……衣を少し脱げ。このままでは風邪を引く」
「私……落ちて……」
 その後この人に助けられた。周囲に人がいないということは、かなり流されたのだろう。今いるのは影の下、川の側の巨岩の影らしい。かんざしも首飾りも腕輪も指輪も、身を飾っていたどれもがいくつも落ちてしまっているようで、髪は無茶苦茶だし衣もびっしょりだ。だが、じわじわと広がる、この人が助けてくれたという事実があまりにも嬉しくて。
 振り返り、胸にしがみついた。
「……エリカ」
 少し狼狽えたようなキヨツグの声が、胸から伝わる。
 キヨツグはそのままにすることにしたようだった。ただ慰めるように少しだけ腕を回して抱いてくれた。こちらを気遣ったそんな優しささえ、ようやく得た水と光のように温かだった。
 好き。この人が好きだ。涙の一粒一粒が溢れる思いだった。触れる体温が少しずつ水を足していくから、涙は決して尽きることはない。他人のそれを、いつもどこか冷めた気持ちで見ていた。周囲にある恋愛は自分には遠く、ドラマや小説や漫画の出来事のようで、きっと素敵なものなんだろうとは思うけれど、そこに自分がうまく当てはまっているかは想像できなかった。恋はふたりだけの世界を作り出す。だから相手もいない自分が、うまく想像できるはずなかったのだ。
 でも今は違う。溢れる感情のひとつひとつが、苦しいくらい胸を満たしている。これを人は誰かに告げたくなる。伝えたい。
 どうしたら伝わるだろう。そう考えるすべてが、愛おしかった。

 しばらくしてみっともなくも鼻をすすり、顔を上げて笑った。
「ちょっと脱ぎます。このままじゃ風邪を引くから」
 キヨツグが解いた腕から立ち上がる。が、気になって振り向いた。
「あの……後ろ、向いててください」
 今気付いたとばかりにキヨツグが一度瞬きをしてくるりと反転する。
 なんだかおかしかった。忍び笑いながら、上の衣が干されているのを見る。下の重ねているものも重いのだが、何枚くらい脱げばいいだろう。透けて見えるのは嫌だから気をつけねば。帯を解き、考えた末に三枚脱いだ。今日くらい着付けを習っていてよかったと思ったことはないと、しっかり帯を再び締める。
 そしてふと、懐に時計が収まっていることに気付いた。手の中に持っていた記憶が最後のはずなのに、いつも通り自然と身につけられている。取り出して手の中に抱えると、それは水に浸かったというのに規則正しい刻みを響かせている。帰ったら、細工師の人に調整してもらおうと思う。自分が帰ること、そしてその場所がリリスだと当然のように思っていることに、小さく驚いてしまう。
 そしてその下から携帯電話が現れた。が、やはり水没したために画面はブラックアウトしている。考えた末に、裏蓋を外してバッテリーを取り出し、石の上に置いた。乾かせば使えるようになるかもしれないと思ったのと、使えなくてももういいという気持ちで。
「終わりました」
 キヨツグが振り返り、アマーリエを見た。炎越しに目が合い、気恥ずかしくて目を伏せる。
 だめだ。これじゃあ振り出しに戻っている。でも目が合えば全部が伝わってしまいそうで怖かった。そのまま無言の時間が続く。
「……日が落ちる。明日にならねば合流は出来まい」
「ここは……どこですか」
「……コウリュウの南。恐らくリリスの中央から南部にかけてだろう。モルグが潜伏しておらぬと良いが」
「モルグ……」
 リリスの土地にもモルグがいる、というのはどこかで聞いた覚えがあった。キヨツグは頷き、炎に目をやって新しい枝を差し入れる。
「……モルグにも種類がある。好戦的な者は境界地域で戦をし、保守派はその群れを離れ、森林や山脈で密かに暮らしている。が、どちらも縄張り意識が強い」
 ということは、ここにモルグ族がいたのなら、自分たちは侵入者として危険な目に遭う可能性があるわけだった。
「……どうした」
 彼が目を落としているのをいいことに、じっと見ていたのが気になったのだろう。いえ、と首を振りながら思っていたのは、この人がいるのなら大丈夫だということだった。
「……ここでは眠れぬだろうが、少し横になれ。夜が明けたら河上に向けて歩く」
「はい」
 言われるまま横になった。確かにごつごつした感触が背中にあって、ゆっくり眠れそうもなかったが、ふと思いついて脱いだ衣を下に敷けば、少しは楽になった。キヨツグはそのままの体勢で見ているつもりらしい。横になるのを見守っている彼に、アマーリエは呼びかけた。
「火の番とか、何かあったら遠慮なく起こしてください」
 彼の漆黒に光が差す。花、と言った。
「……あの花が何か、知っていたのか?」
 考える間が瞬きになった。だが何の話か分からない。花というのは分かるが、いつの何の花なのか。
「すみません、ちょっと分からなくて……」
 キヨツグは首を振った。
「……すまぬ。私にも、分からぬ」
「そういうこと、あります。分かったら、いつでも言ってください」
 そしておやすみなさいと声をかける。一瞬虚をつかれたような間があって、深い頷きと共に「おやすみ」が返ってきた。アマーリエがそれでも目を閉じずにゆっくり瞬きをしていると、キヨツグが近付いてきて自分の衣をかけて包んでくれる。そうしてようやく、目を閉じた。

   *

 森の夜は黒い。暗いではなく黒いのだ。塗ったように先が見えず、川が時折垣間見える星光に白く浮かび上がるくらいだ。風の音もきわめて大きく、この闇の中あんな小さな光であれを眠らせてやれるだろうかと心配だった。巨岩から少し離れたところに腰を下ろし、炎の橙を見る。その中に彼女の姿が見えることに、安堵はしたが苦痛でもあった。
 あのまま一緒にいると、彼女をどうにかしてしまいそうだった。もう己の想いに嘘がつけそうもない。なくしそうになって思い知るのもまた陳腐だと自嘲した。
 女性との付き合いがこれまで皆無だったわけではない。だが執着がなかったのは確かだった。利益があれば婚約を考え、用がなくなれば寸前でも婚約の話を揉み消した。害悪になりそうなら慰謝料代わりの金と結婚相手を見つけ王宮を追い出すことさえした。だがどんなに女性と恋人と呼ばれる関係になり破局を迎えても、何の執着もなく見送ったのだ。
 だが今回は違う。キヨツグが結婚した相手は、そう、婚約も何もかもを飛び越えて神前で婚姻の誓いを立ててしまった娘は、これといった理由もないのにキヨツグの心に根ざしてしまったのだ。もしかすれば、彼女を最初に見た時に、こうなることは決まっていたのかもしれない。
 唇を重ね、組みしいて。あちこちに口付けて。愛おしいと言いたい。
 だが、彼女はそれを望まない。最初の約束を反古にする気はない。怯え怖がるようなら何もしない。出来ない。傷付けたくない。愛おしい気持ちと反比例して、恐怖がある。押さえきれなくなれば、取り返しがつかない。
 キヨツグは一人、額を押さえる。

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