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 岩の影から見た朝の森の中、向こう岸の岩場に獣が座っている。純白の、輝くような獣だった。全身があまりに白いので光って見えるらしい。狼に似ている。それも知っているものより巨体だったために、森の中では光の固まりに見えた。
 キヨツグはどこへ行ったのだろうと思ったが、獣がこちらをじっと見ているので動けなかった。真摯な目で見返しただけで、睨み合うのでもない、ただ相手を見るだけの時が過ぎる。音が聞こえなくなり、何故か、獣が微笑んで息を吐くような音が聞こえた。
『娘さん。あんたに祝福を』
(あれ?)
 今、喋らなかっただろうか。
『天と地の狭間の者の末裔の娘さん、地を行く者はあんたに敬意を払う。天と地を繋ぐ者としての役目を果たしてくれるからね。あんたの結婚は世界が決めたのさ。あたしたちがもう一度、本物の【ニンゲン】になるためにね』
 ぽかんとして聞いていたのでほとんど耳に入ってこなかった。すらすらと滑らかな獣の口の動きを見ている。人間のように口を開けることはあるものの、歯は開くことはないらしい。歯を閉じていても喋ることは喋れるが、唇や舌の形が人間とは異なるので発音が難しいのではなかろうか。こういうことは口腔外科の人間が詳しいはずだ。
 などと呆然と考えていると、やれやれと獣は器用に肩をすくめ、後ろを足を立たせると唸るように言った。
『もうすぐ迎えが来る。時間がないから手っ取り早くいくよ。娘さん。あの天の者の末裔が好きなんだろ? だったらちゃんと言いな。恋だの愛だのぬかしてる前に、正直な気持ちがあるだろ』
(……正直な、気持ち?)
 凄みを利かせていた獣は、微笑んだようだった。
『好きだって気持ちさ』
 今度こそ本当に目が覚めた。近くに覗き込んだキヨツグの顔がある。羽根に触れたように、ふわりと幸せな気持ちが舞い降りた。水音と鳥のさえずりは聞き慣れないものだったが、とても幸福な朝の音だった。
 そして、飛び起きた。
「ごっごめんなさい! 寝坊しました!?」
「あ、……いや」
 キヨツグはふるりと頭を振って、いつの間にやら用意していた果物や水などを示した。アマーリエはありがたく頂きながら、天というのはサバイバル技術も持っているものなのかと疑問半分関心半分で思う。だが結局直接尋ねてみると、オウギに仕込まれたとのことだった。
 ということはオウギはキヨツグより十は上なのだと推測してみる。ユメの幼なじみとのことだったが、ユメはキヨツグより上のようだったし、すると彼女も十歳は上のようだ。年上相手に軽い口をきいていたことに地味に落ち込む。
「……どうした」
「……言葉遣いの難しさについて考えてます」
 そのことを話すと、キヨツグは何が悪いのだろうと首を傾げている。彼は王様なのだし、かつては王子様だったのだから、誰も文句のつけようがない。だから不公平ですとアマーリエが言うと、彼はサコ殿には叱られたと呟いた。それが子どもの拗ねたような口の尖らせ方だったので、思わず噴き出した。
「お腹いっぱいだ。つい食べ過ぎちゃいました。また太るかもなあ……」
 果物の皮を土の上にやった後お腹を押さえて涙を拭うふりをしていると、キヨツグはアマーリエの全身を眺める。その視線の意味に気付いて、身体を抱いて反転する。
「な、なんですか。最初に会ったときより丸くなったって言いたいんですか」
「……痩せすぎていると思った」
「そんな下手な慰めいりません!」
「……本当のことなのだが」
 食事を終えた後は、乾いた衣服を持てるようなら持っていくことにした。万が一何かあった場合、暖をとるものが必要だと判断したためだ。荷物になるため、一番上の上着だけを持っていくことにする。これなら分厚いし下に敷いても床になるだろう。そして岩の上に広げたままの携帯電話を組み立て直し、じっと見つめた後、電源を入れてみた。
 音が木々の影に鳴り響き、鳥たちが一斉に飛び立った。驚いたのはアマーリエも同じだ。音もそうだが、まさか電源が入るとは思わなかったのだ。キヨツグは聞き慣れない電子音に緊張を走らせたようだったが、それが害のないものだと知ると、自分の準備を進めていた。
(そうか……)
 手の中の携帯電話を、胸に寄せて抱きしめた。諦めなくていいという言葉が、全身に広がっていく。何を手にしてもいいのだ。何か一つを手に入れて、何かを失わなければならないとしても、絶望するまで失われないように願うことを諦めなくてもいいのだと、再び力を取り戻した携帯電話が言っているような気がした。
 素晴らしい朝だった。鳥の声は満ち、緑と水の匂いは、草原よりも瑞々しく溢れ、木々の影のために光がいっそう愛おしいものに思えた。歩く道を行くキヨツグの後を追う。彼はアマーリエに合わせて易しい道を行っているようだ。しかし歩き出しても、ゆるめの速度ではあったが歩き慣れないアマーリエには厳しい。何しろ、靴が合わないのだ。歩くための靴とされていないのだろう。ふうふうと息をしていると、手を差し出された。
 その手を、見た。そして、微笑んで手を握った。そうすると、とてつもない安心感が全身を駆け巡り、だから恋人たちは手を繋ぐのだと理解した。触れていたいのだと思うらしいと知った。
 不思議な夢のことは言わなかった。もしかしたらこれが夢なのかもしれなかったので。だから今から考えることは願望だ。
(忘れないでほしい。あなたの隣で呼吸をしていた)
 絡めた指の間を走っていく想いに、ずっと泣きそうになっていた。いとおしい。溢れて止まらないそれがあなたと同じだとは言えないから。でもあなたは優しさで答えてくれていたから、同じだけの優しさで答えたい。想いには想いを。光には光を。
 その願いは口にしない。心の中の自分が両手を組んで跪いているだけだ。実際の手はキヨツグに繋がっている。離さないでほしい。一緒に歩いていてほしい。
(好き)
 夢に教えられたというのが少し情けないけれど。でも、この手があれば、もうどんなことも恐ろしくないのだ。
 森に入ってすぐの位置にいたらしかった。例えどんなに遠くとも、アマーリエはキヨツグから手を離さないで夜通しでも歩き続けていただろう。木々がまばらになり、弧を描く地平線が目の前に広がっていた。捜索隊を見つけたのはその時だった。
「天様、真様!」
「ご無事でございましたか!」
 続々と人々が集まり、駆け寄ってくる。あっという間に人の輪の中に閉じ込められ、その輪はどんどん膨れ上がった。慌ただしく人が行き交いを始め、感涙にむせぶ者もいたが、多くはキヨツグより年上だからだろう、ひどく心配の声が聞かれた。
「大事ない。心配をかけた」
 集まってくるリリスたちにキヨツグは応じる。アマーリエもその傍らで頭を下げた。
「真様っ」
「アイ、ユメ御前も」
 すっかりみすぼらしい姿になっていたのだろう。アマーリエを輪から連れ出した二人は痛ましげな顔をしたが、本来の役目のまま、着替えを手伝ってくれる。他の女官たちはどうやら帰らせたらしい、二人での作業だ。髪は手櫛で梳いただけだったので、かなり乱れているらしく櫛で梳かれた。ぐいぐいと頭が持っていかれそうになり、まさかと思いつつもアイの顔を窺う。
「あの、アイ……?」
「なんでしょう」
 晴れ晴れとした笑み。怖い。
「なんでもないです……」
 思わず敬語にもなる。用意が整うと、アイがアマーリエを呼んだ。
「うん、なに?」
「わたくし、また失ってしまうのかと思いましたわ」
 ぽつんと、いつもの盛大な笑みが潜まり、どこか悲しげに彼女は言った。
「裏切り者の話、覚えていらっしゃいますか?」
 頷く。
「わたくし、実は真候補の一人として王宮に上がったんです」
「……ええ!?」
 アイ殿、と焦ったようなユメの声を聞いて遅まきながら理解が来た。ということは彼女は結婚相手の候補だったということになる。つまり、アマーリエが押しのけた本当のリリスの真夫人候補だったのだ。顔色を失う。まさか騒ぎの責任を取って真の座を明け渡せと言われないだろうか。
「真様、何かとんでもなく失礼なこと考えていらっしゃいません?」
 じっとりと睨まれ慌てて首を振る。ならいいですけどとアイは一度引っ込み、ふっと息を吐くと先を続ける。
「でも、わたくしは好きな方ができたんです。いつも祖廟に拝しながら、わたくしは祖霊を裏切っていました。同時に、その好きな方のことも」
 でも、とアイは声を落とす。
「でもその方は亡くなってしまわれました。わたくしは気持ちを伝えられないまま、あの方を裏切り続けて」
 だから、と叫ぶようにアイは強い意思を込めてアマーリエを見据える。そこにある激しい切なさに、胸を打たれて立ち尽くす。
「もう裏切るまいと思ったのです。もう一度、わたくし本来の役目である心からお仕えすること、それに値する方が現れたら、その時は、恋をしたら本当の気持ちを伝えようと」
「アイ……」
「ですから」
 にこっとアイは満面に笑みを浮かべ。
 振り上げられた手は、小気味いい音を立ててアマーリエの頬を張っていった。
「アイ殿!?」
 ユメが乱心したかとアイを押さえる。アイは抵抗もせず、やはり笑っていた。
「きっと誰も手などあげないでしょうから、わたくしがやっただけですわ。真様、あなたは一人で抱え込みすぎるのです。そういうのって、むっちゃくちゃ腹が立ちますわ」
 頬が涙を流した時のように熱い。左手で押さえたところから熱が溢れてこぼれ落ちていく錯覚をする。だが本当に泣きたいのは、アマーリエではない。あの激しさを、切ない光を、アマーリエは見ている。
「もう少し、わたくしたちのことを思い出していただけませんか」
「ごめんなさい……」
 心配をかけるのは嫌いだ。アマーリエの一番憎むべきもの。それは今でも変わらないけれど、自分でも分からないことを教えてくれるのは、他の誰かなのだ。側にいてくれる誰かなのだ。
「心配をかけて、ごめんなさい」
「構わないのです。どんなに腹が立っても、それを遠回しにいさめたり、許したりするのがわたくしたちですから」
 ならばあの人は。あれほど優しさを注いでくれるのは?
「それでは、ずっと聞きたかったことをお尋ねしますわ。真様は、政略結婚に愛はないとおっしゃいました。では、毎日天様が真様に心配事がないか、わたくしたちにお尋ねしてくることをどう思われます?」
「……え?」
「わたくしは申し上げたんですけれどね。ご自分でお尋ね申し上げたらと。ですが天様ったら答えないで、わたくしたちにどんな些細なことでも見逃すなと言われるんですもの。あの朴念仁が、と思うのも不思議ではないでしょう?」
 それだけではありません、とアイは言う。
「わたくしは存じ上げているんです。推測だとは思っていたのですが、でもこれはきっと本当ですわ。――真様をエリカと、リリスの音にも不自然ではないお名前でお呼びするのは、キヨツグ様が真様をリリスの一員にしたいがためですわ。誰にでも呼びやすいよう、リリスの人間と認識されるよう」
 エリカと呼ぶが良いか。
 最初の夜。彼はそう尋ねた。花の名前のミドルネーム。アマーリエ自身も省略しがちなその名前を拾い上げて。
 彼は気付かれなくても降り注いでくれている。きっと気付いていないことがたくさんある。すべてを知りたいと思うのはわがままなことだろうか。ひとつひとつ与え返したいと、切なく祈る気持ちになるのはいけないことだろうか。
「優しさは、愛情ではありませんか? 心が温かいことはありませんでしたか」
 新しい気持ちでアイを見つめた。その後ろのユメも微笑んで待っている。アマーリエの答えを。けれど、薄い水の膜でうまく見えないし言えない。言葉が、たくさんありすぎる。祈りや願いのなんて多いことだろう。
「真様は、天様をどう思っていらっしゃいますか?」
 何度も何度も唇を震わせて、アマーリエはゆっくりと、それを口にする。

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