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 王宮に帰還したのは、星が輝き始めた黄昏の時刻だった。すぐに部屋に戻れるわけがなく、健康診断にリュウ医師夫妻がやって来て、アマーリエの状態を見ていった。シキが案じていたと聞き、元気だからと微笑んで言伝をお願いする。彼にも心配をかけた。マサキにも、会わなければならない。
 アマーリエの女官たちは全員部屋におり、主人が姿を見せると安堵したように息をついた後、筆頭補佐の女官セリを筆頭に代わる代わるお説教を受けたが、一番の上司であるアイは笑って聞いているだけで、助けてはくれなかった。
「大丈夫」
 ひとつ大きく頷いて言えば、彼女たちは目を瞬かせてアマーリエの言う先を見守っている。
「もう、大丈夫。ありがとう」
 何が大丈夫なんですかぁ、と涙声で脆い女官が泣き、それをみんなでああだこうだ言いながら慰めた。
 アマーリエが投げ飛ばした獣の子は無事だったと聞いた。川岸に完全には放れなかったが、すぐに岸に泳ぎ着くとどこかへ走り去ったという。良かったと胸を撫で下ろすと、それよりも御身が大切ですと話がまた振り出しに戻ってしまった。
 そして、夜が来る。
 いつの間にか冷えきった空気は春の温かさに塗り替えられ始めていて、初めてここに来た頃とすっかり感触を変えていることに気付く。もう二月ほど経ったのだ。草原は装いを少しずつ明るくし始め、空もまた、星の飾りを変えていることだろう。時は流れている。細工時計の針が螺子巻かれていつまでも動くように。
 小さな物音がして、アマーリエはそちらを見た。やはりいつも通りの普段着で、キヨツグはここにやって来た。
 そのまま見つめ合い、アマーリエは目を伏せると、その場に正座をし、指をついて深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
 何に対してと問われればいくつも挙げられる。逃げ出したこと、マサキを巻き込んだこと、キヨツグを傷付けたこと、川に飛び込ませて無理をさせたこと。たくさんの優しさを義務からだと思い込んでいたこと。だが、少しだけ、謝るのはお門違いの部分がある。しなければならないのは、これからどのように行動していくかだと思う。そのきっかけとしての、謝罪だった。
「…………」
 長い沈黙の末に顔を上げよと言われる。ため息をつかれた。
「……そんな顔をしている者を叱責できるはずがなかろう。もう良い」
 そう言って、やはり許してくれるのだった。
「……だが、罰は与える」
 アマーリエは背筋を伸ばした。キヨツグはその前に腰を下ろし、じっと、アマーリエの決意を窺っている。少しでも揺らいだのなら、見逃さないというように。
「……宮中において何らかの役目を負ってもらう。薬師の助手でも、書庫の整理をするのでも良い。ライカ様の世話役や話し相手になるのでも構わぬ。お前に、役目をやる」
 手が震えた。
「……いくつでも?」
 キヨツグは少し笑った。
「……そうだ。……誰かに降嫁するのでも、構わぬ」
 息を呑んでキヨツグを見た。微笑みの意味を知る。彼は知っている、マサキがここまで忍んできたことに。彼が大きな危険を冒してここを訪れたのなら、そしてアマーリエにその思いがあるのなら、彼は許そうというのだ。そして恐らく都市のとの関係は変えないつもりでいる。だとすれば、なんて、微笑みが痛い。
 目の前に引いた線が見えるようだった。だが、それをさせたのは。
「私の、欲しいものは」
 目を閉じた。何を言えば返せるだろうと考えている心にそっと呼びかけた。心が見せた光景は、光が差した中に背高く伸びた花に埋もれ、その人を呼ぼうとしている自分だった。
「欲しいものは」
 未来は分からないままだ。でも、今、降り注ぐ時間を、手の平に受けるために見上げる。
 大好きです。
「あなたの、妻としての役目です」
 言えば、胸が震えて目の奥から熱が生まれた。キヨツグがゆっくり目を見開いていくのが見えている。アマーリエは自分が今にも涙をこぼしそうになっていることに気付き、精一杯の笑顔を浮かべる。これが真実なのだと、分かるように。心の中のアマーリエも、ようやく彼を呼べる。花を見てほしい。光が差している、ここに来てほしいと。
 手が伸び、彼の長い指が頬に触れ、腕は背中に回り、彼の側に引き寄せられて、二人の距離が近くなる。彼が何を求めているのか感じ取り、目を閉じた。すぐに優しい感触が唇に触れてきた。
 誰かに捧げるだけではない。自分が何か与えられるなんて思わなかったし、思えなかった。降り注ぐ恋、許して導く愛を、その源を初めて見つめた気がした。こういう恋と愛の形もきっとあるのだろう。
「……意味を」
 分かっているのかと問う息遣いは、少し、乱れている。もう答えを知っているはずなのに、彼は尋ねる。優しいのか、臆病なのか、きっとどちらもだろう。その腕の中で手を伸ばす。初めて、自分から触れる。
「……す、き……です」
「……聞こえぬ」
「好きです……」
「……泣くな」
 彼の声は掠れている。甘く、胸の中を何度も撫でていくように。
「……泣くな。笑っていろ。そうであるよう、守る」
「はい」
 都市にあった、アマーリエ・E・コレットの未来を捨て去るわけではない。ただ、リリスにあるアマーリエ・エリカの未来を選ぼうというだけだ。どこにでも時は流れる。どこにでも過去と現在と未来は存在する。未来は、紡いでいける。
 なのに何故か、こんなにも震えている。落ちていきそうで怖かった。しがみつけばつくほど、もっと恐ろしいことが起こる予感が瞬きのように閃いていく。抱き上げられ連れられていきながら、やがて理解する。それは雨粒が生まれれば落ちると同じ、天啓のように降ってきた。これまで選ぼうとしなかったのは。
 結婚という行為に対しての、恋愛も交際もしたことのない初心な小娘の小さな抵抗だった。なかったとは絶対に言い切れない。今も怖いからだ。目の前の人の瞳は、あまりにも真剣すぎる。
 手を繋いで抱きしめあってキスをしたそのさきが、怖い。
「……エリカ」
 彼の手はアマーリエの涙を拭う。
「ちがう、違うんです。悲しいわけじゃなくて……」
 怖いわけでもない。溢れて止まらない。好きだと叫ぶのに似ていたその激しさに、アマーリエはただ泣きながら手を伸ばす。指を絡めて、触れてもらって。こんな時にでもキヨツグは求めず、アマーリエを待っている。つないだ手だけが、熱い。同じ熱さで涙が流れた。信じている。これは本当の恋だと。都市を離れたからこそ胸に生まれ、花咲き光射す想い。
 最初で最後の、真実の恋。
 だからきっと、涙のわけは。
「恋をしたから、涙が出るんです」

   *

 ライカの目覚めは微睡みから覚めたのに似ている。寝ていたという感覚がないのは、いつも夢を見るためだった。その夢は彼女の生きていない遠い過去から、同じく遠い未来にまで及ぶ。
 目覚めたライカは人を呼び、眠っていた間の出来事の報告を受けた。義理の甥にあたるマサキ・リィの訪問と、小姑にあたるシズカ・リィの来訪、真夫人アマーリエ・エリカの逃亡や、船遊びの事件、そして帰還の知らせを一挙に受け、まるで物語を聞いているかのようにころころ笑った。
「二人の様子はどう?」
「共に寝間に入られたようです」
 そうと笑う。明日の朝どうなるか知っているため、含み笑いになってしまった。
「今回のきっかけはシズカ殿と言ったわね。マサキ殿に連絡を取ってちょうだい。あの方を出し抜ける方法は、あの方の嫌悪をするヒト族とヒト族のものでしょう」
 承りましたと彼女は下がり、一人になったライカは、起き出して机に向かう。さすがにかなり足が萎えていて辛かったが、文机に向かうと引き出しを開けて、まっさらの紙を閉じた冊子を取り出し、筆記具を用意すると、そこに夢に見たものを書き付け始めた。内容は、過去のことだけ。未来はまだ分からないのだから。――彼女以外には。

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