―――― 第 8 章
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 春の始まりの風は都市内では感じにくい。特にビルの建ち並ぶ行政区では風はただ冷たく強いのだ。街路には景観や掃除のために葉の落ちない常緑樹が多く、季節の感じられるものは気温やエアコンの示す温度数値になる。
 市庁舎の最上階、市長室にいるジョージは窓の外を眺めていた。冷暖房は快適で、ここでスーツを着込んでいても汗をかくこともなく寒くもない。外がどれほどの温かさなのかは室内では感じ取れなかった。果ては草原の国なども。
 執務机の上には新聞や雑誌が積み上げられている。ジョージは必要記事だけを持って来させることもできたが、すべてに目を通したいと集めさせたのだ。新聞は常に大衆紙には目を通しているが、週刊誌の類いは久しく見ていなかった。必要な部分につけた付箋を見やっていると、ドアがノックされる。
「入りたまえ」
「失礼致します」
 入室した秘書は直立の姿勢を取る。頷いて報告を促すと、彼は口を開いた。
「マスコミが押し寄せています。電話も切れ間がありません。メールもしきりに受信してサーバーダウンしそうだとシステム部が申しています」
 やれやれとジョージは肩をすくめた。それしか出来そうにない。そうしてもう一度窓から世界を望んだ。向こうには草原。自然、見る目は厳しくなる。
「子どもだと思っていたのに、なかなかやるものだ。……それとも、リリスに懐柔されたか」
「ご指示を。市長」
 笑い出したくなる衝動を堪え、常である、有能だが人を食った気配のある市長の皮を被る。振り向いて言えばそこから市長の仕事が始まる。
「さて、お望み通り会見をやってやろうじゃないか。マスコミにはリリスに連絡を取ってから行うと知らせておくように。他の市長にも連絡を回しておけ。私が哀れな父親役をやるなら、説明役が必要だな、第一都市のボードウィンがいいだろう」
「了解しました」
 秘書の退出を見送ると、ジョージは再び窓を向く。春の気配の感じられない、磨かれた硝子の嵌められた部屋で。
「アマーリエ……」
 春には花が咲くだろう。だが、飾るくらいしか能がないそんなものはどうでもよかった。

   *

 分からないんです、とアマーリエは呟いた。一人ごちるにしては疑問符が浮かんでいて、それでいてひどく眠そうだった。雨の雫が落ちるよりに緩やかに彼女は呟く。私は、いつからかあなたを好きになっていたけれど、あなたは、いつから私を?
 まるで付き合い始めの恋人同士の会話で、同じ場所に寝そべる夫婦が交わす会話にしてはいささか初々しい。声に出さずに笑うと、彼女も気付いたのだろう、顔を薄く染めた。その頬に指で触れながら、囁く。
「……内々に潜入調査をした」
 アマーリエは目を見開いていた。リリスはヒト族と比べ長身であり、またその目の形を除けば、衣服さえ変えればほとんど気付かれずに都市に紛れ込めるのだが、やはりやけに目立つ。というのを彼女も考えているのだろう。しかしキヨツグは都市に入り込んだのはそれが初めてではなかった。
「……都市に入り、事前に写真をもらっていた候補者を調べた。その時に、お前を見た」
 息を呑む音が間近でする。考えていなかったのだろう、他にも候補がいたことを。恐らく、何故自分が選ばれたのだと思っていたはずだった。
「……条件としてはお前が最もふさわしかった。我々は都市での勢力図の詳細を知らぬ故、その調査もかねて度々潜入は行っていた。ヒト族の中でもずば抜けて容姿がいいのは実はリリスやも知れんぞ」
 くつくつ喉を鳴らした。まさかと小さく声が上がったが、実はあながち冗談でもない。それは追々話していけばいいと思っている。
「……大学で見たお前は、友人たちに囲まれて何か話をしていた。一人がお前に厳しく言い、お前はいつものことなのか冷静に言葉を返していた。『感覚として知らないだけで想像できないわけじゃない』、そういう言葉だったように思う。私が見たお前は、少し、息苦しそうだった。恋の話を、知らないことは罪であると思っているようで、寂しげだった」
「…………そんなの」
 覚えてませんと毛布を口元まで被っている。顔は髪をかきあげてやった耳まで赤い。
「……リリスに来ても分からぬようだったが、誰にも心を明かさなかったのは、何故だった?」
「それ、キヨツグ様が訊くんですか?」
 笑ってみると、アマーリエは複雑そうな顔で見上げてくる。そして、少し考える素振りを見せた。
「……分かりません。でも、誰かに心を明かすのはとても難しいです。感じたこと、ないですか。『これを言えば親しくなれる』っていう思いとか言葉。そういうこと言うの、嫌いなんです」
 それこそが心なのだろうとキヨツグは思う。つまり妻は非常に難しいらしいが、しかし愛おしいのも確かだった。彼女を愛した理由になる。黙って髪を梳いていると、ゆっくりと瞬きしたアマーリエは小さな声で問いかけた。
「……でも、そんなことが理由なんですか?」
「……思ったのだ。お前が誰かを一筋に思う時、どんな顔をするのだろうと。どのように笑い、どのように喜びを見出すか。知りたいと思ったのが最初だ」
「…………」
 すると彼女は黙って毛布を引き被った。キヨツグは見えなくなった顔にきょとんとして毛布を引く。
「……エリカ?」
「…………じゃないですか? それ」
 もごもごと布で覆われてくぐもった声は、聞き取れなかった部分も恐らく最初から口ごもっていただろう。きちんと聞こうと何度か毛布を引いてみるものの、現れたのは色でも塗ったのかと思われる朱色の顔だった。更に聞こうとしてみるとアマーリエはそのまま身体を反転させてしまう。
「……こら」
「知りません!」
「……理由が些細だったから怒っているのか」
 些細な理由だった。キヨツグにとってはそうだ。都市に自ら赴いた理由には、現在の都市とリリスの状況をこの目で確かめたいということが第一だった。そしてその次に、花嫁候補の確認だ。そこですれ違い様見たあの目が忘れられず、花嫁に最有力候補を選んだことには影響はなかったがしかし、あの娘かと思って再びあの寂しげな目を想像したのだった。花のような色の瞳は、どのように笑うのだろうと。
 そして、そういうことが始まりなのだ。
「……怒ってないですよ」
 黙り込んだキヨツグに、再びアマーリエは身体を反転させて不安そうに見上げた。笑ってしまう。その目に寂しさはなく、少し拗ねたような光がある。心を許しているのだと分かる。分かるのは、同じ寂しさを抱えているからだ。例え拭われても跡を残した、消せない過去の思い出。過去には、決して言えなかった一言がある。
「……『そばにいて』と、言うと良い」
 アマーリエが長い睫毛を一度大きく瞬かせた。
「……言えなかったこと、叶わなかったことを、叶えられるのが未来だろう」
「今は……何にもいらないです。ただちょっと、眠いです」
 そしてまだ妻は言おうとしない。だからこうして抱き寄せるのは、決して明かさない願いの言葉を叶えるためだった。

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