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 紺桔梗殿の応接に使用する間には、今回アマーリエは上座ではなく招かれる側の下座についた。ぞろりと居並ぶ重臣たち、そして最奥に座するキヨツグに深く頭を下げる。こちらに厳しい視線を向ける者もいるが、それに落ち込むほど言い訳できるはずがないし、夫本人に許されたからと言って、罪の意識を忘れるつもりもなかった。面を上げよと言われた時に、揺るぎなく前を見据えるだけだ。
 上座につくキヨツグは、普段アマーリエが面してきた時より、鋭く重い気迫をみなぎらせ、朗々たる声を発した。
「真。そなたの脱走について憶測が飛び交っている」
「どのようなものでしょう」
「そなたがマサキを誘惑して逃亡を図ったと。あるいはマサキがそなたをかどわかしたのだと」
 噂の傾き加減は、多分自分の方が大きいのだろう。こういったものは悪いことが囁かれているという肌で感じる空気のようなものしか知らず、アイたちは非常に優秀な防御となってどんな噂話も遮断していたのだ、と改めて彼女たちの思いに感謝の念を抱く。
 息を吐く。打ち合わせたことを頭の中でなぞり、顔を上げ、にっこり笑ったことが始まりの合図だった。
「それは単なる噂話に過ぎません。わたくしとしては、少し天様に困っていただこうと思ったのです」
 笑顔のモデルはアイのつもりだった。む、と唸り始めた重臣たちにも見えるよう、少し大袈裟な動作で頬を押さえ、大きなため息をつく。
「天様はご政務でお忙しく、わたくしを少しも構ってくださいません。それで、少し寂しくて」
 聞いている人々の目に困惑と納得と呆れが浮かぶ。これまでとんと仲の良いと噂を聞かなかったのは、彼らの主君に責任があるらしい、と。
 そうすると、ひとりの笑声にどっと場が緩んだ。
「なんと。ただの痴話喧嘩でござったか」
「なるほど、天様も必死になられることよ。逃げられては男の面目が立ちますまい」
 豪快な笑い声が弾ける。
 この話を持ち出したのはキヨツグの方だった。皆が呆れて怒れぬようにすれば良い、それも笑えるような。結果、痴話喧嘩ということになった。
 しかし、座にいる彼は仏頂面だった。それは演技とも見えるし、本音にも見えた。笑われるのが少々癪らしいとアマーリエはみた。
 もう一人、静かに目をすがめている男がいる。青年期に入ったばかりのように見える、少し陰鬱な空気の長老。カリヤ長老だった。興味もないといった様子で視線を外したところで無表情になっており、考えることがあったようで何か言われるのではとアマーリエもまた表情を繕いながら焦りを覚えたが、彼は結局口を挟まなかった。
「それでマサキ殿はただの当て馬か。いや災難ですな」
「然り然り。夫婦喧嘩は犬も食わぬと申すもの」
「そう、昔から天様は女子の扱いが下手でありました」
 応接の間は笑い声でまったく収まらない。過去の話にまで及びそうになり、キヨツグが姿勢を正した。
「私情で王宮を騒がせたこと、許されることではない」
「では天様も何か罰を受けられます?」
 主君の一声に静まりかけた場が、ぽんと言い返したアマーリエの言葉に今度はだだ崩れになった。どうやらアマーリエの笑顔とキヨツグの仏頂面が拍車をかけているらしく、ひいひい言いながら笑っている者もいる。
「天様が罰を受けられては困りまする。お咎めなしでよろしゅうございましょう」
 すでに何日か謹慎同然でございましたしな、と一人が言うと、キヨツグは首を振る。
「それでは示しがつかぬ。マサキにも悪い」
「いやいや。こちらとしては天様の言動でたいそう楽しませていただき申した。二度とあっては困りますが、今回は特に罰を設ける必要はありませんでしょう」
 にやりと笑われ、アマーリエは一瞬冷や水を浴びせられたようになった。そろりとキヨツグを見ると、共犯者からはちらりと視線が投げられ、最後にアマーリエは退出を命じられた。
 退出の礼を行いながら、笑声の響く部屋を後にする。待っていたアイに行くところを告げると、彼女は一瞬顔をしかめたが、ついていくことを条件に了承した。アマーリエは彼の部屋に向かう。

   *

 キヨツグは誰も人をつけず文部の奥へ足を踏み入れた。長老方にはすでに解散を命じたが、多くは「事件を肴に一杯」となったらしく、王宮内の厨房に酒を命じてしまった。ただ一人笑顔でかわした男はそのまま影が移動するように自室に戻ったことが分かったので、キヨツグは彼を訪れることにしたのだった。
 小姓に来訪を告げると、少年は口の聞けない様子で部屋に転がるように入っていった。やがて戻ってきた彼は頬を上気させながら「ど、ど、ど、どうぞ!」と緊張し切った様子で告げ、キヨツグが入っていくのをぼうっとしたように見守っていた。
 室内では優しい午前中の光が差し込んではいるものの、窓をあまり開けずにある。書物が多いため、日焼けを避けるようにしてあるのだろう。部屋の主と同じように薄暗くて、だが知性を感じる一室だ。
「あなたが私を訪れるとは、お珍しい」
 そう言って筆を置いたカリヤは、長い髪の間からにこやかな警戒の光がある。
「何か御用ですか?」
「しばらく真を見張っていたようだが、そろそろ止めてもらいたい」
 座を薦めもしない長老に素早く切り出せば、カリヤは一瞬眉をひそめ、ため息をついた。
「何のことかは分かりませんが、誰が覗き見て楽しいのでしょうかね?」
「自分に対して言うなど、器用なことを」
 ふんとカリヤは鼻を鳴らす。
「あんな何も出来ない、ヒト族の、付加価値の方が大きい娘を見張っても楽しいはずもない。……と」
 口が過ぎましたと頭を下げた。キヨツグは苛立ちまぎれに部屋の本を勝手に移動させ、自分の座る場所を作る。例えそれが卓の上でも、カリヤが悪いのだ。
 しかし解せませんね、とカリヤは静かに尋ねる。
「都市の者と結婚するのはあなたでなくともよかったはずだ。むしろ、ヒト族の血を族長家に入れることを反対する者もいることを踏まえると、あなたは結婚すべきではなかった。同盟を申し込んだのは都市だ。その送り込んだ人質を誰にやろうが、立場が上であるリリスの勝手。それでも結婚に自分を使ったあなたは愚かにすぎる」
 キヨツグも考えなかったわけではなかった。むしろ当初は、シェン家の系譜の男と結婚させることや、都市の結婚相手は娘ではなく男をもらい、族長にはなれぬシェン家の姫と結婚させるという動きもあった。しかし族長家以外の家系に力を与えてはならぬこと、また様々な事情からあって姫とは結婚できぬと判断されたことがあり、同盟の婚姻に関しては難航していた。
 キヨツグが、あの娘を見るまでは。
 決してしてはならぬことをした。
 あの時都市には何人かの候補がいた。結局決まったのはコレット市長の娘だった。リリスで、それを誰と結婚させるべきかを考えたとき、キヨツグは、自分の名を真っ先に挙げた。
 ――リリスのための天である者が、私情で、結婚相手を選んだのだ。自分の、幸福のために。
 例えそれが当然の流れ、周囲から正答と言われる道であっても、キヨツグがアマーリエを望んだことは変わりがなかった。
「本当にそう思うか、カリヤ殿」
 だが決して誰にも言うことはない。知られぬまま、事態を転がし、自分は妻を手に入れたのだと。言うことは、ない。
 思考を切り替える。愚かな男は消え、ここにいるのはやり手の長老に対さなければならない族長だ。
 リリスが立場が上。それは、リリスが格上だと意識することに繋がる。
「リリスが格上であると、そう思うのか」
 黙り込み言葉の行方を見守っている男も、知っているのだということを、キヨツグは敢えて言葉にする。
「正直に言おう。リリスは、もう長くはない。リリスだけではない、モルグもだ。この世界はすでに、我々のものではない」
 遥かな神話の時代から。天翔るリリスの時代から、すでに世界はヒトのものだったように思う。
 カリヤはちらりと背後に視線をやり、誰にも聞かれていないことを確かめる。そして改めて聞きましょうと背筋を伸ばして相対した。
「リリスの広大であった土地は、少しずつではあるが削られている。モルグのように異能力を持たず、体当たりでぶつかるしか能のない我らにどんな勝ち目がある。寿命の長さや身体能力は意味を持たぬ。ヒト族はすでに世界を制している。リリスよりもか弱いあの種族は、機械という力でのし上がっていった」
 キヨツグは声を落とした。
「私は、いずれ機械の力を手に入れたいと思っている」
 リリスは、自分たちはリリスであるという誇りに囚われている。人種でありながら強い生命力や技術を持ち得た種族だという、その誇りが、リリスを頑なにして草原に閉じ込めている。やがてその壁のなかで得られるものを得ずに朽ちていくことを知らずに、リリスは、自らが最高種であるという幻想を抱いたまま。
 鳥の声が遠ざかる。風が吹き、庭木の緑がざあざあと音を立てた。
 影が差し、カリヤは顔を歪める。
「そのために、あの娘を真夫人に? リリスがヒト族に抵抗を持たぬようにするために? リリスに都市文明を持ち込むと?」
「そうでなければ生き残れぬ。我らは滅ぼされるか、淘汰されるかの道を選ぶだろう。対等なのはかろうじて今だけ。アマーリエという、都市市長の娘がいるかぎりだけだ」
「どの口がそれを言う」
 押し殺した声はカリヤから洩れた。
「例えリリスが滅んでも、あなたは命山の守護を持っている。あなただけは決して滅ばない。命山の神人の守りを得ているあなたは」
 命山。リリスの最高機関。
 神々の住むところ。
 誰もが認知し、そして当然のごとく受け入れられているキヨツグの存在は、命山に理由がある。いずれアマーリエにも言わねばならない。
 だが今の話はそのことではないのだ。
「私は天だ。前族長の子。長老会に認められた。リリスと運命を共にする」きっぱりと断言する。「ここまで来れたことが幸運だった。ヒト族は見る間に増える。種として真実強いのはどちらか分かろう」
 雲があるのか、床に差す光は、ゆるやかに明滅している。影から光へ、光から影へ、狭間のような淡い輝きに。
 カリヤ殿、と呼んだ。
「カリヤ殿。あなたには万一のことを頼みたい。文明導入が始まれば、リリスは割れる。あなたが反対派の先鋒となってくれれば、心強い」
 カリヤは一瞬意味が取れなかったようだが素早く思考を巡らせて答えに至ったらしい。くっと喉を鳴らして苦々しげに言った。
「面と向かって糾弾しろと。私はあなたの不支持派、私の役目はそれだ。つまり反対派を取りまとめろと」
 もっと言えば、とカリヤは告げる。
「妻を人質にして要求なさるわけですね」
 答えを言う必要がないため、答えはしない。
「敵対する勢力の長同士が通じ合うのですか」
「リリスに混乱は少ない方がいい。リリス大事主義でなおかつ柔軟なあなたなら協力してくれるはずだ。…………ナナミは美しい娘になるだろう」
「…………」
 ナナミというのはカリヤの娘の名だ。思いがけぬ相手から飛び出した名にカリヤは警戒心をむき出して暗く笑う。
「恐ろしい方ですね。あなたは生まれてもいない子どもに婚約させようとしている」
「あなたが役目を続けるのならば、怪しまれはせぬ。私とあなたが和解するために手を結んだと思ってもらえよう」
「シェン家が族長の座から降りることになりますぞ。あなたの息子は族長であっても、その後は」
「私は族長を望まぬ。私が位に就いたのは、あなたの言う通り命山があったからだ。私はもう十分だ」
「そこまで考える理由はなんです。あなたはあの娘を愛したのですか?」
 政略結婚。それは、アマーリエを縛り付けた悲しみの行為だ。それを生まれていない子どもに強いる自分は、彼女に非難されてしかるべきだろう。だが真実を口にするのなら、子どもは慈しむものであっても、キヨツグの最重要にはならない。
「そうだ」
 最も大事なのは、あの小さな花のような妻なのだから。


 カリヤは非常に恐ろしい思いで目の前の男を見ていた。ただ妻だけをという、族長ではなく一人の男になっているキヨツグ・シェンというリリスを。狂っているのだ、この男は。
「……分かりました。ですが、取引にもなりません。証人さえもいない」
「構わぬ」
 キヨツグは立ち上がる。
「私があの娘を認めたと、それが分かってもらえれば」
「口に出したことを後悔しますぞ。私が物覚えが良いゆえ」
「証人はおらぬがそれでもか」
 お互い密やかに笑う。キヨツグは目で笑いながら。カリヤは口だけで笑いながら。
 キヨツグが出て行った後、カリヤは自分に問うた。そしてすぐに答えが出た。
 あれでは自分の弱点を晒したようなものだ。必要があれば自分は、真夫人を抑えることさえ出来ればあの族長の陥落は容易になるという。だが考えても突こうとは思わなかった。頭が痛い。純粋さは時に恐ろしい武器となる。それに。
「恋に狂った男の言うことだ。信用はしないが、聞かなければ後が怖い」

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