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 よお、と彼は手を挙げて、少し疲れたようにアマーリエを迎えた。部屋は訪れていた頃と変わらないが、主の心情を反映して、窓は開かれず、入口からの光は白々しい。そこに立って、アマーリエはそっと名前を呼んだ。
「マサキ……」
「もうウワサ聞いたぜ。っていうか聞かされた。夫婦喧嘩だって?」
 親切なヤツがいるもんだなと唇を歪めるマサキを前に、アマーリエはまずアイに少し出てくれるように願った。アイは何事か言いかけたが、黙って扉を閉める。外で座って待っている気配を確かめた後は、もう一度、彼に向き合った。
 笑う様が痛々しく、彼の傷の深さを思い知らせる。
 アマーリエはマサキの前に膝を突き、指を揃えて頭を下げた。
「ごめんなさい」
「謝んなよ。……みじめになる」
 返ってきた拒否に唇を噛み締める、が、当然のことだ。だから頭を下げ続けた。これで許してもらおうと思う自分が浅ましい。どんなことをすればマサキに許されるのだろうと考えてしまうのは、恐らく、不和を嫌って避け続けてきた習いのようなものだ。
「……お前も、俺が逃げてたと思う?」
 ぽつんと降ってきた言葉は、どこか雨のようだった。頭を上げて、見る。そして、首を振った。アマーリエは知っているからだ。
「あれは、私の気持ちだった。都市に行きたかったのは私の気持ち。逃げようとしていたのは私で、マサキは、それに手を貸してくれようとしただけだから」
 言うならば重きを置くのが何なのかという違いだ。大切なものはそれぞれ違う。マサキは、真実思ってくれていたのが分かるから。彼の行動が知らせる、ひとつひとつの思いを、踏みにじるように利用したのはアマーリエだ。
「ごめんなさい、マサキ」
 だから、言わねばならない。
「私はあなたの気持ちに応えられない」
 どんなに好きでも、どんなに大切でも、マサキに対してアマーリエの心は恋を覚えない。それは真実であり、一方で残酷な現実だった。
 マサキは苦笑した。苛立ちと諦め、そして皮肉が浮かぶ、彼らしくない笑い方をする。
「いいよ、もう」
「よくない!」
 思わず叫んだ、が、マサキが顔をしかめたのにはっとして、肩を落とす。
「……ごめん、よくないのは私だね。あなたのこと、好きだから。誤解されて、嫌いになってほしくないって思うのは、私のわがままだね」
「虫のいい話だな?」
「……分かってる」
 容赦ない言葉を甘んじて受ける。そうやって誰かに許してもらうことしか考えられなくて、結局は誰かを傷付けているという自分なんて、滅茶苦茶になってしまえばいいのにと、思う。そしてそう考えることすら悲劇ぶっているようで、本当に、本当に自分なんて大嫌いだ。
 握りしめた拳の音が聞こえるような沈黙が流れた。
 マサキは何も言わない。言うことはないと、思った。
「…………」
 いつまでいるんだと拒絶されたら大人しく帰る。決めた矢先、息を大きく吸い込み声を上げたのは彼だった。
「……っあーもう! やめやめやめー!!」
 驚くアマーリエの前で髪をかきむしったかと思うと、「暗えんだよ!」と言いながら窓という窓を開き、「うわ眩し!」と声を上げては日よけを下ろし、暴れ回るように部屋を歩き回った後は、肩で息をする身体をくるりとこちらに向け、「いいか!」と指を突きつけた。
「俺がいつまでもお前を好きなのは本当だし、今回は潔く身を引くけど、何かあったらかっさらうからな! いいか、今回だけだぞ!」
 ふんと鼻息荒く言って、どかりと腰を下ろした。あぐらをかいた上に肘を立てて、そこにそっぽを向いた顔を乗せて。
 呆然として、思い出したのは、都市にいた友人たちの話では、三角関係ほど面倒なものはないということだった。しかしマサキは許したのだ。彼もまた、許してくれるのだ。じわりじわりと沸き起こる喜びに、アマーリエは思わず言っていた。どうしよう。
「なに」
「どうしよう。すっごく嬉しいから、あなたのこと抱きしめてもいいと思う?」
 目を丸くしたマサキは、次の瞬間笑み崩れた。
「いいぜ」
 アマーリエは親愛の証としてぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう、マサキ。ありがとう……」
 ごめんなさいを言いたかったが、きっとマサキは望まないと分かっていた。
 彼の傷は消えない。それでも許して傷を受けて入れてくれ、刃物になるようなアマーリエの行動を許そうとしてくれた。だからアマーリエも彼の望まないことはしまいと決めた。恋でなくても、好きだという気持ちがあるのだから。
 傷付けない。それは、大切な誰かのための愛だ。恋の形ではなくとも、愛情は存在する。
 すると、不意に背中に回った腕がぎゅうと絞まった。
「マ、マサキ!?」
「マジで離したくねえなあくそーアマーリエ早く離婚しちまえー」
「く、苦しい……」
 アイを呼ぼうとして、扉が開く。ぎょっとしたのはアマーリエだけだった。
「キ……」
 肩を叩いて知らせるも、腕の力は緩まない。拳を作って思わず本気で叩く。ばん、ばん、と鈍い音が響くが、自分の拳を痛めてリリス族の身体の強さを思い知るだけだ。
 一瞥したその人に向かって、マサキはアマーリエを締め付けたまま上目遣いににやりと笑った。
「離した方がいいですか」
「……斬られたくなければ」
 マサキは笑ったまま離さない。挑戦的にキヨツグを見上げて、しかし次の瞬間、鈍い音が響き渡ってさすがに硬直した。
「でっ! いてて……」
 さすがに拳を作った骨の部分で殴れば痛かったらしい。だが謝るつもりはなくマサキを押して逃げたアマーリエは、その場でキヨツグの後ろに回ろうと。
 回ろうとしてから躊躇して立ち止まってしまった。
 だって、今のは浮気現場だろう。アマーリエが親愛の証としてマサキを抱きしめても、そしてそれが都市では挨拶としてあり得ることでも、リリスではあり得ないだろうし、キヨツグがそのように見るかも分からない。軽率だった。
 罪悪感で目を落とした視界に、キヨツグの白い手が、ひらひらと揺れてアマーリエを招いた。仕方がないなというため息つきで。
 泣きそうになるくらい嬉しすぎて顔が輝くのを抑えきれなかった。小走りで近付けば、肩を抱かれる。
「……授業があろう。行きなさい」
 げっという呻き声がした気がしたが、マサキは悪戯を叱られた子どものように、キヨツグに愛想笑いを浮かべている。これなら大丈夫だろうと、アマーリエはもう一度、マサキに近付いた。
「ありがとう」
 そうしてぎゅっともう一度腕を回して。今度はマサキはきつく腕を回したりしなかった。あやすように肩を叩いてくれる。その直前のぎょっと息を呑んだようなのと全身が強ばったのは気のせいだったと思う。
 開いた扉からアイがそれみたことかと怒り半分笑い半分に見ており、アマーリエは笑って肩をすくめて歩き出す。それから数分後、ものすごい勢いで部屋を飛び出していくマサキを知ることはなく。

   *

 授業が終わって一息つくと、アマーリエはハナと話し合ったことを伝えるためにキヨツグに面会を申し出た。日中の夫婦の行き来はこれまでを思えば珍しいことで、それも訪れは自主的に、である。紺桔梗殿の役人たちは少し驚いたようにこちらを見ており、行き会えば挨拶をするのを噂通りだと確かめて、興奮したようにすれ違っていった。
 キヨツグの側で仕事をしていた長老も、珍しいと言ってアマーリエに席を譲り、側に控えていた。
「薬師の見習いをしたい、それも、王宮の外へ下りたいと?」
 キヨツグは首を傾げた。アマーリエは頷く。
「王宮にいても勉強しかできませんから。何か仕事をいただけないかと思ったんです」
 給料をもらうつもりはなく、言うなればインターンシップである。
「ハナ先生とはお話しました。毎週二日ほどなら、お許しが出たなら手伝いにくるのは構わないと言ってくださっています。どうか、お願いします」
「確かに、役目をやると言ったのは私だが」
 考えるものの、あっさり断りはしないというのは分かっている。断るのなら納得できる理由をくれるはずだった。
「お前に無理はないのか?」
「週六日、ハナ先生とサコ先生に交互に教えていただいていて、午後からは何もないんです。乗馬と剣術の稽古は早朝に回そうとユメが言ってくれました」
 キヨツグが困ったように額を押さえたので、首を傾げた。どうやら答えが少し的を外れていたようだ。
「うむ……時間配分を決めているのなら良いが、しかし、学習と実技は違うだろう。責任を持たねばならない」
「ハナ先生にも言われました。でも、責任がない仕事なんてありませんから」
 キヨツグは、ハナと同じように何度か瞬きをしてから、微笑んだ。
「ハナ・リュウ殿にも同じことを?」
「え? はい、言いましたけれど……?」
 苦笑されて、おかしいことを言っただろうかと考えてみても、答えが見つからない。
 しばらく長い睫毛を緩く瞬かせて考えていたキヨツグは、結局は深く頷いた。
「よかろう。ハナ殿の指示をよく聞き、しっかり励め」
「はい! ありがとうございます!」
 一礼して部屋を出る。ここまで案内してくれた警備の人にお礼を言って立ち去ろうとすれば、その警備兵は後宮の入口まで送ってくれた。
 その警備兵との会話の間に、中から洩れ聞こえてくる声があった。

「真様が街へ下りるのはよろしくても、薬師の仕事というのは……」
「ハナ殿はよく分かっているだろう。危険な仕事はさせぬはず。それにリリスは丈夫だ」

 信用がないと言われたも同然で微かにため息をつく。どうされましたかと警備兵に聞かれたので首を振った。その後聞こえてきた声に、不安が拭われたからだ。
「リリスを知る良い機会になろう。それに民に知ってもらう機会を本人が自主的に作ろうとすることは、喜ばしいことだ」
 その声は非常に優しかったのだった。

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