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 あれから報告に行ったハナには微笑んで喜ばしいことですねと言ってもらえた。シキもおめでとうと祝福してくれたので、二人から準備することがあるのなら教えてほしいと請うて色々準備を始めるとすぐ日も落ち、寝室に入った今は指示された書物を読んでいる。
 自分でも直接薬を調合して飲ませるなどの医者の仕事をさせてもらえるとは思っていないが、それ以外の看護や介護に関することでもいいから役に立ちたいとは考えていた。リリスのために出来ることをしたい。一人になっても生きていけるように。
(……でも、キヨツグ様は、私を一人にはしないかな……)
 考えて、はっと首を振った。目が熱くなるくらい頬が熱い。
 こういうのを惚気とか、色惚けというのだろう。思わず突っ伏すくらい恥ずかしい。書物のページすらくっつけた頬が冷たいと感じる。
 好きという気持ちが許されると、色々止まらないものらしかった。もっと見ていたいし、見ていてほしいし、側にいたいし、側にいてほしい。あの人は一人の人であって天であるから決して完全に自分のものにはなることはないけれど、それでも出来れば縛り付けてしまいたいと思ったり、する。
(私って欲深い……)
 思い浮かべればそわそわと胸が動いて、いつしか本当に会いたくなるのだ。
「真」
 夜のせいではっきり響いた声に手が驚き跳ねて、ばさばさと机の上から物を落とす。キヨツグが近付いて書物を拾い上げるのを手伝ってくれるのだが、その伏せた長い睫毛や、つやつやと輝く髪が綺麗で、思わずぼうっとなっていると、同じ物を目指した手同士が触れた。
「!」
 動揺して赤面してしまったが、キヨツグはそのまま拾った物を机に戻していく。気付かれなかったと息を吐いたのも束の間、不意にこちらを向いて。
「……疲れているのか?」
 と聞かれてしまった。「い、いいえっ?」と語尾が妙に跳ねたが、笑ってなんとか繕っておく。
「……先程からため息をついていた。何か気がかりなのことがあるのか」
 アマーリエは口が聞けない。恥ずかしいという気持ちの方が勝って、ずっと見られていたという事実の本当の意味に気付かなかった。言葉が出ないので一生懸命首を振る。心配をかけてはいけないのだ。
「な、なんでもないです! ちょっと、考え事を」
「……欲深いとは?」
 ぱちくり、と目を瞬かせると、キヨツグの真剣な顔がやがて堪えきれずに崩れていった。そこでようやく、考えていたことを思わず口に出して、そしてこの人が趣味悪くずっとそれを面白がって見ていたことに思い当たった。
「ききききき」
 名前まで呼べなくなっているとついにキヨツグが噴き出した。
「ひ……ひどい!!」
「すまぬ」
「全然すまないなんて思ってないくせに!」
 いつも表情に乏しくて淡々としていて冷静でほとんど笑顔なんて見せてこなかったのに、こうして楽しげなのは悪趣味すぎる。その笑みはいつもの静かな様子ではなく、からかいの色があって、もっと言えば本当に綺麗だった。そのため我慢できずに足音を響かせて部屋を出た。外の履物を突っかけて、上着を肩にかけたまま、星と月の光が降る夜の草原を突き進んでいく。
「真」
 追いかけてくる声が笑っているのに腹が立つ。黙ってどんどんと歩いていく。
「真」
 うるさい。私は一生懸命好きなのに。
 この人はそうじゃないのかもしれないという不安が、やがて目尻に滲んで胸が苦しくなる。口にすれば独りよがりなので言わないと決めている。そうしてどちらが重くてどちらが悪くて、と仲違いする恋人たちを知っているから。
 しかし所詮アマーリエの足。あっという間に追い付かれて後ろから抱えられた。
「……エリカ」
 耳元で囁かれてぞくっとする。
「……逃がさぬ……」
 そのまま引きずり込まれてどこかに連れ去られてしまいそうなほど、夜の暗闇のような低い声。決して解けない腕に、胸が震える。
「にげ……逃げようなんて、思ってません」
「……前科があろう」
 それを言われると非常に弱かった。今日はこの人に翻弄されてばかりで、なんとか一矢報いたいと思うものの、出来ることは何も思いつかない。それこそ逃げるくらいしかなさそうだ。傷付けると分かっているから、実質的に方法は一つもない。
「……手を」
 そう言われた。疑問に思って首を向けようとすると、そのままで左手を前へ伸ばせと言う。疑問符を浮かべながら真正面に伸ばしていくと、高くと言われて空へ。
 空には青白い月が巨大に浮かんで、溢れた光が滝のように落ちてくる。月の光の流れに浸すように伸びた手に、キヨツグが手を添えた。するりと薬指に何かが落ちて、光が目を射る。
「……用意してあったのだが」
 左薬指のそれは。
「……神前で泣いたお前に、環を嵌めるのは酷だと思ったのでな」
 銀の細工に花びらのような淡い宝石が一つある、それは指環。月の光環までも作り出す、約束の円環だった。
 思わず手を下ろして確かめる。そしてもう一度高く掲げる。確かに薬指に嵌まっている。自分の指に少しだけ大振りには見えたが、しかし細工の文様はリリスの工芸だと分かる。
「……嫌なら外すと良い」
 首を振る。必死に何度も。
 指環。未来を祝福される男女が誓いの証とする、結婚指環。もちろん都市にあるような一般的なデザインではないけれど、しかしこれは結婚指環なのだ。一生を添い遂げる誓約を、神に誓う。祈る神を持たなかった自分が、どこかにいるその神様に。
 この人と幸福に暮らしていくことを、望んでもいいのだと。
「……エリカ」
 どうしたんだと尋ねるキヨツグの声は優しい。精一杯首を何度も振ってこれほどの思いを表現できない言葉の変わりにする。なんでもないけれど、なんでもないわけではないのだ。
「……泣くな」
「ちが、います……悲しいわけじゃないです。でも顔、見られたくないんです」
 涙を呑み込む。悲しいわけではない。むしろ、怖い。
「わ……私だけ、気持ちが大きくなって、潰れてしまいそうで」
 握りしめた左手に、同じ手が添えられる。その薬指には大きさや文様が少しだけ異なる、対の指環があった。包まれる手を見ながら、アマーリエは優しい誓いの言葉を聞いた。
「……抱えきれなくなったら、受け止める。口にしろ。黙ったまま、また逃げ出されてはたまらぬ」
「……まだ引っ張るんですか、それ」
「……私も、それなりに悲しかったのだ」
 泣きながら笑ってしまった。すみませんと言いながら涙を拭い、左手を掲げる。再び絡められて手の温もりを感じながら、アマーリエは誓う。
(帰れない都市を懐かしく思っても嘆いたりはしない。この人をずっと大事にする。この人と生きる。私は、ここで生きていく)
 運命を呪ったこともある。消えてしまえと世界にも自分にも吐き捨てるような思いを抱いたことも。でも今は喜びに変わっている。この人と出会ったことは素晴らしい物語だと、現金で我侭で身勝手な思い込みで、そう思った。
 夜空の星々に手は届かなくなった時代。しかし、胸に灯るのは星よりも強く優しい輝きだ。夜に一人息を潜めることはなく、傍らの温もりを感じていられる。ここでは、一人ではない、一人にはされないと、確かに信じていられた。だから、もう片方で身体を抱える手に手を添えて、繋がり合った。震えるこの心が、この人から離れないように。

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