―――― 第 9 章
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 目前に広がるのは雲海で、地上の様子は見渡せない。この山頂は高いところにありすぎて、いつか降ったような雨はやってこないのだった。白い海は地平まで広がる。青空は波紋も広げない。
 ――肩を叩いた雨、絡めた指を伝うのは思いと透明な温もり……――忘れていないけれど、同じ思いは二度と出来ない。波打たない青空では、地上の者と同じようには生きていることを実感できない。
 けれど彼女は未来を知っている。誰にでも、訪れる未来への光があることを。

   *

 とても、よく晴れた日のことだった。雨の気配はどうやら北の山脈の向こうで留まっているらしく、取り残された白雲がころころと浮かんでいる空が、天井に広がっている。マサキたちリィ家の一団も帰郷した翌日である。
「音?」
 アイたちが頷いた。
「連続して爆発するような音です。時々あるのですが」
 確かになにかばらばらと聞こえる。天空から音が降ることは、普通はあり得ない。アイたちが不安そうに呼びにきたことで、アマーリエはようやくその音が異常であることに気付いた。都市ではありふれた音だっただけに、それは異常な不安を持って響いてくる。部屋から空を覗き込めば、小さく細い影が飛んでいた。鳥、よりは歪みがないシルエット。
「ヘリコプターだ」
「へり……?」
「空を飛ぶ乗り物。変だね。リリスにも領空があるのに。領空侵犯じゃないのかな」
 ヒト族の機械が上空を飛んでいる。アマーリエは眉を寄せてすぐに口をつぐんだ。女官たちが不安そうに顔を見合わせたり、空を見上げていたりする。迂闊に領空侵犯などと口にしてしまったと後悔する。
 しかしアマーリエにも疑問がある。何故、その領空侵犯してまで都市のヘリコプターが上空を飛ぶのだろうか。キヨツグが、呼んだのだろうか。
 そして次の瞬間、ざあっと血の気が引いた。
「真様、どちらへ!?」
「キヨツグ様にお会いします。お願い!」
 裾をさばきながら反芻する。思い当たったのだ。自分が、都市に向けて何をしたのか。――水没した携帯電話は、陰干しして電源を入れてみると、無事に復活を遂げていた。しかしすぐに電源を切った。
 だが、例え壊れていたとしても、アマーリエが行ったことは決して取り消されるものではない。メールは、消えることがないのだ。そのメールを確認していなかった。
 政務の室に行くと、彼らもまた、廊下に出て空を見上げていた。キヨツグとカリヤが気付くのが同時だった。
「真様」
「どうした」
 他の官吏たちも気付いて、するすると動いてキヨツグの側を空ける。
「ヘリコプターが」
 キヨツグは瞬きをして、少しだけ表情を和らげた。
「大事ない。攻めてきたわけではなかろう」
「ええ……それは、分かっています」
「どういうことです?」
 カリヤが視線も口調も強めて問いかける。他の者たちも戸惑ったようにアマーリエを見て、一部には疑念もある。
 アマーリエはぐっと胸を押さえた。責任が、のしかかってくる。キヨツグは答えを待っているが、それでも彼はこの場に臣下たちといる責任で聞かねばならないのだ。そしてアマーリエ自身にも、説明責任がある。
「あれは、多分、報道のヘリです。……私のせいです」
「申し上げます!」
 駆けてきて、庭の砂利の上に膝を突いた兵士に、キヨツグは手を振って促した。
「境界に、ヒト族が押し寄せているとのこと! 皆、機械を手に、天様と真様にお話を求めております」
 キヨツグはアマーリエを見る。
「……メールを……機械で手紙を送ったんです、友人たちに。リリスとの同盟、その調印と引き換えに、私が政略結婚したんだ、と」
 人々がどよめいた。
「その噂が広まった」
 冷静なキヨツグの確認が痛い。唇を噛み締めて頷く。
 あれから一度もメール確認をしていない。友人たちがどんな反応をしたのか確かめることを怠った。悪意に似たものを投げつけるだけ投げつけて、混乱を呼んだだけ。
 忘れようとしていたという事実が、剣のように心を突き刺す。誰にも話していないから責められたわけではない。だが、苦しいくらい辛い。幸せはないと思っていてやったこと、なのに幸せを見出したからといって自分の行いをなかったことにしようなんて、虫が良すぎておぞましいくらいだった。幸せだから、もういらないと手放した。
 そして、事実は非常に苦しい。
「父さんは……やっぱりこのことを公表してなかった……」
 愛しているよと習いのように口にしていたのに。娘を差し出した苦しさを公表することが、責任ある地位にあるあの人を思えば愛情とは思えないけれど、しかし、やはりこの結婚はヒトとリリスの政略結婚だと思い知らされて。例えば、そう例えば、ほんの少しだけ噂になっていたのなら、誰かが自分を惜しんでくれたのだと思えるのに。
「なんてことを……」
「どう責任を」
「黙りなさい。如何致します、天様?」
 最もな人々の追求の声を制したのはカリヤだ。彼は下から覗き込むようにしてキヨツグに問いかける。さあどうするのだと逃げ道を許さない。
 対してキヨツグは一瞬痛ましげにアマーリエを見た。アマーリエは一瞬、向けられるのが慰めか叱責かを考えたが、しかし、彼にはすべきことがあると分かっていた。ふっと目がそらされ、伝令に向けられる。
「都市から連絡は?」
「まだでございます」
「都市代表者から面会の申し込みが参りました!」
 新しい兵士が飛び込んでくる。
「では離宮に。連れの者には面の着用を申し渡すよう。私が会う」
「私も行きます!」
 アマーリエにキヨツグは眉をひそめはしなかったが、しかしよくは思っていないのが分かる。現に困ったように名前を呟いた。それでもアマーリエは必死に言った。
「都市がリリスに対して誤摩化そうとしたら、分かるかもしれません。私がいることで噂の否定ができるかも。あの人たちは過剰に情報を流します。なんとかして、事実を知らせることができれば」
 その力の反動がこの事態である。同じ力をもってして解決できるとは、あまり思えないけれど。
 キヨツグが息を吐いた。顔を上げるのは、それが笑うような声に聞こえたからだ。
「あくまで自身の利用価値をうたうか」
 キヨツグの笑い方は普段とは全く違う、皮肉げで傲慢が垣間見えるものだった。「お前は世間話で手紙を送ったのだな?」
 え、と目を瞬かせる。
「結婚したことを、友人に報告したのだな?」
 ぐっと息を呑み込み顎を引く。
 彼は笑った。「来なさい」と言う。やはりこれも優しさが見えにくい堂々たる笑いだった。
「真様。お姿を整えさせていただきます。こちらへ」
 アイたちに連れられ違う部屋へ入りながら、颯爽と歩き去るキヨツグの背中を見て思った。優しいだけがキヨツグではなく、甘く許すだけがキヨツグではない。臣下を連れて大股に真っすぐ王宮を行くこの人は、やはり自分のものになるはずがない王様なのだと。


 応接に使われることになった離宮は、シャドから離れた、境界にほど近いところにあった。以前は族長家の別荘だったが、ヒト族との対面の必要性が現れてくると、そこを応接のための一砦としていたそうだった。王宮から馬と馬車を走らせ、数時間後に到着する。
 この離宮以上、ヒト族はリリスの土地に足を踏み入れることができない。聞いたところによると、面会を求めてきたのは都市庁の異種族交流課の数人ということだった。アマーリエを先導するリリスたちは覆いをつけている。ヒト族と面会する時は必ず面を着けるというリリスの習慣を目の当たりにしたが、アマーリエは頬を風に晒していた。
 都市からの使者は、草原のリリスの離宮ではよく目立った。木造の旧東洋風建築に、スーツとネクタイのお役所人はちぐはぐでそぐわない。キヨツグの入室に従って上座につく。衣擦れが消えても間を置いてから、キヨツグがねぎらった。
「よくぞ参られた」
「お目通りを許可していただきありがとうございます」
「報道が来ていると」
 挨拶を飛ばしてキヨツグが切り込めば、相手は詰まったように身体を震わせて、やがて流れ出した汗をハンカチで拭い始めた。
「は、はあ、ご、ご存知で」
「妻に聞いた」
 そこで、都市の人々はアマーリエにようやく気付いて目を見開いた。アマーリエは微笑んで、その一度面識がある代表者に礼をした。
「こんにちは。お久しぶりですね、都市の皆様。確か……モーガンさんでしたか?」
 政略結婚の話を聞く以前に、父と話していた彼をアマーリエは覚えていた。外交官である異種族交流課であったのと、その直後に政略結婚を言い渡されたために、彼が関係しているのだと思い返したからだった。なのによく自分のしたことを忘れようと思ったと、アマーリエは自嘲を相手への微笑みに変えた。
「は……は!」
 汗を拭うことも忘れてモーガンは頭を下げた。
「マスコミが押し寄せていると聞きました。私が送ったメールのせいでしょう。私は友人に対する世間話のつもりで送ったのですが」
 モーガンは愕然と顔を上げる。キヨツグは苦笑した。
「そなたらには悪いことをした。都市でどうなるか把握できぬ上、噂の否定も出来ぬ。事を大きくしてしまった。すまなかった」
 使者は、異種族の地でまさかそんな馬鹿馬鹿しいごまかしを、と言える人物ではないようだった。ぱくぱくとモーガンは口を開け閉めする。アマーリエは密かに謝罪した。リリスの土地まで寄越されるのだから、彼は貧乏くじを引かされた人物に違いない。でも、このくらいの意趣返しはさせてもらいたい。
「都市での対応はいかがする」
 はっとモーガンは我に返り、急いで汗を拭い出す。
「は、はあ。記者会見を開こうということになりまして。はあ、ええ、つきましてはリリスの方にもご出席願えないかと」
「しかし我らは都市に足を踏み入れられぬ。逆に、リリスにヒト族が足を踏み入れられては困る」
「そうですか、では、こちらでおこ、」
「待ってください」
 明らかに安心したようなモーガンがぎょっと固まる。
「私が、喋るということは可能ですか?」
 これにはキヨツグも驚いたらしい。目を見張っている。周囲の驚きはもっと大きい。モーガンなどはあんぐり口を開けてしまった。リリスの控えの者たちも何を言い出すのかと狼狽えてキヨツグを見ている。
 それを見て口を開いたことを後悔する。キヨツグが同席の許可を与えたのは、アマーリエの地位が彼の妻であるからという理由のはずだった。交渉役ではない。都市から使者が来たから、同じヒト族の妻を同席させた。求められた役から離れることは分を越えている。
 しかしそれでも、何も出来ない、させてもらえない、庇われたままなのは、嫌だ。
「会見ではなく録画にしましょう。台本を下されば喋れます。リリスを離れられませんが境界までなら行けますから、そこで」
「真」
 ため息をついてキヨツグは問うた。
「何を喋る」
「結婚によって同盟を得たことを。同盟のための結婚ではなく」
 どういうロマンスを書かれてもいい、美談に出来ればいいのだ。そうすればリリスに対する反感は消え、この地が乱されることはないだろう。アマーリエはキヨツグを見た。許可を下すのは、都市の人々ではなくキヨツグと分かっていたからだった。

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